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25.リアムとの再会


『妹さんは栗色の髪と瞳、水色のドレスを着ていて、身長は百二十センチ弱。桃色の風船を持っている……で、間違いない?』

『間違いない。風船の代金を払ってる間に、いなくなったから』

『なら、風船を目印に探してもらった方が早いかもしれないわね。――大丈夫、ちゃんと見つかるわ』

『……うん』


 エリスは本部へ向かう間、少年――名をアデルといった――から話を聞いていた。

 まずは妹シーラの特徴やはぐれた際の状況を。

 その後、どうして子供だけでこんなところにいるのかを、慎重な声で尋ねた。両親は一緒ではないのかと。


 するとアデルは、時折言葉を詰まらせながら語った。


 彼の家は商家で、帝都へは父親の仕事の都合で訪れていること。

 だが母親は幼い弟の世話のため、ランデルに残っており、ここには父親と妹しかいないこと。

 またその父親も、今朝から商談のために出掛けていて不在であり、お祭りへは妹と二人だけで来ていること――そして最後に、小さな声でこう付け加えた。


『父さんからは、宿を出ちゃ駄目って言われてたんだ。仕事から戻るのを待ってろって。でも待ちきれなくて……。少しならいいだろうって……すぐに戻ればわからないって……使用人の目を盗んで、出てきたんだ。……だからもしシーラに何かあったら、全部……全部、俺のせいなんだ』


 まさかこんなことになるとは思っていなかったのだろう。

 意思の強そうな褐色の瞳を後悔に滲ませて、拳を握りしめるアデル。


 その横顔に、エリスは心臓が締め付けられるような心地がした。

 もし自分が彼の立場だったとして、偶然、運悪く兄妹を迷子にしてしまうならいざ知らず、それが自分の浅はかな行動が招いた結果だとしたら、後悔してもしきれない。


 それに、今まさに迷子になっているシーラは、相当な不安を抱えているはずだ。


(そう言えば昔、シオンと一緒に迷子になったことがあったわね。……そうよ。あれは確かランデル王国で……。だからわたし、必死に言葉を覚えたんだったわ)

 

 ――あれは八歳の夏。

 シオンを留学先のランデル王国に送り届け、共に過ごした一週間のうちの、最後の日のこと。


「姉さまと離れたくない」と泣き出したシオンを連れて、エリスは滞在先の宿から抜け出した。

 きっと家出か何かのつもりだったのだろう。

 父親に対する反抗か、あるいは、シオンと二人だけで生きていこうと思ったのか。今ではもう忘れてしまったが――とにかく、その後迷子になったときの、酷く不安だった気持ちだけは覚えている。


 言葉も通じぬ異国の地で、右も左もわからなくなったあの絶望感。


 気付いたときには宿に戻っていたが、二人一緒でも不安で不安で仕方なかったのだ。

 もしあのときシオンとはぐれていたら――そう考えるだけでゾッとする。



 そんな記憶と相まって、エリスはより一層、シーラを見つけてあげなければと意気込んだ。


 彼女は注意深く周囲の様子を観察しながら、アデルと共に本部へ向かう足を速める。



 そうして、南門が見えてきた――そのときだった。



「――っ!」


(あれって……!)


 エリスは、視界に映ったモノに目を見張った。

 そう。それはまさしく、桃色の風船だったのだから。


 広場の外――南門の向こう側、雑踏の中に浮遊する、一つの風船。

 目を凝らすと、その風船を持っているのは水色のドレスを着た少女であることがわかる。


(きっとシーラだわ……!)


