3.結婚初夜
エリスの輿入れが決まってから二ヵ月後、ヴィスタリア帝国、王宮内の教会で結婚式が執り行われた。
参列者は帝国の皇族のみの、厳かな式である。
パイプオルガンの音が鳴り響く中、白いウェディングドレスを着たエリスは、つい先ほど初めて会ったばかりの第三皇子アレクシスと腕を組み、赤い絨毯敷きのバージンロードを慎重に進んでいった。
なお、帝国の皇族のウェディングドレスは形が決まっていて、袖は十分丈、首も肩もきっちり隠れるクラシカルなデザインだ。
ブーケは白薔薇。
アレクシスの方は黒の軍服姿である。
エリスは祭壇の前で立ち止まると、緊張した面持ちでアレクシスと向かい合った。
小柄なエリスと身長百八十センチを超える長身のアレクシス――二人の視線が交わるが、アレクシスは微笑むどころか眉一つ動かさない。
(わかってはいたけれど、やっぱりわたしは歓迎されていないのね)
――エリスは式の準備のため、一週間前に帝都入りしていた。
アレクシスの所有するエメラルド宮にてドレスのサイズ調整を行い、宮内府の者から式の流れを教わった。
けれどその一週間の間、アレクシスは一度もエリスの元を訪れなかったのだ。
ようやくエリスがアレクシスに会えたのは、式の直前――つまり、今より約三十分前のこと。
だがそのときだってアレクシスは、「エリス・ウィンザーと申します」と名乗ったエリスに、「ああ」と素っ気なく相槌を打つだけだった。
(でも、それも仕方のないことよね。スフィア王国は小国で、しかもわたしは王族ではないのだから)
これは宮内府の者から聞いたことだが、ヴィスタリア帝国の皇子らの妃たちは、正室・側室共に各国の元王族であるという。
帝国の皇室典範に"花嫁は王族でなければならない"という決まりはないとはいえ、エリスの様な小国出身の公爵令嬢が嫁いだ前例はないのだと。
だからだろう。エリスが正室ではなく、側室の座に収まることになったのは。
(とにかく、この方の機嫌を損ねないように務めなくては……。他に行く当てもないのだから)
エリスはこの結婚に強い不安を覚えながらも、アレクシスと結婚の誓いを交わした。
◇
その日の夜。
侍女たちの手によって初夜の準備を整えられたエリスは、エメラルド宮の自室のソファに一人腰かけ、左肩に白粉を塗っていた。
火傷の痕を隠すためである。
湯浴みの際に傷跡に気付いた侍女が白粉を塗ってくれはしたが、念には念を入れなければ――と。
白粉を重ね塗しりながら、エリスはスフィア王国出立前夜のことを思い出す。
少ない持ち物を衣装ケースにまとめているところに父親がやってきて、言い放った言葉を。
「いいか! その醜い火傷の痕は絶対に隠しとおせ! 傷を理由にお前を送り返されるようなことになれば我が家は終わりだ!」――と。
(この傷を作ったのはお父さまなのに、随分勝手よね。でもわたしだって、あの国に戻るつもりはないわ)
たとえ自分がアレクシスに歓迎されていないとしても、祖国に戻るわけにはいかない。
肩に白粉を塗り終えたエリスはベッドの端に腰かけて、今日会ったばかりのアレクシスの姿を思い出す。
アッシュグレーの髪に、赤みがかった黄金色の切れ長の瞳。
顔立ちは凛々しく、身体は雄々しい。流石軍人というべきか、軍服の上からでもはっきりとわかるほど逞しい身体をしていた。
元婚約者であるユリウスは武闘派ではなかったし、それほど身体も大きいわけではなかったから、正直、身体の大きさに圧倒された。
そのことを思い出したエリスは、急に不安に襲われる。
あの大きな身体のアレクシス相手に、無事に初夜を終えられるだろうかと。
王太子妃教育の一環として多少はそういう知識も学んではいるが、あくまで知識は知識。
それにエリスは少し前まで、その相手がユリウスであると信じて疑わなかった。
