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8.夏の宵


 シオンがエメラルド宮を去って、一週間が経った日の夜。


 寝支度を終えたエリスの部屋には、蒸留酒の入ったグラスを片手にソファでくつろぐアレクシスと、その片膝に頭を乗せ、緊張に身を固めるエリスの姿があった。


 時刻は午後九時を回ったころ。

 部屋の灯りを落とすにはまだ早く、エリスはどうしようもなく赤く染まってしまう頬を、照明の下に晒していた。



「顔が赤いな。まだ慣れないのか? もう五日目だぞ」

「……っ」


 アレクシスは誘う様な目で、エリスの瞳を真上から覗き込む。


 ――この一週間、伽の前にこうして膝枕をするのが、二人の日課となっていた。

 シオンがエリスに膝枕をしてもらっていたことをうらやんだアレクシスが、「俺にもしてくれないか」とせがんだことがきっかけだ。


 こうして最初の二日はエリスがアレクシスを膝枕していたのだが、三日目の夜にアレクシスが「交代しろ」と言い出して、それ以降何やら味を占めてしまったのか、エリスが膝枕される日が続いている。



(こんな体勢、一生慣れるわけないわ……。それに、殿下の膝は硬くて……すごく……落ち着かない)


 五日が経った今も、どうにもソワソワしてしまう。


 この膝枕タイムが終わったら、灯りを消してベッドイン――という流れが決まっていることも、慣れない理由の一つかもしれない。

 

「あの、殿下……。そろそろ代わっていただけませんか? わたくしが膝枕させていただきますから……」


 エリスはぎこちなく視線を上げる。

 だがアレクシスは、当然のごとく拒否した。


「駄目だ。確かに君の膝枕は何物にも代えがたい温もりがあったが、見下ろす方が俺の性にあっている。それに、横になっていたら酒が飲めないだろう。君が口移しで飲ませてくれると言うなら別だが」

「……っ」


 アレクシスはエリスの顔を覗き込んだまま、くっと片方の唇を持ち上げる。

 その挑発的な笑みに、エリスの心臓は、どうしようもなく鼓動を速めた。


 とても直視していられない。


「……わたくし、お酒は飲めないのです。ご存じでしょう?」


 エリスはふいっと顔を横に背けるが、アレクシスはそれさえも愛おしいと言うように、表情を緩める。


「わかっている。が、酔った君の姿を見てみたいという願望があるのは事実だ。君の白い肌が紅潮する様を想像すると、全身の血がたぎって剣すらまともに握れなくなる」

「――っ」


 ――甘い。と言うか、エロい。


 エリスは、今ではすっかり見慣れたはずの、白いバスローブから覗く厚い胸板から放たれる色気に当てられ、両手で顔を覆った。


 開け放たれたバルコニーからは、夏の終わりの清涼とした空気が流れ込んでくるが、そんなものではどうにもならないくらい、身体が火照って仕方ない。

 お酒なんて一滴も口にしていないのに、アレクシスの言動がいちいち色気を含みすぎて、酔わされてしまうのだ。


(恥ずかしくて、顔から火を噴きそうだわ)



