28.傷痕
それからほんのすぐのこと、エリスは大いに混乱していた。
なぜなら今彼女の前には、床に跪き、自分の右足の傷を丁寧に消毒している、アレクシスの姿があるからである。
(いったい、これはどういう状況なの……?)
――今から少し前、アレクシスの誤解を解かねばと意気込むエリスを待っていたのは、アレクシスのこんな一言だった。
「傷の手当ては俺がする。お前たちは全員下がれ」と。
侍女から受け取った『エリスの怪我一覧』の紙に目を通すなり、アレクシスはそう言ったのだ。
当然その場はざわついた。
皇子であるアレクシスが他人の傷の治療をするなど、戦場でもなければ決して有り得ないことだからだ。
とはいえ、侍女たちはアレクシスのエリスに対する恋心にとっくの前から気付いていたので、
「殿下がそのようなことをせずとも」
「手当てならばわたくしたちでもできますのに」
「ですが殿下のご命令ならば従うほかありませんわ」
と、見事な掛け合いを見せ一斉に退室していった。
そうして今現在、エリスはアレクシスに命じられるがままベッドに腰かけ、右足を差し出し、傷の手当てを受けている次第である。
(まさか、本当に殿下自ら傷の手当てをされるなんて……。てっきりわたしは、殿下に糾弾されるものだとばかり……)
最初エリスは、『悪い予感が当たってしまった』と、今にも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
傷の手当というのは口実で、きっとアレクシスは自分を責めるために侍女たちを退室させたのだろうと。傷の数が一つでも違えば、自分を責めたのち、侍女たちに責任を取らせるのだと、そう思ったからだ。
だが、いざ二人きりになってみたらどうだろう。
アレクシスは――相変わらず顔つきは険しいものの――適切な治療を手際よく施していく。
しかもその手つきはどこまでも優しく丁寧で、まるでこれから自分に罰を与えようとする者の行動とはとても思えない。
(もしかして、もう怒っていらっしゃらないのかしら……)
エリスは一度はそう思ったものの、内心すぐに首を振った。
――いいえ、そんなはずはない、と。
(だって殿下は今も全然お話にならないし、お顔も険しいままだもの。わたしに対して怒っていらっしゃるのは、間違いないわ)
実際のところ、確かにアレクシスは怒っていた。
だがその理由はエリスの不貞を疑っているのではなく、危険を承知で川に飛び込んだことに対してであったし、そもそも、今のアレクシスの心の大半を埋めているのはリアムへの嫉妬――ですらなく、自身の自制心のなさに対する後悔だった。
というのも、アレクシスはエリスが入浴している間に川での自分の行動を思い起こし、猛反せずにはいられなかったからだ。
(あんな公衆の面前で、俺は何と大人げないことを……)
リアムの腕を捻り上げたときの、皆の怯えた顔。
兵たちは恐れおののいていたし、子供は恐怖のあまり硬直していた。
その上自分はリアムに、『俺の妃に触るな』と牽制までしてしまったのだ。
(あの発言自体に悔いはない……が、あんな形で自分の気持ちをエリスに伝えることになるとは)
アレクシスは、川でエリスを腕に抱きかかえたときの、酷く青ざめた顔を思い出す。
(彼女は俺の気持ちを知って、俺を嫌悪したのだろう。馬車の中でも何度も何かを言いかけて……だが俺は、彼女の言葉を聞くのが恐ろしくて遮ってしまった。拒絶された後のことを考えて、せめて一度は彼女に触れておきたいと、傷の手当てを申し出るなど卑怯な真似までして)
アレクシスはエリスの右足を下ろし、左足の手当てに移る。
(考えれば考えるほど情けなくて笑えてくるが、せめてもの救いは、彼女の怪我が大したものではなかったことか)
侍女からの報告書の内容は、両の手足に合わせて擦り傷六ヵ所、切り傷三ヵ所、あとは打撲傷が四ヵ所だったが、いずれも軽症。胴体に怪我はなく、アレクシスの見立てでは一週間もあれば治癒すると思われた。
川に落ちた子供を、何の装備もなく救出してこの程度で済んだのは幸運と言える。
もしもエリスの怪我が酷いものだったら、アレクシスは生涯自分を責め続けることになっただろう。
アレクシスはリアムと会うために、エリスとの待ち合わせ時間を遅めに設定したのだから。
だがエリスはこうして無事でいてくれた。
それだけが、唯一の救いだった。
自分の気持ちを受け入れてもらえずとも、命さえあれば未来も、可能性も残るのだから。
――そうこう考えている間に、左足の手当ても終わってしまった。
次は腕だが、怪我のほとんどは足に集中しており、腕はそれぞれ二ヵ所しか怪我がない。
(ああ、手当てはもう終わってしまうな……。俺もそろそろ心を決めなければ)
潔く、振られる覚悟を。
アレクシスはエリスの左足をそっと床に降ろすと、エリスを見上げた。
「足の手当てはすべて終わった。次は左腕だ。隣に座っても構わないか?」
「……っ、……は……い」
ああ、やはりエリスは自分を恐れているのだろう。
いつもと比べ、明らかに表情が暗い。視線が合わない。
ずっと何か言いたげにしているが、結局言い出せずにいるのが手に取るようにわかる。
(やはり、ここは俺の方から気持ちを聞いてやるべきだな)
アレクシスは左側に座り、腕を取って傷を観察しながら、できるだけ優しい声でエリスに問う。
「馬車の中で、君の言葉を遮ってすまなかった。遅くなったが話を聞こう。あのとき、君は何を言おうとしていた? 君は以前、俺のことを恐くないと言ったが……今も同じ気持ちか?」
アレクシスがエリスの寝室に入ったのは、これが三度目。
