6.優しさの理由
◆
――時は数分前に遡る。
セドリックからアレクシスの昔話を聞かされたシオンは、まさに『選択』を迫られていた。
『アレクシスの小姓になるか、今夜中に宮を出ていくか』という選択である。
けれど実質、選択肢は一つしかないと言っても過言ではない。
シオンはセドリックから、『殿下に害を成す存在だと判断したら、お前を排除する』という意思を示されたからだ。
それは脅し以外の何物でもなかった。
実際シオンが、「それは脅しですか?」と尋ねると、セドリックは平然と答える。
「そう思ってくださって構いませんよ。私は、エリス様の弟としてならばあなたを受け入れられても、殿下の小姓としては、認めるわけには参りませんから」と。
その言葉を聞いたシオンは、何よりも真っ先にこう思った。
――なるほど。だからセドリックは、急に態度を変えたのか、と。
今日までシオンは、宮廷舞踏会の夜を除き、セドリックと挨拶程度しか話したことがなかった。
エメラルド宮で顔を合わせても、向こうから話題を振ってくることはまずないし、あくまで『他人』といった態度で接してくる。
つまり、『セドリックは自分に全く興味がないのだろう』――というのが、この二週間のシオンの見解だった。
そんなセドリックが、今頃になって突然態度を変えたものだから、シオンはとても驚いた。
アレクシスの悲惨な過去よりも、セドリックの態度の変化への衝撃の方が大きかったほどだ。
だが、その理由はセドリックの今の言葉によってはっきりした。
セドリックはアレクシスにしか興味がなく、そして、どこまでもアレクシスの幸せを願っている。
だから彼は、『アレクシスの小姓』という、アレクシスに最も近い立場に収まりかけている自分を、牽制しているのだろう。
(この男、殿下の十倍は厄介だ)
シオンは、対面に座るセドリックの様子を伺いつつも、瞼を伏せる。
正直、彼は悩んでいた。
シオンは、アレクシスの小姓にはなりたくないが、それでエリスの側にいられるなら安いものだと思っていた。
この十年、エリスのことだけを考えて生きてきた彼にとって、これはまたとないチャンスだった。
けれど同時に、『本当にそれでいいのか。この提案に乗っかるということは、自分の負けを認めていることになるのでは』という気持ちが沸いてくるのも事実。
昼間、自殺未遂まがいの騒ぎを起こし、エリスや使用人に心配と迷惑をかけた自分。
そんな自分を『処罰』するどころか、むしろ『善意を与えてくる』アレクシスと比べ、自分はどれだけ器が小さいのだろう――と。
もしここでこの提案を受け入れたら、自分は今後一生、アレクシスに恩を感じて生きなければならなくなるのでは。そんな屈辱に耐えられるのか、と。
(お金なら後でいくらだって返せる。でも、地位や立場はそうはいかない)
そもそもシオンは、学院を卒業後、アレクシスに学費も滞在費用も全て返済するつもりでいた。
だから、アレクシスに何の遠慮もするつもりはなかった。
だが、小姓などになってしまったらそうはいかない。
――そんな風に考えてしまう自分の打算的なところにも、惨めな気持ちが込み上げた。
(僕は姉さんの側にいたい。でもそれは、ただの僕の我が儘だ。姉さんのためじゃなく……僕のため)
自分は、アレクシスやセドリックとは違う。
『姉の幸せのため』と口では言いながら、心では全く逆のことを考えている。
心に浮かぶのはいつだって、『アレクシスと姉が不仲であれば』『アレクシスに他に好きな人がいれば』『二人の心が離れれば』――自分が姉を手に入れることができるのに、という、邪な感情ばかりなのだから。
「……僕は……」
認めたくなかった。自分の心の弱さを、どうしても認めたくなかった。
大切な人の幸せを願うこともできず、かといって、欲望に忠実に生きることもできない中途半端な自分。
エリスのためには宮を出ていくべきだとわかっているのに、決断できない自分が心底情けない。
――だが不意に、そんなシオンの中にとある疑問が沸いてくる。
それがどうしても気になったシオンは、おずおずと口を開いた。
「あの……セドリック殿、一つ、お尋ねしてもいいですか?」
「? ええ、どうぞ?」
セドリックは一瞬驚いた顔をしたが、答える姿勢を見せてくれる。
シオンはそんなセドリックに、『この人は、根っこのところでは善人なのだな』と思いつつ、問いかけた。
「どうしてセドリック殿は、ここにお住まいではないのですか? 先ほどの話からすると、あなたは爵位をお持ちでない。つまり、比較的自由の効く身のはず。それでいて殿下の側近ならば、小姓と同じく、この宮に住まうこともできるのでは? それなのに、どうしてそうなさらないのですか?」
「――!」
「教えてください、セドリック殿。僕なら、大切な人の側には少しでも長くいたいと考える。でもあなたはそうしない。それは、いったいどうしてなのです?」
すると、セドリックは何かを考えるように目を細める。
「……そうですね。理由は色々とありますが……」
そして、もの悲し気に微笑むと、静かな声でこう言った。
「殿下はあれから十年以上が経った今も、私に負い目を感じていらっしゃる。そんな私が昼も夜も共にいたら、殿下の心が休まらないでしょう? まあ、それは恐らく、エリス様も同じだと思いますが」――と。
◇
そうして今現在、セドリックの言葉の意味を瞬時に悟ったシオンは、居ても立っても居られずに部屋を飛び出し、暗い庭園を駆け抜けていた。
「姉さん……!」――と、姉の名を恋しく呼びながら、月明りだけを頼りに、エリスの姿を求めてひた走る。
――今、シオンを駆り立てているのは強い焦燥だった。
セドリックの答えを聞いたシオンは、どうしてもエリスに確かめなければならないと思った。
『この二週間、姉さんがずっと一緒にいてくれたのは、僕に負い目を感じていたからなのか?』――と。
自分を泊めるようアレクシスに頼んてくれたことも、毎日お茶を振る舞ってくれたことも、エリスとアレクシスが二人きりにならないよう邪魔をする自分を、決して咎めなかったのも……。
(すべては、幼い弟を守れなかったことに対する、罪悪感のせいだった……?)
そんなはずないと思いたいのに、一度考えだすと止まらなくなる。
愛故と思っていたエリスの行動が、実際は負い目からくるものだとしたら、自分はなんと愚かなことをしてしまったのだろう、と。
「姉さん……! どこにいるの……!?」
シオンは、昼間のエリスの青ざめた顔を思い出し、強い後悔に苛まれた。
『姉さんと一緒にいられないなら、生きる意味なんてない……!』――そう叫んで手すりに足をかけた自分の腰に縋り付き、必死に止めてくれたエリス。
あのときエリスは、いったいどんな気持ちでいたのだろう。
実際の気持ちは、本人に聞いてみなければわからない。
けれど少なくとも、いい気持ちはしなかったはずだ。
それどころか、エリスは自身を責めたかもしれない。
自分の配慮が足りなかったから、弟を追い詰めてしまったのでは。
もっと大切にしてあげていれば、弟がこんな行動に出ることはなかったのに――そう思った可能性だってある。
(姉さんに、謝らないと……!)
『心配をかけてごめんなさい』と、伝えなければ。
そして、一刻も早く姉を安心させてあげなければ。
すると、そう思った瞬間だった。
暗がりの向こうに見覚えのある二人分の人影を見つけ、シオンは声を張り上げる。
「姉さん……!」――と。
けれど、彼はすぐに後悔した。
なぜなら、間の悪いことに、二人はたった今口づけを交わそうとしていた、その瞬間だったのだから。