 シオンがいなくなる前までのアレクシスは、何を伝えるにもぎこちないところがあった。

 言葉も、触れる指先も優しかったけれど、全てにおいて遠慮している節があった。


 それが変わったのは一週間前。シオンが宮を去ってからだ。



 走り去るシオンの背中を追いかけようとしたエリスを、「あいつも男だ。一人にしてやれ」と言って止めたアレクシス。


 彼は、それでも尚反論しようと口を開きかけたエリスの唇を無理やり塞いで遮ると、拗ねたような声でこう言った。


「今日はもうその名を口にするな。いくら君の実弟と言えど流石に妬ける。君の夫はこの俺だ」


 と。


 今にして思えば、あのときの台詞は、シオンのことばかり考えて悩む自分の思考を、別のところに逸らすためのものだったかも、と思えなくもない。

 が、そのときは驚きすぎて、そんなことを考えている余裕はなかった。


 結局エリスは放心状態のまま部屋に連行され、気付いたときにはベッドの上。


 その後、「二週間我慢したんだ。今夜は寝かさない。覚悟しろ」と耳元で囁かれた言葉の通り、朝まで抱きつぶされたのである。――勿論、同意の上でだが。



 エリスがその夜のことを思い出していると、不意に、アレクシスがシオンの名を口にする。


「そうだ、エリス。シオンが昨夜、学院の寮に移ったそうだ。今日セドリックから報告があった」

「――!」


 その内容にエリスは一瞬瞳を見開くと、そっと身体を起こし、感情を押し殺す様に微笑んだ。


「そうですか。一週間もセドリック様にお世話になって……次お会いしたら、直接お礼を申し上げなければなりませんわね」

「礼? ……礼か。あいつが好きでしたことだから、必要ないと思うがな」

「そういうわけには参りませんわ。わたくしは、あの子の姉ですもの」


 そう。シオンは宮を去ってからの一週間、セドリックに世話になっていた。

 セドリックが、「シオンのことを気に入った」という理由で。


 だが、それが単なる気遣いに過ぎないということを、エリスは理解していた。――というより、そうとしか考えられなかった。


 とは言え、せっかくの好意を無下にするのも悪いし、シオンを一人にしておくことに心配が拭えなかったエリスは、セドリックの申し出を有難く受け取ったのだ。



「そんなに心配なら、手紙を書いたらどうだ?」


 アレクシスは、膝枕をやめてしまったエリスの腰を引き寄せると、今度は膝の上に座らせる。

 するとエリスは頬を染め、けれど、拒絶する様に瞼を伏せた。


「手紙は書きません。わたくし、決めましたの。あの子の方から連絡してくるのを、いつまでも待つと」


「…………」


 そのかたくなな眼差しに、アレクシスは困ったように眉を下げる。

 我が妻はなかなかに強情だ、と。


(……だが、そこもいい)


 そう思ってしまうのは、惚れた弱みであろうか。


 ――が、このままではまた、エリスの心はシオンでいっぱいになってしまう。

 それを危惧したアレクシスは、悩みに悩んだ末、最後の一手を打つことにした。


 アレクシスはグラスに残った酒を一気に飲み干しテーブルに置くと、エリスの身体をさっと腕に抱き抱え、ソファから立ち上がる。


「きゃっ」と小さく悲鳴を上げたエリスの顔を至近距離で覗き込み、悪巧みをする子供の様に微笑んだ。


「君に一つ、いいことを教えてやろう」

「いいこと、ですか?」

「ああ。これを聞いたら、きっと君もシオンの見る目が変わる」

「……?」


 アレクシスは、不思議そうに自分を見上げるエリスをベッドまで運ぶと、部屋の灯りを一つだけ残し、他を手早く落として回る。

 そうして自分もベッドに横になると、エリスの身体を腕に抱き寄せ、こう尋ねた。


「君は、シオンの成績表を見たことがあるか?」


「成績表、ですか?」


 予期せぬ質問に、エリスは眉を寄せた。

 が、やや逡巡した末、慎重に答える。


「直接見たことはありませんわ。ですが父からは、『中の下』だと聞いております。最も、父は決してシオンを褒めませんでしたから、実際は『中の上』くらいだと思うのですが。……でも、どうしてそのようなことを?」


 質問の意図がわからず困惑顔のエリスに、アレクシスは「やはりな」と呟いた。


「それは間違いだ。シオンは少なくともここ六年、毎年次席を取っていた。つまり、君の実家に送られていた成績表は、シオンが学長に頼んで用意させた偽物だ」

「……っ」


 突然語られた内容に、エリスは大きく目を見張る。


「そんな……偽物だなんて。それにあの子が次席だなんて、信じられませんわ」

「だが確かな事実だ。俺は実際の成績表を見たからな。それも、主席は王族に譲り、敢えて・・・の次席だ。次席までは学費が全額免除されるから、それで十分ということだったのだろう」

