4.翌朝
翌朝、アレクシスは目を覚まして早々に絶句した。
隣に裸のエリスが寝ていたからだ。
「――ッ!?」
彼は驚きのあまりベッドからずり落ちかけて、けれどなんとかバランスを持ち直し――ようやく昨日のことを思い出す。
そうだ。自分はこの女と結婚したのだった、と。
――それにしても、夕べ酒を煽りすぎたせいか、記憶が殆ど抜け落ちてしまっている。
エリスとの閨事を見送ろうとする自分に、側近のセドリックが薬を差し出してきたところまでは覚えているのだが……。
(あいつ……薬の量を間違えたのか……?)
いや、あのセドリックのことだ。間違えなど万に一つも有り得ない。
とするなら、やはり記憶の喪失は酒のせい……ということになるが。
何にせよ、この状況から察するに初夜は無事に済んだのだろう。
記憶がほぼ飛んでしまっているので、実際のところはわからないが……。
アレクシスは大きく溜め息をついて、自分の着ていたバスローブはどこだろうかとあたりを見回した。
そうして、再び言葉を失った。
なぜなら、アレクシスの視線の先――シーツの上に、本来あるはずのない赤い染みができていたからだ。
処女でなければできるはずのない、くっきりとした血痕が。
考えるまでもなく、それはエリスの血に違いなかった。
「…………は?」
(待て。この女……純潔だったのか?)
瞬間、脳裏に蘇る昨夜の記憶。
エリスに向かって"脱げ"、"お前を愛する気はない"と言い放ったことや、その後の、手荒……などという軽い言葉で片づけられないほどの所業。
確かにそれらは全て本心から出た言葉だったが、その最たる理由はエリスが幾人も男を取り替えるような、ふしだらな女だと聞いていたからだ。
それなのに、まさか乙女であったとは……。
「…………」
アレクシスはさぁっと顔を蒼くして、口元を手のひらで押さえる。
自分は取り返しのつかないことをしてしまったのでは――と。
◆◆◆
そもそも、この結婚はアレクシスの望んだものではなかった。
ことの発端は二週間前に遡る。
長い遠征からようやく帰還したアレクシスは、報告のために側近のセドリックを伴って、第二皇子クロヴィスの執務室を訪れた。
クロヴィスとは、今年で二十五になるアレクシスの異母兄で、皇帝の第一夫人――つまり皇后の長子のことだ。
この帝国では女帝が認められているために、第二皇子でありながら帝位継承権は第三位だが、次期皇帝に最も相応しい人物だと言われている。
現在は内政を担当しており、金髪碧眼の眉目秀麗かつ頭の切れる皇子だ。物腰も柔らかで、帝国民からの信頼も厚い。
だが笑顔の裏で何を考えているのかわからないところがあり、アレクシスは昔から苦手意識を持っていた。
アレクシスが部屋に入ると、クロヴィスは執務卓から顔を上げニコリと微笑んだ。
「やあ、久しいな、アレクシス。北部はどうなった?」
「特にどうということは。いつも通り力づくでねじ伏せてやりましたよ。詳細はこちらに」
アレクシスは事務的に答え、書類を提出するとさっさと部屋を後にしようとする。
けれどそんなアレクシスを呼び止めるクロヴィスの声。
仕方なく振り向くと、クロヴィスが満面の笑みで自分を見つめていた。
その笑顔に、アレクシスの胸に一抹の不安が過る。
(この笑顔、嫌な予感しかしない)
そう思ったのも束の間、クロヴィスの口から信じられない言葉が放たれた。
「お前の結婚相手が決まったよ。式は二週間後だ。準備をしておきなさい」と。
瞬間、アレクシスは戦慄した。
――ヴィスタリア帝国には現在十二人の皇子がいる。
うち成人している皇子はアレクシスを含めて四人だが、いまだに未婚なのはアレクシスだけだ。
クロヴィスに至っては正妻の他に側室が三人もいる。
皇族は一夫多妻が認められているため、二十二歳を迎えたアレクシスが未婚というのは有り得ないことだった。
にも関わらず、アレクシスはずっと結婚を拒んできた。
それは、どうしても結婚できない彼なりの理由があったからだ。
それなのに、まさか自分の知らないところで結婚相手が決まったなどと……。
もはや驚きすぎて言葉が出ないアレクシスの代わりに、側近のセドリックが問う。
「結婚ですか? 縁談ではなく?」
「ああ、結婚だ。側室だがな」
「……お相手は」
「スフィア王国の公爵家の娘だ。王太子の婚約者だったらしいが、異性問題を起こして破談になったと」
「そのような方が、アレクシス殿下の奥方に?」
「そうだ。異性問題云々については、当然先方は隠していたがな。我が帝国相手に隠し通せると思っている愚かさが、田舎の小国らしいというか」
「…………」
開いた口が塞がらないセドリック。
アレクシス本人も、怒りに肩を震わせる。
「陛下に抗議しにいく」――と、全身に殺気を纏わせて。
だがそんなアレクシスを、クロヴィスは冷静な声で引き止める。
「陛下は視察でいらっしゃらない。式の前日までお戻りにはならないそうだ。諦めなさい」
「馬鹿を言うな……! 我が帝国の皇子妃は王女であると慣習で決まっている。それをあのような小国の公爵家……それも、異性問題で破談になった女を妻にしろと言うのか!?」
アレクシスは激高した。
あまりにも横暴な話だろう、と。
だが、クロヴィスは冷静な態度を崩さない。
「私もそうは思うけどね。いい相手は今まで何人もいたのに、お前が全員追い払ってしまっただろう? 陛下はそんなお前の行動に酷くお怒りだった。つまり、これはお前への罰ということなのではないかな」
「――ッ」
ぐうの根も出ないアレクシスに、クロヴィスは一枚の書類を押し付ける。
「これが相手の情報だ」と微笑みながら。
結局アレクシスはそれ以上何も言い返せずに、書類を雑に受け取ると、不満一杯の様子で執務室を後にした。