愛するユリウスとその日を迎えることを夢見て生きてきた。
ヴィスタリアへの輿入れが決まってからも、ユリウスのことを思い出さない日はなかった。
自分はユリウスに捨てられたのだと頭では理解していても、嫌いになることができなかったのだ。
それくらい、エリスにとってユリウスの存在は大きかった。
婚約者として共に過ごした十年の歳月は、彼女にとってあまりにも長すぎた。
「ユリウス殿下……」
エリスは胸の前で両手を握りしめ、瞼をぎゅっと閉じる。
怖い……怖い。
これからユリウス以外の男に抱かれるかと思うと、怖くて怖くてたまらない。
いっそのこと、アレクシスが来なければいいのに。自分との初夜を拒否してくれたらいいのに――そう願ってしまうほど、恐ろしくてたまらない。
けれどそんなエリスの願いは叶わず、まもなくして、アレクシスが部屋を訪れた。
バスローブを一枚羽織っただけのアレクシスからは、強いアルコールの匂いが漂ってくる。
かなりの酒を摂取したのだろう。
酷く虚ろなアレクシスの眼差しに、エリスは強い恐怖を覚えた。
エリスは酒が嫌いだった。
父が酒に酔う度に、エリスの身体を殴ったからだ。
身を固くするエリスに、アレクシスは吐き捨てるように命じる。
「脱げ」――と。
「……え」
「脱げと言っている。俺の妻ならば、夫の手を煩わせるな」
「――っ」
(……怖い)
自分はこれから、本当にこの男と夜を共にしなければならないのか。
そう考えると、恐ろしさのあまり逃げ出してしまいたくなった。
けれど、そんなことが許されるはずもない。
(だってわたしはもう、この方と結婚してしまったのだから……)
エリスは唇を嚙みしめる。
どれだけアレクシスが怖くとも、恐ろしくとも、アレクシスと結婚した事実は変わらない。
側室とはいえアレクシスの妻になったのだから、務めは果たさなければならない。
怯えている場合ではないのだ。
エリスは覚悟を決め、しゅるりと肌着の肩紐を落とす。
練習したとおり、アレクシスに微笑みかける。
「アレクシス殿下。ふつつかなわたくしではございますが、殿下の妻として、誠心誠意努めたいと思いますわ」――と。
それは今のエリスにとって、精一杯の言葉だった。
最大の勇気を振り絞った結果だった。
けれどそんなエリスを、アレクシスは蔑むように睨みつけた。
まるで仇か何かを前にしたような顔で、冷たく言い放ったのだ。
「ハッ。勘違いするな。俺がお前を抱くのは皇子としての義務を果たすためであって、それ以上でも以下でもない。俺はお前に興味などないし、この先もずっと、お前を愛するつもりはない」
「……っ」
刹那、エリスは言葉を失った。
自分が歓迎されていないことは知っていた。
けれどまさかここまで酷い言葉を投げつけられるとは、誰が想像しただろう。
氷のような冷めた瞳でエリスを見下ろし、アレクシスは続ける。
「お前をここには置いてやる。それが陛下の命だからな。だがもし少しでも俺の気分を害すれば、女であろうと容赦はしない。たとえ妻相手でもだ。よく心に刻んでおけ」
「――っ」
(ああ……どうして。どうしてここまで言われなければならないの?)
そう思っても、口に出すことは許されない。
もしそれを言ってしまえば、きっと自分は殺されてしまうだろう。
賢いエリスは瞬時にそう悟った。
エリスは泣き出したくなる気持ちを必死に心の奥底に押し込め、淑女の笑みを取り繕う。
「わかりましたわ。今後は不用意な発言は控えさせていただきます。全ては殿下の御心のままに」
するとその返事に、意外にも驚いたように眉を震わせるアレクシス。
彼は何かを考える素振りを見せたが、結局態度を改めることはなく、無言でエリスをベッドに押し倒した。
「その言葉、よく覚えておけ」
冷たく吐き捨てて――前戯も殆どせぬままに、アレクシスはエリスの中に、無理やり自身を押し込んだ。