4.セドリックの追憶
それは悲劇だった。
十二年前、アレクシスとセドリックが十歳のとき、アレクシスの母親であるルチア皇妃が馬車の事故で命を落としたこと。また、そのとき一緒に馬車に乗っていたアレクシスの乳母――セドリックの実の母親も亡くなったこと。
それによって後ろ盾を失ったアレクシスの周りからは、手のひらを返したように人がいなくなり、王宮内に居場所を失っていったことを、セドリックは淡々と語った。
「当時、皇帝陛下には既に十名以上の奥方がいらっしゃいましたし、皇子は八名、皇女は十二名おりましたから、陛下はルチア皇妃が亡くなったことや、残されたアレクシス殿下に興味をお示しになることはありませんでした。そもそもここ帝国では、皇子や皇女らは成人するまで、陛下と顔を合わせることは殆どありません。教育も人脈も、すべて母方の血筋がものを言います。その様な状況で、殿下が王宮内で孤立されるのは、必然とも言えました」
セドリックは静かな声で続ける。
「それでもその後一年の間は、ルチア皇妃の兄君――つまり殿下の伯父であり、親帝国派でもあったスタルク王国のマティアス王弟殿下の御助力のおかげで、なんとか立場を保つことができておりました。が、その後マティアス王弟殿下が亡くなられたのを機に、アレクシス殿下のお立場は一気に悪化。――スタルク王国が、帝国に反旗を翻したからです」
「――!」
これを聞いたシオンは、無意識のうちに息を呑んだ。
今より丁度十年前、スタルク王国が帝国との戦争に敗れ、女子供に至るまで王族全員が首を刎ねられたのは有名な話。
だが、そのきっかけまでは知らなかったからだ。
驚きを隠せないシオンに、セドリックは尚も語る。
「こうして、私たちは王宮内でますます冷遇されるようになりました。私の母は、ルチア皇妃が帝国に輿入れする際、スタルク王国から遣わされた反帝国派の宰相の娘でしたから……」
つまりセドリックの母親には、生前、帝国内の機密情報をスタルク王国に流した容疑がかけられたのだ。
「誰もが母を疑っておりました。母の遺品は全て押収され、手元に残ったのは遺髪だけ。けれど殿下だけは、母の無実を信じてくださった。私ごと切り捨てることもできたのに、決してそうはなさらなかった。かと言って、まだ子供だった私たちには、母の疑いを晴らす術はありませんでした。――結局その後、帝国はスタルク王国との開戦を決定。王宮内での居場所を完全に失った殿下と私は、クロヴィス殿下の計らいにより、ランデル王国に送られました。その後終戦までの間、教会の孤児院で身を潜めて過ごすことになったのです」
当時の記憶が思い出されるのだろう。
セドリックは時折息苦しそうに顔をしかめるが、それでも、語るのを止めようとはしない。
「あの頃の私たちは、すっかり疲れ切っておりました。言語も文化も異なる土地で、不自由な暮らしを強いられ、いつ祖国に戻れるのかもわからない。そんな生活の中、元々身体の弱かった私は伏せりがちになりました。薬も効かず――まぁ、今思えば精神的なものだったのでしょうが――けれど私が最も気がかりだったのは自分の身体ではなく、すっかり人間不信に陥っていた殿下のことでした」
「…………」
もはや完全にその場の雰囲気に呑まれたシオンは、言葉一つ発することができなかった。
セドリックはいったいどうして自分にこんなことを話すのだろうか――強く疑問に思いながらも、それを口に出すことはどうしても憚られた。
――が、その疑問の答えを、シオンはすぐに知ることになる。
「けれど」――と、セドリックが声色を変えた、すぐあとに。
「ランデル王国で過ごし始めて二ヵ月が経ったある日、殿下はエリス様と出会われたのです」
◆◆◆
それは夏の暑い日の、日暮れ頃。
王都の端に位置する教会の孤児院――その中の病人用の隔離された小部屋の硬いベッドの上で、セドリックは今日も伏せっていた。
夏風邪を拗らせてしまっていたからだ。
最初は少し熱っぽいくらいのものだったのだが、アレクシスに心配をかけまいと我慢していたら、三日前にとうとう倒れてしまい、治る気配を見せないまま今日に至る。
「リック、薬の時間だ」
セドリックが休んでいると、頭上から不意に声がした。
瞼を開けると、そこにはベッド脇の丸椅子に腰かけて、自分を心配そうに見下ろすアレクシスの姿がある。
