17.エリスの不調
――それは二人がそろそろ公園から出ようというときのことだった。
「姉さん。送っていく前に、少し腹ごしらえしてもいい?」
「いいけど、腹ごしらえって?」
「寮の夕食までまだ時間があるからさ。何かお腹に入れておきたいんだ」
そう言われたエリスがシオンの指差す方へ視線を向けると、そこには一軒の屋外売店があった。
看板のメニューには、飲み物やサンドイッチ、ドーナツ、フレンチフライなどが並んでいる。
(シオンは食べ盛りだものね。そういえばエメラルド宮にいた頃、殿下と同じくらいの量を食べていた気がするわ)
シオンの現在の身長は170センチに満たないが、きっとまだまだ伸びるのだろう。
そんなことを考えながら、エリスはシオンと共に売店に向かう。
そうして、列に並んだまでは良かったのだが――。
「……っ」
(何かしら。……何だか、急に胃がムカムカするわ)
列に並んですぐ、エリスは突如として、言いようのない気持ち悪さに襲われた。
売店から漂ってくる油の匂いのせいだろうか。
最初はすぐに収まるだろうと考えていたエリスだが、その気持ち悪さは収まるどころか酷くなり、ものの一分も経たないうちに強烈な吐き気へと変わっていく。
そこでようやく、エリスは自身の身体の異常に気が付いた。
明らかに、何かがおかしい、と。
(……吐き、そう)
気持ちが悪い。頭が痛くて、耳鳴りがする。
目の前がくらくらして、今にも倒れてしまいそうになる。
――とにかく、気分が悪い。
(……急に、どうしたのかしら)
さっきまでは何ともなかったのに、いったい自分はどうしてしまったのだろう。
エリスは、込み上げる吐き気と、段々と遠ざかる意識の中、自身の異常を伝えようと、半歩前に立つシオンの腕に必死に手を伸ばした。
本当は名前を呼びたかったが、声を出せばたちまち、えづいてしまいそうだったからだ。
(……シオ……ン)
エリスの右手が、何とかシオンの腕を捉える。
けれどもう、限界だった。
「……っ」
(ああ……もう、無理……)
どうにかシオンの腕を掴んだまではいいものの、最早立っていることもままならず、エリスはズルズルとその場に崩れ落ちる。
するとシオンは、腕を掴まれたことでようやくエリスの異常に気が付いて、ギリギリのところでエリスの身体を抱き留めた。
――が、そのときにはもう、エリスは意識を手放した後だった。
「……姉さん?」
瞬間、シオンはさぁっと顔を青ざめる。
腕の中で力なく項垂れるエリスの姿に、シオンは全身の血の気が引くのを感じた。
「姉さん……? ねえ、どうしたの? ……姉さん、――姉さんったら!」
慌てて声をかけるが、エリスは小さな呻き声と共に瞼をわずかに震わせただけで、目覚める気配はない。
「――ッ!」
(どうしよう、どうしたら……)
シオンは焦りと恐怖のあまり、地面に膝を着けた体勢のまま、ブルブルと身体を打ち震わせる。
(……とにかく、病院。……そう、病院に……。でも、ここから一番近い病院って……)
シオンはエリスの身体を抱き締めながら、図書館周辺の地図を必死に思い浮かべようとした。
けれど、どうしても上手くいかない。覚えたはずの地図なのに、少しも思い出すことができないのだ。
「……くそッ」
もしも倒れたのがエリス以外の人間だったなら、シオンはいくらでも冷静に対処できただろう。
周りに協力を求めるなり、容態を正しく観察するなりできたはずだ。
病院の場所だって、辻馬車の御者に「一番近い病院に向かってくれ」と伝えれば済む話。
けれどエリスのこととなると、シオンは全く冷静さを保つことができなかったのである。
「姉、さん……っ」
(肝心な時に、僕は何て役立たずなんだ)
終いには、あまりの恐怖に、ガクガクと手足を震えさせる始末。
こんな状態では、エリスを抱えて馬車を捕まえることすら、ままならない。
――けれど、そんなときだった。
まるで救世主と言わんばかりに、人だかりを掻き分けて、一人の少女が駆け付けてきたのは。
「道を開けなさい!」
と、声を張り上げてシオンの前に現れたのは、明らかに貴族の装いをした一人の少女だった。
ラベンダーブラウンの髪と瞳に、陶器のようにつるりとした白い肌。猫のようなくりっとした瞳。
薄紫色の美しいドレスを身に纏い、白いレースの手袋をしている。年齢はシオンと同じほど。
一見、深遠の令嬢にしか見えない彼女は、けれどその愛らしい見た目とは裏腹に、開いたままの日傘を無造作に投げ捨てて、エリスの前で素早く腰を落とした。
そしてエリスの脈と呼吸を確認するような素振りを見せると、呆気にとられるシオンを、睨むように見据える。
「見たところ、脈も呼吸も問題ないわ。だから、そんなに狼狽えるのはおやめなさい」
「……っ」
思わず震えが止まるほど力強い瞳で見つめられ、シオンはますます呆気に取られる。
いったいこの女性は何者だろうか、と。
そんなシオンに、少女は諭すような声で続けた。
「でも顔色が悪いから、すぐにお医者様にお診せした方がいいわ。わたくしの屋敷が近いから、そこに運びましょう。――アンナ!」
「はいっ、お嬢様……!」
「あなたは先に行って、辻馬車を二台止めてらっしゃい。一台にはわたくしとこの方たちが乗るから、あなたはもう一台の馬車で、先生を呼んで屋敷に連れてくるの。できるわね?」
ようやく追いついてきた侍女は、主人の命令にコクリと頷き、放り捨てられた日傘を回収した上で、通りの方へ一目散に駆けていく。
少女はそんな侍女の背中を見送って、再びシオンを見据えた。
「あなた、名前は?」
強い口調で尋ねられ、シオンは言われるがまま答える。「シオン」と。
すると少女は、「シオンね。わたくしはオリビア。オリビア・ルクレールよ」と名乗りながら立ち上がり、シオンを遠慮なく見下ろした。
「ほら、あなたも早くお立ちなさい。それとも、わたくしの手助けが必要かしら?」
「――っ」
その挑発的な口調にプライドを刺激されたシオンは、ようやくいつもの冷静さを取り戻す。
今は呆けている場合ではない、と。
「いいえ、結構です。僕一人で運べます」
シオンは今度こそはっきり言い切ると、エリスを腕に抱えて立ち上がる。
そうして、オリビアの侍女が止めた馬車に飛び乗ると、オリビアの屋敷へと向かった。