7.シオンの選択
瞬間、シオンは、さぁ――と全身から血の気が引くのを感じた。
未だかつて見たことのない、女の顔をした姉の姿を目の当たりにし、息が止まりそうになった。
なぜならそれは、シオンがこの二週間必死に目を逸らそうとしてきた、『二人が真の夫婦である』という、何よりの証拠だったのだから。
「……姉……さん?」
言葉を失うシオンの視線の先で、仲睦まじく抱き合う二人。
予期せぬ弟の登場に慌て始めるエリスと、口づけを邪魔されたことに不快感を露わにするアレクシス。
そんな二人の様子に、シオンはきゅっと唇を引き結んだ。
(ああ……そうだよ。最初からわかってたじゃないか。姉さんはもうずっと前から、僕の知る姉さんじゃないんだって)
つまり、セドリックの言ったことは当たっていたのだ。
この二週間、エリスはいつだって理想の姉だった。
昔と変わらず自分を愛し慈しむ、清廉な姉でいてくれた。
けれどそれはあくまでエリスの一面でしかなく、本当の彼女は、もっと色々な顔を持っている。
だがそれを、弟である自分には決して見せられなかったのだ。
それはきっと、エリスが自分に気を遣っていたからで。
いい姉であらねばと、そう思っていたからで――。
(そうなんだね、姉さん。……姉さんは、僕が側にいたら、本来の姉さんではいられないんだね……?)
思えばこの十年、エリスは手紙の中でさえ、一度だって弱さを見せてくれたことはなかった。
シオンがどれだけ『姉さんは大丈夫なの?』と尋ねても、エリスは『ええ、こっちは上手くやってるわ。だから何も心配しないで』と強がるばかりだったのだから。
それなのにどうしてシオンが祖国でのエリスの惨状を知っていたのかと言えば、それは当然、祖国の屋敷の使用人を給金の三倍の金額で買収し、定期報告させていたからなのだが――とにかく、エリスはシオンの前ではどこまでも良き姉だった。
自分の苦労はひた隠しにし、祖国を追い出された可哀そうな弟を気遣い、励ます、心優しい姉。
実際、何も知らなかった幼い頃のシオンは、そんなエリスの温かい言葉に、どれだけ救われたかわからない。
だが、ある程度年齢を重ね、全てを知ってしまったときから、エリスの振る舞いは憐憫を誘うものでしかなくなった。
酒癖の悪い父親と、礼儀知らずの継母、そして、腹違いの妹クリスティーナに虐げられる毎日。
食事を抜かれ、屋敷からは出してもらえず、折檻を受けることも日常茶飯事。
更に、継母とクリスティーナは使用人にも辛く当たるので、人を採ってもすぐに辞めてしまう。
メイドも従僕もコックも次々と減っていき、ついにエリス自らが使用人の仕事をせねばならなくなるほどだった。
シオンは、そんなことばかりがびっしり書き綴られた報告書を読むたびに、胸が苦しくてたまらなくなった。
どうして姉は僕を頼ってくれないのか。愚痴の一つくらい言ってくれてもいいじゃないか――そう苛立ちを募らせるほどに。
だが終ぞエリスは、ユリウスから婚約を破棄されたことも、帝国に嫁ぐことさえ教えてはくれなかった。
(結局僕は、姉さんの弟以上にはなり得なかった)
罪悪感云々を抜きにしても、エリスにとって自分は『頼れる相手』ではなく、あくまで『守り、庇護する対象』でしかない。
それはシオンがこの二週間、嫌と言うほど思い知らされた現実でもある。
(だったらもう、僕ができることは一つしかないじゃないか)
このままここに居ても、自分の望みは叶わない。どころか、エリスの負担になるばかりだと言うのなら、ここから出ていく以外にない。
シオンは、この一連の内容をトータル二秒で思考し終えると、平静を装うように、顔に笑みを張り付けた。
エリスの「セドリック様とのお話は終わったのね?」という問いに答えるべく、唇を開く。
「うん、終わったよ。だけど僕、この話は断ろうと思ってここに来たんだ」
「――!」
「やっぱり、名ばかりの『小姓』っていうのは良くないと思うし、昼間の自分の行動も、僕なりに反省してるから。少し自分を見つめ直す時間がほしいなと思って。つまり……僕、これから荷物をまとめて出ていくから、その挨拶に」
「……っ」
刹那、エリスは困惑気に眉を寄せた。だがそれも無理からぬこと。
シオンは昼間、エリスと暮らしたいがために、二階から飛び降りようしたのだから。
「でもシオン、あなた……昼間はあんなに……」
「そうだね。昼間は確かにああ言ったけど、あのときは冷静じゃなかったんだ。……ごめんね、姉さん、心配かけて。でも、ここを出ていったからって、今後ずっと会えないわけじゃないし。授業が休みの日は、会いにくるから」
「――っ」
シオンは、驚きのあまり放心したエリスに、ニコリと笑みを投げかける。
『僕はもう大丈夫』、そう伝わるよう祈りながら。
そして今度はアレクシスへと身体を向け、「二週間、お世話になりました」と感謝を述べる。
するとアレクシスは、意外そうに目を細めた。
「本当にいいんだな? 俺は、二度も機会をやるような優しい人間ではないぞ」
「わかっています、殿下。僕は、一度決めたことは守ります。だから殿下も約束してください。姉を必ず幸せにすると。それと……絶対、泣かせたりしないって」
「…………」
その言葉に、アレクシスは今度こそ眉をひそめた。
自分に対抗心を燃やしていたはずのシオンが、まるで自分を認めるようなことを言ったのだから、驚くのも当然だ。
(こいつ、急にどうしたんだ……?)
