26.嫉妬と牽制
同じ頃、アレクシスはまさに苛立ちの絶頂にいた。
待ち合わせ時刻はすっかり過ぎたというのに、相手がいつまで経っても現れないからである。
(なぜ、来ない……?)
広場南側の大通りから道を二本ほど入った奥まった路地。
祭りの喧騒から離れた人気の少ないその裏通りに、アレクシスは二十分も前から立っていた。
パレードの後処理やその他もろもろの雑務を全てセドリックに任せ、約束の時間である十三時きっかりに、指定されたこの場所にやってきたのだ。
それなのに、待ち合わせているはずの相手は一向に姿を現さない。
その事実に、アレクシスは苛立ちと焦りを滲ませて呟く。
「リアムの奴、どういうつもりだ」と。
――そう。アレクシスの待ち合わせの相手とは、たった今エリスと共に川で救助活動を行っている、リアム・ルクレールだった。
リアム・ルクレール――アレクシスの中等部からの旧友で、昔はそれなりに親しくしていた男。
侯爵家の嫡男でありながら決して驕り高ぶらず、誰に対しても礼儀正しく、困っている者がいれば迷わず手を差し伸べるような、心根の優しいリアム。
少し頼りないところもあったが、アレクシスはリアムの人柄を好ましく思っていたし、リアムの方もアレクシスを皇子として、友として慕い、支えてくれていた。
だがその関係は、二年前の事件をきっかけに壊れてしまった。
アレクシスが、リアムの妹・オリビアに怪我を負わせてしまったからだ。
アレクシスからしたらそれは事故だったが、けれど、リアムはそうは思わなかったのだろう。
大切な妹が傷付けられたことに激怒したリアムは、アレクシスに、責任を取ってオリビアと結婚するよう迫ってきた。
だが皇子の結婚はそのような簡単なものではないし、そもそも、アレクシスはオリビアを苦手としており、結婚など到底考えられなかった。
だからアレクシスは『皇子と結婚できるのは王女だけだと、お前も知っているだろう』とリアムを諌め、距離を置いたのだ。
だがその後もリアムからは何度も手紙が届き、けれどそれを無視しているうちに、リアムはオリビアと共に領地に引き下がってしまった。
それから早二年。二人は一度も顔を合わせていない。
それにここ一年は手紙がぱったりと止んでいたこともあり、アレクシスはリアムのことを殆ど思い出さない日々を送っていた。
だが、そのリアムが今になって戻ってきた。エリスと結婚した、このタイミングで。
となると、目的は一つしか考えられないではないか。
(リアムは再び俺に、オリビアとの結婚を迫ってくるはず。――だからこちらから先手を打ったというのに、どうしてあいつは現れない? 俺と話をつけるために戻ってきたんじゃなかったのか?)
アレクシスは思考を巡らせながらも、裏路地から出て大通りへ足を向ける。
これ以上待っても無駄だろうと、そう判断したからだ。
すると通りに出たところで、何やら辺りが騒がしいことに気付く。
衛兵たちが橋の方に集まっているようだ。
いったい何事だろうか、アレクシスは走りゆく兵を呼び止め報告を求める。
すると兵はこのように説明した。
「川に落ちた二人の子供を救おうと、ご婦人が飛び込んでしまわれて。それを追いかけて、リアム・ルクレール中尉も川に」と。
それを聞いたアレクシスは、ハッと目を見開いた。
リアムが待ち合わせ場所に現れなかったのは、このせいだったのか、と。
(あいつ、昔から正義感だけは誰よりも強かったからな)
なるほど。こういう事情であるならば致し方ない。
話し合いの機会はまた作るとして、今は川に落ちた子供たちの救助である。
アレクシスは兵と共に、急ぎ現場の橋へと向かった。
けれどアレクシスが着いたときには、既に救助は終わったあとだった。
「どうやら救助は終わったようですね。子供は二人とも無事なようです」
兵の言葉に、アレクシスは欄干から下――五十メートルほど下流の土手に目を凝らす。
すると確かに、土手の比較的平らなところに兵たちが集まって、何やら盛り上がっていた。
声までは聞こえないが、あの様子からすると死者や重傷者がいないことは確かだろう。
アレクシスはひとまず安堵したが、とはいえ、念の為自分でも状況を確認しておきたい。
そう考えたアレクシスは、ひとり土手を下り、兵たちの元へ向かっていった。
二年ぶりに再会するリアムに、何と言葉をかければいいだろうか。上官として、『よくやった』と褒めてやらねばならないだろうか――と考えながら。
けれど、その思いは一瞬にして消え失せてしまった。
そこにエリスの姿を見つけたからだ。
「…………!」
兵たちの中心にいたのは、リアムに背中を支えられ、子供二人を抱き締めているエリスの姿。
(エリス……? なぜここに。それに、その姿は……)
びりびりに引き裂かれたドレスの裾。全身から滴り落ちる雫。
前髪は額にべったりと張り付き、水を吸った服は、エリスの身体のラインをあられもなく強調している。
それによく見れば、ところどころ肌が擦り剝けて赤く滲んでいた。
朝自分を送り出してくれたときとはまるで別人のように、痛々しいエリスの姿。
それを目の当たりにしたアレクシスは、全身からさぁっと血の気が引くのを感じた。
(いったい、これはどういうことだ?)