「学費の免除……? ですが父は、毎年学費を学園に振り込んでおりましたのよ。そのお金は、いったいどこに……」

「ああ。俺もそれが気になってセドリックに調べさせたら、シオンはその金を学園側から受け取り、投資していたことがわかった。投資先は金融業、建設業、造船業、金属加工業など多岐に渡るが、どれも有望な投資先ばかりだ。まさか貴族であるシオンに商才があったとは、恐れ入った」

「……そんな……あの子が……そんなことを」


 エリスはいよいよ困惑を深める。


 あの純粋で真面目なシオンが、学園を巻き込んで成績表を偽造し、浮いた学費で投資をしていたなどと言われても、まったくもって信じられなかった。

 けれど、アレクシスが言うのだから間違いない。嘘をつく理由もないのだから。


「でも、いったいどうして……。もしや殿下は、理由をご存じなのですか?」


 エリスは真剣な顔で問う。

 するとアレクシスは、思い当たることがあると言った風に、ほんの一瞬視線を揺らした。


「理由か。……そうだな。大方予想はついているが、これは俺の口から言うことではない」

「そんな……! ここまで話しておいて、肝心なところは秘密だなんて……!」

「そう言うな。俺の考えとて、あくまで予想に過ぎないんだ。それに本人のいないところで秘密を話されては、シオンだっていい気はしないだろう?」

「ですが……」


 シオンが父親を欺いてまでお金を集めなければならなかった理由。


 それはきっと、自分を廃嫡しようと目論む父親に対抗するためだった。

 万が一のときに困らぬよう、備えておく必要があったからだろう。


(最初はエリスと市井に下るために溜めたのかとも考えたが、そもそもエリスは王太子と婚約していたというからな。となると、あの金はあいつが自身のために溜めたもの)


 つまり、シオンはそれほどまでに追い詰められていたと考えることもできる。

 が、アレクシスは、それについてエリスに伝える気はさらさらなかった。


 なぜならエリスは、父親がシオンを廃嫡しようとしている事実に、少しも気付いていないのだろうから。


(こんなところで、エリスにいらぬ心配を与える必要はない。シオンとて、同じ気持ちだろう)


 アレクシスは、不満を漏らすエリスの顎をくいっと持ち上げ、諭すような声で続ける。


「あまり難しく考えるな。俺が言いたかったのは、君がシオンを心配しすぎる必要はないということだ。あいつは君が思っているよりも賢く優秀だし、今はもう君だけではなく、俺とセドリックもついている。…………だから君は、俺だけを見ていればいい」

「――!」

 

 瞬間、エリスはハッと息を呑んだ。


『俺だけを見ていればいい』


 と言ったその声が、あまりにも甘く、心地よく響いたからだ。



「……で……んか……?」



 薄暗い部屋のベッドの上で、アレクシスの角ばった手のひらが、エリスの頬を優しく撫でる。

 

 どこか乞う様な、熱情を含んだ眼差しで。

 甘く絡みつくような声で、「エリス」――と、そう囁く。



「もう一度言う。君は、俺だけを見ていろ」


「……っ」


 刹那、エリスは突如として、腹の奥が何かに突き上げられる様な、奇妙な感覚に襲われた。

 それが、アレクシスに刻みつけられた身体の記憶だと気付くのに、さして時間はかからなかった。 


 途端、エリスはかあっと顔を赤らめて――といっても、暗い中では顔色を悟られることはないが――コクリと首を縦に振る。


 するとアレクシスは唇にゆるりと弧を描き、満足げに呟いた。


「そうだ。それでいい」――と。



 アレクシスは最早何も躊躇うことなく、溢れ出す熱情にまかせ、エリスの唇に深く口づけるのだった。


シオン編はこれにて終了です。予想外に話数を使ってしまいましたが、お付き合いくださりありがとうございました!

次話からはライトな話になります(多分)。

引き続きお楽しみいただけると幸いです…!

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