5.それぞれの葛藤
「私は今でも、ずぶ濡れで戻られたあの日の殿下のお顔を忘れることができません。――当時、女性には特に強い嫌悪感を示されるようになっていた殿下が、『少女に命を救われた』と、頬を赤く染めていたのですから」
「――!」
「もうお分かりですよね? 殿下はあの日、恋をされたのです。あなたの姉君のエリス様に、命のみならず、心までも救われたのです」
「……っ」
刹那、シオンは言葉を失った。
まさかアレクシスに、そんな悲惨な過去があるとは思いもしなかったからだ。
(殿下の初恋が姉さんであることは、姉さんから直接聞いていたけど……)
彼は既に知っていた。十年前ランデル王国で出会った少年が、アレクシスであったことを。
この二週間の間に、エリスから直接聞かされていたからだ。
「ねぇシオン、覚えてる? わたしたち、十年前にランデル王国で、湖に落ちた男の子を助けたことがあったでしょう? ほら、二人で宿を抜け出して、迷子になったときの」――と。
忘れるはずがなかった。
エリスと離れるのが嫌で、「姉さんと離れたくない」と我が儘を言った自分のことを。
そのせいで迷子になり、エリスを不安にさせたこと。
けれど街を彷徨う最中、切羽詰まった表情の年上の少年を見つけたエリスが、謎の正義感を発揮して少年をどこまでも追いかけたこと。
その後、湖のほとりで、何かを取ろうと手を伸ばして水に落ちた少年を、エリスと共に助けたことを――。
とは言えシオンは、エリスにこの話を聞かされるまで、その少年がアレクシスだったとは思いもしなかったけれど。
(にしても、僕にこんな話をするなんて……いったいどういうつもりで……)
内心、シオンは動揺していた。あまりにも不自然な状況に、困惑を隠せなかった。
自分に『処分』を言い渡すはずのセドリックが、突然語った十年前の真相に、どう反応すればいいのかと。
もしやセドリックは、自分の同情心を買い、自ら身を引かせるつもりなのだろうか――などと考えてしまうほどには混乱していた。
そんなシオンの考えを読み取ったのか、セドリックは静かな声で告げる。
「私は、別にあなたに同情してほしいとも、殿下の状況を理解してくれとも思ってはおりません。ただ、知っていただきたいのです。あなたに辛い過去があるように、殿下にも、私にも、耐えがたい過去がある。そしてその重さは、決して比較できるものではないということを」
セドリックは、続ける。
「殿下は、あなたを『小姓』にしてもよいと仰っておりました。小姓にしては少々とうが立ちすぎておりますが、殿下の小姓であるならば、私同様、男子禁制のこの棟に立ち入ることが許されますから」
「……!」
「ですが、ならば尚のこと、あなたは知らねばなりません。殿下は身内の愛に飢えている。そのせいで、血の繋がりのある者にはとても弱いのです。あなたがエリス様の弟である限り、殿下はあなたが何をしようと、決して無下にはなさらない。――ですが私は違います。もしもあなたが殿下に害を成す存在であると判断したそのときは、殿下の命に逆らってでも、あなたを排除するでしょう」
「――っ」
セドリックの冷えた眼差し。
その奥に潜む殺意は間違いなく本物で――シオンはごくりと息を呑んだ。
セドリックは、尚も続ける。
「さあ、シオン殿。今の話を踏まえた上で、あなた自身がお決めください。殿下の小姓になるのか、ならないのか――ご自分の意志で」
◇
一方その頃、アレクシスは夜の庭園にいた。
まさかセドリックがシオンに昔話を語っているなどとは少しも考えず、彼はエリスと腕を組み、月明りの下、夏の夜風に当たっていた。
――が、二人の間に会話らしき会話はない。
どころか、どこか気まずい雰囲気すら漂っている。
その理由は、アレクシスの「シオンを小姓にしようと思っている」という発言を聞いたエリスが、突然黙り込んでしまったからだった。
(……何だ? 俺は何か不味いことを言ったか?)
アレクシスはチラリと横目でエリスを見下ろし、自分の発言を振り返る。
が、先の言葉以外、特にエリスに何か言った覚えはない。――ということは、だ。
(まさかエリスは、シオンがここで暮らすことに反対なのか? それとも、俺の小姓にはしたくない、ということなのか……?)