「……殿下」
セドリックが呟くと、アレクシスは小さく眉を寄せた。
「お前、いつまで俺をそう呼ぶつもりだ? ここでの俺は『殿下』じゃない。『アレックス』だ」
「……ああ、そうでした。つい……」
「まぁ、俺も咄嗟の時は『セドリック』と呼んでしまうけどな。――それで、リック。気分はどうだ? 起き上がれるか?」
「はい、大丈夫です」
アレクシスに問われ、セドリックは笑みを取り繕う。
実際は最悪な気分だったが、アレクシスにこれ以上心配をかけるわけにはいかなかった。
身体を起こしたセドリックがベッド脇の四角いテーブルに目をやると、粉薬と水の入ったコップが用意されている。
「ちゃんと全部呑み干すんだぞ」
「わかってますよ。子供じゃないんですから」
――セドリックは、この薬に効き目がないとわかっていた。
三日前から朝夕飲み続けているが、症状は改善するどころか悪化するばかりだからだ。
けれどもし薬を拒否すれば、アレクシスに要らぬ心配をかけてしまうだろう。
それだけは、避けたかった。
セドリックは、込み上げてくる吐き気に耐えながら、粉薬を一気に水で飲み下す。
するとアレクシスは、セドリックが薬を飲み干したのを確認し、安堵の息を吐いた。
「お前、そろそろ何か食べられそうか? ここ数日、水しか口にしていないだろう。少しは食べないと、身体が持たない」
「……あ。……それは……」
「『食欲が湧かない』――か?」
「…………すみません」
――セドリックはここ数日、水以外のものを殆ど口にしていなかった。
喉に物が通らず、パンや肉は食べてもすぐに戻してしまう。
スープなら飲めるかと思ったが、この国の調味料や香辛料は、病気の身体にはどうしても合わなかった。
口にできそうなものといえば果物くらいだったが、現在ランデル王国内の生鮮食品――中でも果物価格は、帝国とスタルク王国の戦争の影響を受けて高騰している。
そのため果物は贅沢品となり、孤児院の食卓に並ぶことはなくなっていた。
(ああ。本当に僕は、どこまで殿下の足を引っ張れば気が済むんだ)
セドリックは唇を噛みしめる。
本来ならば、自分がアレクシスを支えなければならないのに――と。
そんなセドリックの気持ちを知ってか知らずか、アレクシスが呟いた。
「すまない」と。
「……え?」
「すまない。……お前に、何もしてやれなくて」
「……そんな。――そのようなことをおっしゃらないでください! 大丈夫です! 明日にはきっとよくなりますから! すぐに治しますから!」
「……ああ、そうだな。……早く……早く元気な姿を見せてくれ、……セドリック」
「――!」
「俺には……もう……、……お前、しか……」
「……っ」
今にも泣きだしそうなアレクシスの声に、いつになく弱気なその表情に、セドリックはハッと息を呑む。
――セドリックは知っていた。
二年前、ルチア皇妃が亡くなってからというもの、アレクシスが毎晩のようにうなされていることを。
この場所に送られてから、いや、それよりもずっと前から、アレクシスが自分以外の人間と言葉を交わさなくなったのは、人を信じられなくなってしまったからなのだと。
そして悟ったのだ。
アレクシスの精神が、とっくに限界を迎えてしまっていることに。
「……アレクシス……殿下」
(ああ……。いったいどうしたら……どうしたらこの方の心を救うことができるのだろう)
そうは思っても、まだ十二だったセドリックには、何が正解かわからなかった。
何と言葉をかければいいのかもわからなかった。
結局セドリックはそれ以上何も言えず、「よく休め」とだけ言い残して部屋を出ていくアレクシスの背中を、黙って見送ることしかできなかった。
――その晩、セドリックは真夜中の教会にひとり忍び込み、祈りを捧げた。
もしもこの世に神が実在するというのなら、お願いです。どうか殿下を救ってください。
誰でもいい。殿下の孤独な心を、癒やしてください。
殿下の辛い過去は、僕が死ぬまで背負います。
だから、何も知らず、ただ、あの方に安らぎを与えることのできる誰かを、どうかお授けください――と。
すると、その翌日だった。
セドリックの祈りが通じたのか、アレクシスはセドリックの為に果物を手に入れようと教会を抜け出した先で、エリスに出会ったのだ。