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11.チェスと兄心


 翌日から、エリスはさっそく作業に取り掛かった。

 マリアンヌの予定が空いているときは皇女宮で、そうでないときはエメラルド宮の自室にて。


 芸術に詳しいマリアンヌの助言を受けながら、コンパスと定規、パターンプレートを使ってアラベスク模様をデザインしていく。

 エリスは刺繍が得意だが、服への刺繍は初めてだったため、デザインにはとても気を遣った。


 図案が完成したら、襟と裾に丁寧に写し、そのあとはもう作業だ。

 刺繍枠にピンと張った布に、いくつかの縫い目ステッチを組み合わせながら、根気よく糸を入れていく。


 エリスは昔から、無心で布に針を通すこの時間が好きだったこともあり、作業はすこぶる順調だった。


 またマリアンヌの方も、最初はたどたどしく自分の指に針を刺したりしていたが、一週間も経つと一人で花や動物のワンポイント刺繍ができるほどになった。

 刺繍が苦手だとは思えないほどの上達ぶりである。――というより、マリアンヌの場合、苦手だと思い込んでいた、と言った方が正しいのかもしれない。


 というのも、これはマリアンヌに刺繍を教え始めてすぐに気付いたことだが、マリアンヌは今まで、絵を描く要領で刺繍の図案をデザインしていたようなのだ。


 美術館に絵を納めるほどの画力と技術を持つマリアンヌの図案は、それはもう美しく、繊細だった。糸も十数種類も必要とするような、複雑な図案。

 そんな図案を形にしようとする過程で、マリアンヌは何度も挫折を繰り返した結果、すっかり刺繍に苦手意識を持ってしまったらしい。


 エリスはそのことを、シャツの図案についてマリアンヌから助言を受けた際に気が付いた。

 ならば、と、『まずはワンポイントの刺繍から始めましょう』とマリアンヌの意識を軌道修正したところ、上手くいったというわけだ。



(よし、我ながら上出来だわ。マリアンヌ様はどうかしら)


 自分の刺繍に一区切りついたエリスは、マリアンヌの手元に視線を向ける。


 するとそこには、男物のグレーのハンカチに、黄色のふわふわとした小花を咲かせた、ミモザの刺繍が完成していた。

 葉っぱには濃い緑とシルバーグリーンの二種類の糸を使っており、色合いも申し分ない。

 贈り物プレゼントにしても、全く問題ない出来だろう。


(ミモザの花言葉は『友情』だけれど……この帝国で刺繍入りのハンカチを異性に贈ることは、特別な意味を持つのよね)

 

 ということはやはり、贈る相手は好いた男性に違いない、と確信を得たエリスは、「ミモザ、とても素敵ですわ。色合いなんて特に」と声をかける。


 するとマリアンヌは心底嬉しそうに、「エリス様のおかげよ。本当にありがとう」と微笑むので、エリスは尚のこと、マリアンヌの恋の成就を願わずにはいられなかった。



 ◇



 そんなこんなで、あっという間に演習の出立前日となった日の昼下がり、アレクシスはどういうわけか、第二皇子クロヴィスのチェスの相手をさせられていた。


 時刻はちょうどアフタヌーンティーに相応しい時間帯。

 場所はクロヴィスの執務室の奥に備えられたプライベートルームであるため、観客はゼロである。



「さあ、お前の番だよ、アレクシス」

「…………」

「言っておくが、わざと負けようなどとは考えるなよ? 私には全てお見通しだ」

「そのような心配は無用です」


 クロヴィスの挑発に、アレクシスは真顔で返す。

 ――が、実際に心の中で思っていたのは、こうだ。


(なぜ俺はこんなところでチェスをしているんだ。一刻も早く帰ってエリスと過ごさなければならないのに)

 と。



 アレクシスは黒の歩兵ポーンを動かしながら、十五分前のことを思い出す。


 それは明日に備えて早めに帰ろうと、セドリックと共に執務室を出てすぐのこと。

 アレクシスはクロヴィスと廊下で鉢合わせし、呼び止められた。


「何だ、もう帰るのか? ――ふむ。ならば一局付き合え。話しがある」と。


(……一局チェス、だと?)