アレクシスは混乱した。
つまり、子供を助けようとして飛び込んだ婦人というのはエリスのことだったのだろう――が、そもそも、どうしてエリスがこのような場所にいるのだろうか。
安全な広場の中にいるはずの彼女が、なぜ川に飛び込むような危険なことをしているのか。
――それに……。
(リアム・ルクレール……どうして、お前がそこにいる?)
なぜお前が、彼女の隣に立っている?
そんなに優しそうな顔をして――なぜ、彼女に触れている? なぜお前が、エリスの肩を抱いているんだ……?
茫然と立ち竦むアレクシスの視線の先で、リアムがエリスの耳元でそっと何かを囁いた。
それに答えるように、エリスの唇が動く。「そんな……いけません、リアム様」と。
「……ッ!」
声は聞こえなかった。けれど、確かにエリスの唇は「リアム」と――そう動いていた。
(ハッ……、「リアム」だと?)
刹那、アレクシスの中に沸き上がったのは猛烈な怒りだった。
嫉妬、憤怒、焦燥――そういったものがアレクシスの中に渦巻いて、全ての理性を奪っていった。
アレクシスは無理やり兵たちを押しのけリアムの背後に立つと、一瞬のうちにリアムの腕を捻り上げる。
「お前、いったい誰の許可を得て、俺の妃に触れている?」
そう低い声で威嚇した。
するとリアムは痛みに顔を歪ませて背後を振り返り――次の瞬間には、驚きに目を見開く。
「殿下……?」と呆気にとられたように呟いて、更に遅れて、「……妃?」と疑問を零す。
それもそのはず。
リアムは、エリスがアレクシスの妃であることも、何なら「エリス」という名前でさえ、聞いていないのだから。
――リアムだけではない。この場の兵の誰一人として、エリスがアレクシスの妃であることを知る者はいなかった。
そもそも皇子妃というのは、夫である皇子以外の男性に顔を晒すことをよしとされない。
舞踏会や夜会は別として、プライベートでの男性との付き合いなど言語道断である。
つまり、リアムを除いて全員が平民出身であるこの場の兵たちは、エリスの顔を知らないのだ。
もちろんアレクシスとて、そのことはよく理解していた。
それに今のリアムの反応からも、エリスが皇子妃であることを知らなかったことは明白だ。
けれどそれでも、アレクシスは許せなかった。
エリスがリアムの名前を呼んだという――些細な事実が。
アレクシスは、突然の展開に驚いているエリスの腕を引き寄せて、自身の腕の中に閉じ込める。
そしてリアムを真っ向から睨みつけ、明言する。
「これは俺の妃だ。お前が気安く手を触れていい女ではない」
「……!」
よもや、アレクシスの口から絶対に出ないような言葉に、そして彼の全身からほとばしる強い殺気に、リアムはごくりと息を呑んだ。
周りの兵たちも、子供二人も、アレクシスの剣幕に茫然自失していた。
まるでここが戦場であるかのような緊迫感。
そういう空気が、この場の全てを支配していた。
何一つ言い返せないリアムを放置し、アレクシスはエリスを問答無用で抱きかかえる。
そしてリアムに背を向けると、冷めた声で言い放った。
「リアム、これだけは言っておく。俺はオリビアを妃に迎えるつもりは毛頭ない。――よく覚えておけ」
「……ッ」
この言葉に、再びぐっと息を呑むリアム。
そんなリアムを残し、アレクシスはエリスを腕に抱いたまま、その場を後にした。