9.初秋の朝
しばらくはライトなお話です。さらっと、お手すきの際にでも読んでいただければ幸いです。
社交シーズンも終わりを迎え、季節が夏から秋に移り変わったある朝のこと。
エリスがいつもどおり食堂で朝食を取っていると、対面に座るアレクシスが言いにくそうに切り出した。
「実はな、エリス。三週間後に行われる軍事演習に、急遽俺も参加せねばならなくなったんだ。それで、しばらく……というか、演習が終わるまでは休みが取れそうにない。すまないが、約束していた街歩きは、演習から戻ってからでいいだろうか?」――と。
「…………」
その言葉を聞いたエリスは、おもむろに、ナイフとフォークを持つ手を止めた。
――軍事演習、という聞き慣れない単語を頭の中で繰り返し、不意に思い出す。
(そう言えば、シオンが何か言っていた気がするわ)
どこからそんな話題になったのかは覚えていないが、シオンがまだ宮に滞在していたとき、帝国の軍事演習についてこのように語っていた。
『この辺の国は毎年秋になると、帝国主導で合同軍事演習をするんだ。参加国は毎年変わるんだけど、今年はランデル王国も参加するって王国内で話題になってたよ。去年は第七師団が取り仕切ってたから、順番通りなら今年は第一師団かな』――と。
その記憶を思い出すと同時に、エリスの脳裏に過ぎったのは昨夜のアレクシスの挙動不審な態度で、エリスはようやく腑に落ちた。
ああ、なるほど、と。
(何か言いたそうにしているなと思ったら、こういうことだったのね)
実は三日前、エリスはアレクシスと街歩きデートの約束をしたばかりだった。
どうやらアレクシスは、建国祭のときエリスに街を案内できなかったことをずっと気に病んでいたらしく、『貴族たちが領地に戻るこの時期ならば、知り合いに声をかけられることもないだろう。今なら気兼ねなく街を歩ける。君に帝都を案内したい』と、エリスを誘ってくれたのだ。
当然、エリスは喜んで頷いた。
三月に帝国に嫁いできてから七ヵ月が過ぎたというのに、未だ二人きりでは出掛けたことがなかったからだ。
(街歩きって、いったい何を着ていったらいいのかしら。マリアンヌ様とお茶をするときの様なドレス……は駄目ね。目立ちすぎるわ。殿下はいったいどんな格好を……って、そう言えばわたし、軍服か部屋着姿の殿下しか見たことないわ。それって、妻としてどうなのかしら……)
エリスは、そんな風に考えてしまうくらいにはデートを楽しみにしていた。
それが、まさか約束してたった三日で反故にされるとは……。
エリスは内心ショックを受けた。けれど、すぐに思い直す。
別にアレクシスは、デートをしないと言っているわけではないし、仕事なのだから仕方ない。
それに今一番気に病んでいるのは、自分ではなくアレクシスの方なはず。
その証拠に、アレクシスはまるでこの世の終わりとでもいうかの表情で、こちらの顔色を伺っているのだから。
「殿下、どうかそのようなお顔をなさらないでください。確かに残念ではありますが、約束自体が無くなるわけではないのですから。殿下と出掛ける日を楽しみに待つ時間も、わたくしにとっては、とても尊いものですもの」
「そうか……そう言ってもらえると……。演習後は、必ず休みを取ると約束する」
「はい、そのときを楽しみにしております。ところで、出立の日は決まっているのでしょうか? お戻りは、いつごろに?」
アレクシスは普段、エリスに仕事の話はしない。
軍の扱う情報は、そのほとんどが機密事項であるからだ。
エリスはそのことをよく理解していたため、自分からアレクシスの仕事について尋ねることはなかった。
けれど、演習で宮を空けるというのなら、その日程くらい聞いても罰は当たるまい。
アレクシスはエリスの問いに一瞬考える素振りを見せたものの、話しても問題ないと判断したのか、このように説明してくれた。
「出立は十日後。戻るのはその一月後の予定だ。今年の演習実施地は帝国最南西の駐屯地だからな。演習自体は七日間の予定だが、道のりはそれ以上……馬で片道十日以上の距離がある。天候状況によっては二週間ほど延びるだろう」
「最南西、ですか。それは……とても遠いですわね」
「共和国との国境付近だからな。まあ、それなりの距離にはなる」
「……危険はないのですよね?」
「あくまで演習だからな、その心配はない。毎年、酒に酔って夜の海に飛び込む奴は出るが……まあ、それぐらいだな」
「…………」
酔った状態で夜の海に飛び込む? 果たしてそれは大丈夫と言えるのだろうか?
エリスは不安を覚えたが、演習自体に危険はないのだと一応は理解する。
「出立までに、わたくしにできることはありますか?」
最後に――と言った風に尋ねると、アレクシスは驚いたように目を見開いた。
まさかそんなことを聞かれるとは……という顔で息を呑み、一拍置いて、口を開く。
「そう、だな……。俺は君が健やかに過ごしてくれさえすればそれでいいんだが……強いて言うなら、夜、起きていてくれると嬉しい」
「夜、ですか? でも、それっていつもと変わらないのでは……」
そもそも、エリスはここ一月ほど、毎日アレクシスと寝台を共にしているのだ。
それを考えると、今アレクシスが言った願いは、何一つ特別ではないことのように思えた。
アレクシスもそれは理解していたのか、「それはそうなんだが」と言葉を続ける。
「演習までは色々とやることが多くてな、帰りが遅くなりそうなんだ。夕食は宮廷で取ることが多くなるだろう。だが、必ず日付が変わるまでに戻るようにする。だから、待っていてくれるか?」
「……っ」
その乞う様な眼差しに、エリスは顔を赤らめた。
言われなくても待っているつもりだったが、こんな風に言われると、恥ずかしくて返って返事がしずらくなってしまうではないか。
そんなことを思いながら、エリスはこくりと頷く。
「はい。わたくし、起きて殿下をお待ちしております。ですから、必ず毎日帰ってきてくださいね」
「――! ああ、勿論だ」
するとアレクシスは満足したのか、フッと頬を緩める。
その後急いで食事をかき込むと、「では行ってくる。できるだけ早く帰れるようにする」と言い残し、セドリックと共に宮廷へと出掛けていった。