 クロヴィスとのチェスにいい思い出のないアレクシスは、「話ならここで。チェスは遠慮します」とすぐさま切り返した。


 けれどクロヴィスは「ここでは話せない内容だ」と譲らなかったため、しぶしぶ付いてきたところ、なし崩し的にチェスをすることになり、今に至るというわけだ。



(にしても、側近を全員追い払うとは……)


 今、隣の執務室に待機しているのはセドリックただ一人。

 いつもならクロヴィスに張り付いているはずの三人の側近は、「お前たちは下がれ。一時間暇をやる」というクロヴィスの一声で、一斉に部屋から出て行ってしまった。


(余程聞かれたくない内容なのか? だが、ならばなぜセドリックは残されたんだ? 兄上の考えることは、昔からよくわからん)


 アレクシスは、「兄上の番ですよ」と言いながら、対面に座るクロヴィスの様子を伺う。


 チェス盤の乗った丸テーブルの反対側で、椅子の背面にゆったりと背を預け、優美な笑みを浮かべるクロヴィス。


 アレクシスが一手打つ度に興味深そうに目を細め、鋭い手で斬り込んでくるその表情は、本気で自分とのチェスを楽しんでいるようにしか見えない。

 が、実際は決してそうではないことを、アレクシスははなから悟っていた。 



(やはり兄上は強い。セドリックならともかく、俺では歯が立たんな)


 クロヴィスのチェスに対する姿勢は、昔から少しも変わっていない。


 勝つべきときには勝ち、負けるべきときには負ける。

 クロヴィスにとってチェスとは、戦い方や勝敗のつけ方、ゲームの間に交わす言葉の一つ一つまで、すべてが政治の一部だった。


 相手を生かさず殺さず、戦意を喪失しないギリギリのところを責め続けるときもあれば、相手を立たせるために、そうと気付かせずに気持ちよく勝たせてやることもある。


 それらは全てクロヴィスの圧倒的な強さの成せる技だったが、けれどどういうわけか、アレクシスに対してだけは一切の容赦がなかった。


 つまり、アレクシスは未だかつて一度もクロヴィスに勝てたことがないのである。 

 そのせいで、五十敗を超えたころから勝とうという気すら持てなくなってしまった。



(ま、手を抜かれるよりは百倍マシだがな)


 アレクシスは適当に駒を動かしながら、本題を問う。


「で、兄上。話とは何です。もしや、例の港でまた密輸でも?」

「…………」

きんの次は宝石か、あるいは麻薬……、……兄上?」


 実は、アレクシスが明日からの軍事演習に急に参加することになったのは、クロヴィスから「港の様子を見てこい」と命じられたからだった。


 一年前に起きた金の密輸事件。

 税関をすり抜け外国から持ち込まれた純度の低い金が、帝国内で高値で売却されている――ということが発覚し、事態を重く受け止めた政府がこれに介入。関係者一同を摘発、検挙した事件である。


 関係していた業者は多額の罰金を科せられた上、営業停止を余儀なくされた。

 港を治めていた領主も摘発されたが、調査の結果、領主と密輸船との直接的な関係は認められず、処罰を免れた、という経緯がある。


 その後は特に何の問題も起きていないと報告が上がっているが、今回の軍事演習先の駐屯地は、ちょうどその港の側。


 その為クロヴィスは「軍事演習のついでならば、皇族が港を訪れても何らおかしくはない。いい牽制になるだろう」と、アレクシスに演習参加を命じたのである。


 そういう理由で、アレクシスの演習参加は『急遽』決まった。アレクシスの訪問を、前もって知られないようにする為だ。


 そんなわけで、アレクシスはクロヴィスの話が「密輸」に関することなのではと踏んでいたのだが……どうやら違ったらしい。


「いや、港の件は先日話した通りで変わりない。お前には、渡したリストの店舗を回ってもらうだけでいい。あくまで客としてな」

「でしたら、話というのは?」


 港の件でなければいったい何だというのだ。


 不審に思いながら再度尋ねると、クロヴィスは表情一つ変えず、黒のルークを淡々と取りにくる。

「お前ではない。用があるのはセドリックの方だ」と言いながら。


「セドリック?」

「ああ。本当はセドリックだけを連れ出すつもりだったのだけどね。お前と久々にチェスをするのも悪くないと思い、こうして誘ったのだ」

「…………」


 ますます意味不明である。


 ――が、そう思うと同時に、隣の執務室に誰かがやってきたようだ。

 壁越しに聞こえてくるセドリックの対応で、その人物がマリアンヌであることに気付いたアレクシスは、これ幸いと席を立った。


「先約があるのでしたら、俺はこれで失礼して――」

「待ちなさい。話があると言ったろう」

「いや、話があるのは俺ではなくセドリックなのでしょう? でしたら、俺は不要では」

「それはそうだが、そうではない。セドリックに用があるのは私ではなくマリアンヌだ。……まったく、セドリック本人は気付いているというのに、主人のお前がそれではな」

「…………」

「さあ、席に着きなさい。勝敗はまだ決していないよ」

「…………」


(いったいどういうことだ? まったくもって意味がわからん)


 結局、クロヴィスはそれ以上説明する気がないようで、アレクシスは何もわからないまま再び席に着かされる。


 その後は、執務室からマリアンヌが居なくなり――それと同時に「チェックメイト」と宣言されるまでの間、チェスに付き合わされたのだった。

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