アレクシスは一瞬そう思ったものの、一呼吸おいて、答える。
「ああ、当然だ」――と。
そして、こう続けた。
「だが、これだけは覚えておけ。エリスの幸せの中には、お前が幸せであることも含まれているとな」
「……!」
「だから、いつでもエリスに会いにこい。泊めてはやらんが、歓迎する」
「…………は、い」
『いつでも会いにこい』――その言葉に、シオンは奥歯を強く噛みしめる。
そうでもしなければ、うっかり泣いてしまいそうだった。
いや、事実シオンは、今まさに目じりに涙を溜めていた。
今が夜でなければ、彼はもっと早いタイミングで、この場から立ち去っていただろう。
とは言え、これ以上何か声に出せば、たちまち嗚咽に変わってしまうだろう自覚があったシオンは、くるりと二人に背中を向ける。
今にも声が震えだしそうなギリギリのところで、どうにかこうにか別れの挨拶を絞り出す。
「では……僕は、これで」と。
そしてその言葉を最後に、シオンは一目散に走り去るのだった。
◇
一方、今の一部始終をエリスの部屋のバルコニーから見ていたセドリックは、安堵の溜め息をついた。
シオンが突然部屋を飛び出したときはどうなることかと思ったが、それ以前のやり取りで『宮を出ていく』方にシオンの意思が傾いていることを感じていたセドリックは、『ここまで誘導したのだから、なるようになるだろう』と、追いかけるのを止めたのだ。
結果、その選択は間違っていなかった。
ここからでは声は聞こえないものの、シオンの走り去る様子から、彼が『宮を去る』決断を下したことは明白だ。
つまり、セドリックの願う通りの結果になったわけだ。
セドリックは、本棟の方へ消えていくシオンの背中を見送り、疲れた様子で前髪を掻き揚げる。
(殿下が彼を『小姓』にすると言い出したときは、正直どうしようかと思ったが……)
――今、彼の中にあるのは、大きな安堵と小さな罪悪感だった。
セドリックは今日まで――シオンが感じていたとおり――露ほどもシオンに興味を持っていなかった。
舞踏会では少々やらかしてくれたシオンだが、そもそもの首謀者はジークフリートであったし、セドリックから見たら、目的も手口もかわいいもの。
エリスの前では猫を被り、嫌いな相手には敵意を示す――なんともわかりやすく単純な性格のシオンを、警戒する必要はなかった。
二週間前に突然エメラルド宮にやってきたときは流石に驚いたが、アレクシスに危害を加えるような馬鹿な真似はしない辺り、一応頭は回るらしい――となれば、ますますその思考は予想しやすく、いざとなればいつでも追い出すことのできる、そんな相手でしかなかった。
だが、セドリックにとって『どうでもいい存在』だったシオンが、アレクシスの一言によって一瞬のうちに『敵』となった。
セドリックはアレクシスを慕うあまり、シオンがアレクシスの『小姓』になることを、どうしても受け入れられなかったのだ。
だからセドリックは、自らの過去を語ってシオンを脅し、思考を捻じ曲げようとした。
そうまでして、シオンを遠ざけようとしたのである。
(自分のしたことに後悔はない。が、彼には申し訳ないことをした)
本来なら、アレクシスの決定にセドリックが口を挟むことは許されない。
身勝手な私情でシオンを煽り、本来シオンが選んだであろう道を選ばせないようにするなど、もってのほかだ。
だがそうとわかっていても、そうせざるを得なかった。
つまり、今回のことに限って言えば、シオンは被害者なのである。
――となれば、せめて宿の手配くらいはしてあげなければ。
あるいは今夜一晩くらいならば、自分の部屋に泊めることもやぶさかではない。
そんなことを考えながら眼下を見下ろすと、どうやらアレクシスの方も上手いこと話がまとまったようだ。
アレクシスはエリスを腕に抱え、速足でこの棟の入口に向かってくるところだった。
これからお楽しみの時間ということだろう。
セドリックはそんな二人をじっと見下ろし、物憂げに瞼を伏せる。
どうかこの穏やかな日々が一日も長く――願わくば、一生涯続くようにと祈りを捧げながら。
「さて……邪魔者は一刻も早く退散せねば」
――と薄く微笑んで、セドリックは部屋を後にしたのだった。
シオン編(?)は残り一話です!