一度目は初夜で。二度目は舞踏会の夜。そして、三度目は今。
初夜ではエリスの心も体も傷つけてしまったし、舞踏会のときだって、自分が側についなかったためにエリスを危険な目に合わせてしまった。
今日も、間違いなく自分はエリスを怖がらせた。
そもそも自分は決して愛想がいい方ではないし――いや、むしろ愛想など皆無だし、エリスが自分を恐れない理由を探す方が難しい。
エリスは以前、『今は怖くない』と言ってくれたが、だとしても、好かれる理由など一つも見当たらないのだから。
アレクシスは腕の消毒をし始めながら、エリスの言葉を待つ。
するとエリスは、慎重に唇を開いた。
「今の殿下は……少し、恐いです。……だって殿下は、わたくしに怒っていらっしゃるでしょう? 川でわたくしが一緒にいた、リアム様との仲を……殿下は……誤解していらっしゃるから」
「…………。………!?」
――が、エリスの口から出た言葉に、アレクシスは目を見開いた。
その言葉の意味が、すぐには理解できなかったからだ。
アレクシスは確かに怒っていたが、それはエリスとリアムの仲を疑っているからでは微塵もないし、そもそも、アレクシスがエリスの口から聞きたいのは、そんな話ではない。
困惑を隠せないアレクシスに、エリスは言葉を続ける。
「信じてくださらないかもしれませんが、あの方とは帝国図書館で一度お会いしたことがあるだけなのです。今日も子供たちを追いかけているときに、偶然出くわしただけのこと。ですからわたくし、殿下を裏切る真似は決してしておりませんわ。神に誓って」
「…………」
首から上をこちらに向け、懇願するように自分を見上げるエリスの瞳。
紫がかった美しい瑠璃色の瞳を、不安と緊張に揺らしながら、それでも、しっかりとした意思を込めて見つめてくる。
けれどその眼差しの理由が、アレクシスにはわからなかった。
(何だ……? エリスは、彼女は、いったい何を言っている?)
アレクシスは混乱しつつも、必死に思考を巡らせる。
(今の言葉は、つまり、俺がエリスとリアムの仲を疑っていて、そのせいで俺が怒っていると……そういう内容だった。だがエリスは、それは誤解であると言っている。そういうことか?)
確かに川での自分の行動を思い返すと、そう思われても仕方のない言動をしていたかもしれない。
ならば一先ず、誤解は解いておいた方がいいだろう。
「エリス、まず言っておく。俺は君とリアムの仲を疑ってはいない。俺は君が不貞を働くような女性だとは思っていないし、そもそもあいつ――リアムは俺の古い友人で、今日俺は君と会う前に、リアムと会う約束をしていたんだ。まあ実際は、川に落ちた子供を救出していたからか、待ち合わせ場所には現れなかったが」
「……!」
「つまり、俺は君が、俺との約束を破ってリアムと祭りを回ろうとしていたなどとは少しも思っていない。――のだが、これでその誤解は解けたか?」
「……っ、で……でも……、だったら、どうして殿下はずっと……」
「ずっと……何だ?」
「ずっと、怒っていらしたでしょう?」
「……!」
エリスは声を震わせて、それでも、必死に訴える。
「わたくしは、殿下がわたくしとリアム様の仲をお疑いになっていて、だからずっとご機嫌が悪いのだと思っていたのです。馬車の中でも、部屋に戻るまでもずっと、殿下はわたくしをお放しにならなかった。わたくしはそれを、『罰を与えるために逃がさないようにする』ためだと思っておりましたのに……」
「――!? なぜそうなる!? 俺はそんなに非道な男に見えるのか!? ……いや、見えるか。……見えるんだろうな……」
これは他にも色々と誤解されていそうだ。
一刻も早く食い違った部分を洗い出し、誤解を解かなければ。
「俺が馬車の中でも、宮でも君を下ろさなかったのは、君が素足だったからだ。まさか裸足で歩かせるわけにはいかないだろう」
アレクシスは冷静に説明する。
すると、エリスは驚きに顔を染めた。
「……え? それだけ、ですの……?」
「まぁ、他にも理由は色々あるが。水に浸かった君の身体をあれ以上冷やさないようにという目的もあったし、俺が運んだ方が速いという理由も。――とにかく、俺は君に怒っていない。確かにリアムが君の肩を抱いているのを見たときは頭に血が昇ったが、妻のあんな場面を目撃して、平気でいられる方がおかしいと思わないか?」
「……そ……そう、ですわよね」
「いや別に、君を責めているわけじゃないんだが」
「……はい、それは、理解しました」
頷きつつも、はやりどこか腑に落ちない様子のエリスに、アレクシスの心には漠然とした不安が残った。
(本当に理解しているのか?)
と、そんな風に思ってしまう。
だがこれらは全て自分が蒔いた種である。自分がどこまでも言葉足らずな上、エリスの話を遮ってしまったが故に生まれた誤解。
ならば、ここで一つずつ解いていくしかない。
「エリス。他にも何かあるなら言ってみろ。今度はちゃんと聞く」
アレクシスがそう伝えると、エリスは再び驚いた顔をして、少しの間考え込む。
アレクシスはその横顔に『時間がかかりそうだな』と判断し、腕の手当てを終えてしまおうとドレスの袖を大きく捲し上げた――そのときだ。
「――!」
治療対象の二の腕の傷よりも少し上に、赤い何かが覗いた気がして、アレクシスは大きく眉をひそめた。
侍女の報告ではこの位置に傷はなかったはずだが――そう思いながら、袖を更に上へと捲り上げる。
するとそこにあったのは――。
「……なぜだ。どうして、君の肩に火傷の痕がある……?」
――明らかに今日できたものでない、火傷の古傷だったのである。