この二週間、どう見てもエリスはシオンを可愛がっていた。
だからアレクシスは、喜ばれこそすれ、このような態度を取られるとは夢にも思っていなかった。
沈黙に耐えきれなくなったアレクシスは、エリスに尋ねる。
「君は、シオンと暮らしたくはないのか?」
するとエリスは、驚いたように顔を上げた。
「いいえ、そんなはずありませんわ……!」と。
そして、思い詰めた様な顔で、こう続けた。
「殿下のお気持ちは、とても嬉しいです。けれど、あのような騒ぎを起こしたあの子を小姓にするというのは、わたくしにとっても、あの子にとっても、甘すぎる気がしてならないのです。それにあの子は、あまりにもわたしにべったりで……あのままでは、殿下のお役にはとても立ちませんわ」
「――!」
「申し訳ありません、殿下。この二週間、あの子を甘やかしてしまったわたくしがいけなかったのです。まさかあんなことを言い出すとは思っておらず……反省しております」
「……っ」
突然の謝罪に、アレクシスは狼狽える。
エリスがそんなことを考えていたとは思いもしなかったからだ。
それに、どうやらエリスには、自分がシオンに甘いという自覚があった様子である。
てっきり無自覚なのかと思っていたアレクシスは、何よりもそのことに衝撃を受けた。
(エリスは、思っていたよりもずっと冷静にシオンのことを考えていたんだな)
――だがしかし、自分はもう既に、「小姓になるか、今夜中に出て行くか、シオンに選ばせろ」とセドリックに命じてしまった。
その言葉を今さら覆すというのは自分のポリシーに反するし、それに何より、アレクシスがシオンを小姓にすると言い出したのは、別にシオンがエリスの身内だったからというだけではない。
「エリス。君の考えは理解した。だが、俺の意見も聞いてくれるか?」
アレクシスは、エリスと組んでいた腕をそっと放し、正面から向かい合う。
するとエリスはこくりと頷いた。
――アレクシスは、冷静な声で告げる。
「確かに君の言うとおり、俺は甘いのかもしれない。実際、今の俺はシオンに同情している。侍女から『シオンが泣いた』と聞かされ、俺自身、十二のときに帝国を離れていたときのことを思い出したからだ。そのとき俺にはセドリックがいたが……六つという幼さで独り家を追い出されたシオンは、俺よりもずっと孤独だっただろう」
「……殿下」
「だからもう少しくらい、君と過ごす時間を与えてやってもいいと思った。とは言え、いつまでも客人として置いておくことはできないし、妃の弟を、使用人として雇うわけにはいかないからな。だからこその『小姓』だったが、実際に俺の世話をさせるつもりはないし、そもそも昼間は学院があるだろう。だから、あいつはあいつで好きに過ごしてくれればいいと思っている。――まぁ、あいつが小姓になることを望めば、だがな」
「――!」
刹那、エリスはハッと息を呑む。
アレクシスの語ったシオンの扱いが、想像よりもずっと優しかったからだ。
だが同時に、彼女はとても心配になった。
エリスの弟を『小姓』にするというだけでも身内びいきが過ぎるのに、更に客人扱いの待遇となれば、口さがない貴族たちは、裏でどんな噂を立てるかわからない。
それが、どうしても気掛かりだった。
すると、そんなエリスの気持ちを悟った様に、アレクシスはほんのわずかに口角を上げた。
それはエリスが初めて見る、アレクシスの笑顔だった。
「……っ」
瞬間、エリスの心臓がドクンと跳ねる。
優しくて、温かくて、けれど同時に、とても寂しいアレクシスの微笑み。
エリスはその笑みに、息が詰まるような、喉元を締め付けられるような心地がした。
(殿下の笑顔……初めて見たわ)
月明りに煌めく黄金色の瞳に見つめられ、息をするのも忘れてしまいそうになる。
それでもエリスは、必死に言葉を絞り出した。
「本当に、殿下はそれでよろしいのですか?」――と。
するとそれに答えるように、笑みを深くするアレクシス。
「ああ、俺が決めた。二言はない。――とは言え、全てを自由にさせるつもりはないから安心しろ」
「……? それは、いったいどういう……」
「そうだな。具体的には、夜十時以降のこの棟への立ち入りは禁止、だとかな。――俺はもう、君と過ごす時間を誰にも邪魔させるつもりはない。それがたとえ、君の愛する弟であろうとも」
アレクシスはそう言うと、エリスの腰に手を回し、華奢な身体を引き寄せた。
驚くエリスを腕に抱き締め、余裕なさげに息を吐く。
「二週間ぶりだ。……君をこうして抱き締めるのは」
「……っ」
「君はどうだったか知らないが、俺は随分我慢したんだ。――戦地で男たちが妻を恋しがる理由を、嫌と言うほど理解した」
悩まし気な声で囁かれ、エリスはカァッと顔を赤くする。
つい先ほどまで真面目な話をしていたせいで、全く心の準備ができていない。
だが、実はエリスもこの二週間、似たような気持ちでいたのは事実だった。
だからエリスは、顔から火を噴きそうな恥ずかしさに耐えながら、必死に伝える。
「あっ……あの、……殿下……」
「何だ?」
「実は、わたくしも……同じ気持ちでおりました」
「……っ」
「シオンの手前……とても言い出すことができず……、でも心では……殿下のことを、いつも恋しく思っておりました」
「――ッ!」
瞬間、今度はアレクシスの顔が赤く染まる。
自分への想いを懸命に伝えようとするエリスの姿に、愛しさが溢れて止まらなくなった。
と同時に鼓動が一気に早まって、下半身が熱を持ち始める。
この二週間、必死の思いで抑えていたエリスに対する欲望が、今にも理性を吹き飛ばしてしまいそうになった。
――ああ、今すぐにでも押し倒してしまいたい、と。
だが、残念ながらここは屋外である。そんなことができようはずもない。
(くそ……、なんで俺は話し合いの場を室内にしなかったんだ……! 部屋の中であれば、今すぐ事に及べたものを……!)
アレクシスは、十数分前の自分の選択を恨みながら、エリスの後頭部に手を回す。
外であっても、口づけくらいならば許されるだろう。どうせ誰も見てやしない。
いや、見られたところで構わないではないか。自分たちは、正真正銘の夫婦なのだから。
――アレクシスはそんな気持ちで、エリスの唇を塞ごうとした――そのときだった。
まるでこのタイミングを見計らったかのように、「姉さん……!」と叫び声がして、二人はハッと顔を向ける。
するとそこにあったのは、息を切らせ、アレクシスを睨むように見据えるシオンの姿だった。