 エリスは確信した。そして、横に立つアデルを振り向いた。

 すると、アデルも自分とほぼ同時か、あるいはそれよりも早く、シーラの存在に気付いていたのだろう。

 サッと顔色を変え、シーラのいる方に向かって、一目散に走り出す。


『シーラ!』と、大声で妹の名を叫びながら――広場の外側へと、一直線に駆けていく。


 エリスは、そんなアデルを追いかけようと、ドレスの裾を持ち上げた。


 けれど足を一歩踏み出したところで、脳裏にアレクシスの顔が過り、立ち止まった。

 『広場からは出るな』という朝の言葉を思い出したからだ。 


「……っ」


 エリスはアレクシスの言葉の意味をきちんと理解していた。


 情があるかは別として、あれは自分を心配してくれての言葉だった。自分を思いやってくれた上での発言だった。


 それを今、自分は裏切ろうとしている。

 それが、とても心苦しくて。


 けれど今のエリスには、アデルを一人で行かせる選択肢は存在していなかった。


 帝国語を話せないアデルやシーラを、二人だけにする訳にはいかない。

 もしこのあと彼らに何かあったら、自分は一生後悔する、と。


(約束を守れず申し訳ありません、殿下。でも、きっと時間までには戻って参りますから)


 エリスは時計塔を振り返り――唇をきゅっと引き結ぶ。

 そして再びドレスの裾を持ち上げると、今度こそアデルの背中を追いかけた。



 ◇



 エリスは走った。一刻も早くアデルに追いつこうと。

 けれど、人の波が邪魔をしてなかなか前に進めない。


 そもそも、エリスは少なくともここ十年、まともに走ったことがないのだ。

 そんな彼女が、アデルに追いつくというのは無謀な話だった。


(これでは見失ってしまうわ……!)


 今はまだ、シーラ、アデル共に直線上に見えているが、もし角を曲がったりしたら……。


 だが悪い予感というものは当たるもので、桃色の風船は、二つ先の角を左に曲がってしまった。

 その後ろを、アデルが十秒ほど遅れて曲がり、エリスもそれを追いかける。――が、その刹那。



 ――ドンッ!



 と全身に衝撃が走り、エリスは後方によろめいた。

 人とぶつかったのだ。

 

「……っ」


(倒れる――!)


 瞬間、エリスは身体を強張らせ、ぎゅっと瞼を閉じた。

 だがどういうわけだろうか。いつまで経っても身体を打ち付ける感覚がない。


「……?」


 いったいなぜ――と恐る恐る目を開けると、そこにあったのは、どこか既視感のある顔だった。


「これは失礼を。先を急いでいたもので。お怪我はございませんか?」


 エリスが転ばぬよう、咄嗟に支えたであろう腕を何事もなかったかのように放し、申し訳なさそうに微笑んだその顔に、エリスは確かに見覚えがあった。


 ラベンダーブラウンの澄んだ瞳と、それと同じ色の艶のある髪。

 女性受け抜群であろう眉目秀麗な顔だちに、柔らかな微笑み。

 モスグリーンの軍服を纏っていることから、アレクシスと同じ陸軍所属であることがわかる。


(あら。この方、どこかで……)


 エリスは素早く記憶を回顧する。

 けれどそれより早く、相手の方が思い出したようだ。


「おや。あなたは図書館でお会いした」と。


 その言葉を聞き、エリスもはた、と思い出した。

 二週間と少し前、帝国図書館で声をかけてきた紳士のことを。


 そう、名前は確か――。


「リアム・ルクレール様、でしたかしら」


 エリスが呟くと、目の前の男――リアムは目を細め、


「覚えていてくださったとは光栄です」


 と、笑みを浮かべる。

 だがその表情は前回と比べ、どこか白々しい。


(何だか、前と少し印象が違うわね)


 そういえば先ほどリアムは、『先を急いでいたもので』と言っていた。

 つまり、彼の笑顔が白々しく感じるのは、早くこの場を立ち去りたいという気持ちの表れなのだろう。

 もちろん、それはこちらも同じだが。


 エリスはリアムの後方をちらと見やり、アデルの姿がまだ消えていないことを確かめてから、リアムに会釈する。


「先をお急ぎなのでしょう? わたくしも急いでおりますので、これにて」


 最後にニコリと微笑んで、サッとリアムの横を通りすぎる。

 けれどリアムは何を思ったのか、すぐさまエリスを呼び止めた。


「レディ、お待ちを」と。


「……?」


 仕方なくエリスが振り向くと、リアムはなぜか、困惑気に眉を寄せている。


「無礼を承知で申し上げますが……パートナーか、あるいは従者などはお連れでないのですか? 図書館でも、おひとりでいらっしゃいましたよね?」

「……前は、連れておりましたわ」

「では、今は?」

「おりませんけれど……それが何か?」


(前回も思ったけれど、この方、心配性が過ぎるんじゃないかしら。見ず知らずのわたしにこんなことを言うなんて。……それとも、女性は扇子より重いものを持たざるべきという、偏った女性像をお持ちだとか?)


