12.誘い
(結局、さっきのアレは何だったんだ)
その後クロヴィスから解放されたアレクシスは、傾きかけた太陽の下、帰りの馬車に揺られながらセドリックの様子を思い出していた。
それはほんの数分前、クロヴィスからチェックメイトを宣言されたすぐ後のこと。
「もう行っていいぞ」と言われアレクシスが個室から出ると、そこにはグレーのハンカチを右手に握りしめ、神妙な顔で立ち尽くすセドリックの姿があった。
「……?」
(ハンカチ? それに、何だ、あの顔は)
セドリックは普段、余程のことがない限り取り澄ました顔を崩さない。
戦場で死角から弓矢が飛んでこようとも、顔色一つ変えずに剣で叩き落としてしまうほど、常に冷静さを失わない。
そんなセドリックが、思い詰めたように眉を寄せ、握りしめたハンカチをじっと見据えている。
その見慣れない姿に、アレクシスは違和感を覚えずにはいられなかった。
「セドリック?」
「……っ、……殿下」
「どうした、可笑しな顔をして。マリアンヌの用というのは、そのハンカチだったのか?」
「……ええ、まぁ」
アレクシスが尋ねると、セドリックは曖昧に呟き、ハンカチを胸の内ポケットにしまい込む。
「いつかお貸ししたハンカチを、わざわざ返しにきてくださったようで」と、付け足して。
その返答に、アレクシスは一層違和感を覚えた。
本当にハンカチを返しにきただけならば、セドリックがこれほどまでに動揺するはずがないのだから。
けれどセドリックは、アレクシスが「それだけか?」と尋ねても、「それだけですよ」と答えるだけで、それ以上は語ろうとしなかった。
(まさか、セドリックが俺に隠し事をするとはな)
アレクシスは馬車の窓から街の賑わいを眺め、静かに目を細める。
いや、『隠し事』は流石に言いすぎか。
別にセドリックは、嘘をついたわけではないのだろうから。
(実際、マリアンヌの用事は『ハンカチを返しにきた』、それだけだったのだろう。だがセドリックには、あれほどまでに驚かなければならない理由があった)
つまりセドリックは、『驚いた本当の理由』を言わなかった。それだけなのだ。
その理由が気にならないと言えば嘘になる。
けれど、セドリックが「言わぬ」と決めたなら、それ以上聞く必要はない。
(そうだ。あいつが言わぬということは、俺には関係のないことなのだろうから)
アレクシスは自身の心を納得させるべく、そう言い聞かせた。
◇
エメラルド宮に戻ると、いつものようにエリスが出迎えてくれる。
「本日もお疲れ様でございました。お早いお帰り、嬉しいですわ」と言って、柔らかな笑みを投げかけてくれるエリスを前にすると、先ほどまで感じていたセドリックに対するモヤモヤが、嘘の様に消えていった。
(ああ、やはりエリスの笑顔は凄いな。心が洗われるようだ)
アレクシスは脱いだコートを侍従に預けながら、エリスに微笑み返す。
「今日くらい、君とゆっくり過ごしたくてな。細々したことは部下に任せて帰ってきてしまった」
昨日までは、何だかんだあって帰宅は夜十時を過ぎるのがザラだった。
それでもエリスは毎晩必ず起きて待っていてくれたが、共に過ごせたのは、睡眠時間を除けばほんの二、三時間程度。
だからアレクシスは、今夜こそはエリスとゆっくり過ごすと決めていた。
とはいえ、今の時刻は午後五時を回ったころ。少々中途半端な時間である。
さて、どうするか――と考えた末、アレクシスはエリスを散歩に誘うことにした。
「夕食まではまだ時間があるだろう。すぐに着替えてくるから、庭を散歩でもしないか?」と。
本音を言えば、今すぐ寝台に連れ込みたいところである。
が、ここのところアレクシスは毎晩エリスを抱き続けており、この時間から事に及ぶのは流石に色々と憚られた。
かと言って、エリスと個室に二人きりになってしまえば、手を出さずにいられる自信はない。
となると、残る選択肢は二つ。使用人らの目のある場所で過ごすか、屋外に出るかである。
だがエリスは、そんなアレクシスの葛藤など全く素知らぬ様子でこう言ったのだ。
「散歩も良いのですけれど、その前に、部屋に来ていただけませんでしょうか」と。
アレクシスは目を見開く。
「……君の部屋に、か?」
「はい。もしくは、殿下のお部屋でも……」
「…………」
(これは、誘われていると思っていいのか?)
アレクシスは一瞬都合よく考えたものの、いいや、きっと違うのだろうと内心大きく首を振った。
エリスのことだ。もっと何かしら健全な理由があるに違いない。
アレクシスは邪念を追い払うように息を吐き、どうにか平静を取り繕う。
「では、着替えたら君の部屋に行こう。それでいいか?」
「……! はい、では、お部屋でお待ちしておりますね」
アレクシスの答えに、エリスはほっとしたように息を吐き、足早に去っていく。
そんなエリスの背中を、アレクシスはどうにも気まずい気持ちで見送るのだった。