 エリスはリアム以上に困惑しながら言葉を返す。

 するとリアムは再び唇を開き何か言おうとしたが、その声は、通りの向こうから響いた人々の悲鳴によってかき消された。



「きゃああ! 子供が川に落ちたわ……!」

「二人だ! 落ちた嬢ちゃんを助けようとして、坊主まで飛び込んじまった!」

「誰か! 早く浮き輪とロープ! 釣り竿でも何でもいい! 持ってこい!」

「泳げる人はいないのかい!? あのままじゃどっちも沈んじまうよ!」


 人々の怒号が、エリスの耳に飛び込んでくる。

 それを聞いた彼女は、真っ先に走り出した。



(まさか……、まさか……!)


 

 一気に五十メートルを走り切り、橋の欄干から下を見下ろす。


 すると、幅二十メートルほどある川の真ん中で、アデルが必死にシーラを抱えようとしているところだった。


 まだ沈んでいないが、シーラはパニック状態で暴れている。水難時は第一に、冷静になることが大切だが、子供にはそれは難しいだろう。


『アデル! 大丈夫よ! 今助けるわ!』


 エリスは声を張り上げながら、川の様子と土手の傾斜を確認する。


(水面からの高さは約七メートル、水深は少なくとも二メートル以上。土手も這い上がれる角度だわ。これなら、十分飛び込める。助けられる)


 そして靴を脱ぎ捨てると、ドレスの裾を何のためらいもなく引き裂いた。


 夏の薄い生地のドレスとはいえ、長い裾は泳ぐのに邪魔になる。少しでも身軽であるに越したことはない。


 だがそのとき、後ろから追いかけてきたらしいリアムに、必死の形相で止められた。


「レディ、いったい何を……!? まさか飛び込む気じゃないでしょうね!? 止めてください! 私が行きますから!」と。


「あなたが?」

「はい、私が行きます! ですから!」


(でも……この方、泳げるのかしら)


 先ほどから、帝国民は誰一人として川に飛び込もうとしない。

 人を呼んだり、浮き輪を探したり、そういう動きは見せるものの、水に入ろうとするものはいないのだ。


 その状況から考えられるのは、恐らく、帝国民は泳げないのだということ。

 確かに帝都は帝国の中央にあるし、海は何百キロも移動した先。

 川はあるが、湖の少ないこの土地で、一般市民が泳ぎを身に着けるのは難しい状況なのだろう。


 となると、目の前のリアムも、果たして泳げるかどうか。


「あなたは泳げますの? 陸軍所属ですわよね?」


 海軍ならまだしも、陸軍が泳ぎの訓練などするだろうか。――いや、多分しない。


 エリスは尋ねながら、今にも川に飛び込もうとアクセサリーを取り外し、地面に放り投げる。

 今は一分一秒を争うとき。礼儀やマナーを気にしている余裕はなかった。


 が、リアムはそんなエリスの腕を掴んで、無理やり制止する。


「私は元海兵。泳ぎには自信があります。ですからここは私に任せて、あなたは安全な場所でお待ちください。レディを危険に晒すなど、私の紳士道に反します」

「そうですか。ではお言葉に甘えて、二人で参りましょう。わたくしも泳ぎには自信があります。祖国は三方を海に囲まれており、三歳のころから泳ぎを学んでおりましたので。人を救助した経験もございますのよ。あなた様の足は引っ張りませんわ」

「――!? いえ、私は一人で……!」

「それに、あの子たちはわたくしの知人なのです。見ているだけなのは、嫌なのです」

「……!」


 エリスはきっぱりと言い切ると、引き裂いたドレスの裾を捌きながら欄干の上に立ち上がる。


 そうして、リアムが止める間もなく、川に飛び込んだ。

 

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