20.アレクシスの憂鬱
「――は? 兄上、今、何と……」
宮廷舞踏会から一月がたった、六月末のある日の午後。
クロヴィスの執務室にひとり呼び出されたアレクシスは、思わず耳を疑った。
クロヴィスが突然「シオンが我が国に留学することが決まった」――などと言い出したからである。
◇
そもそも一ヶ月前、舞踏会が終わった翌日のこと、アレクシスはクロヴィスから「二人は本国に送り返した。お前が憂うことはない」と説明を受けていた。
アレクシスはそのあっさりとした結末に多少の疑問を抱いたものの、「兄上がそう言うのなら」とそれ以上言及しなかった。
つまり、その話は終わったと思っていたのだ。
その後今日までの間も、クロヴィスは一度もジークフリートやシオンの名を口にしなかったし、エリスの方も「シオンに手紙を書いてもいいでしょうか?」と尋ねてきたくらいで、他には何も言ってこない。
だから、アレクシスは仕事の忙しさと相まって、シオンのことをほとんど忘れていたのである。
「それがいきなり留学だと? くそっ、兄上め……!」
クロヴィスの執務室から戻ったアレクシスは、ソファにぐったりと背中を預け、悪態をつく。
「いったいどういうことです?」と説明を求めるセドリックに、アレクシスは先ほどのクロヴィスとのやり取りをそのまま説明した。
「シオンのことは終わったはずじゃなかったのか」と問いただしたアレクシスに、クロヴィスが返した内容は、以下の通り。
「きっとお前は反対するだろうと思って黙っていたんだが、実は舞踏会の後、ジークフリート王子とエリス妃の弟――シオンと協議した結果、『我が国でシオンを受け入れる』のがベストだという結論に至ってな。ああ、断っておくがこれは私の提案ではない。言い出したのはジークフリート王子だ。エリス妃の引き渡しに応じてもらえないなら、シオンをエリス妃の側に住まわせてやってくれないか、と。なかなか肝の据わった男だった」
そう言って、思い出し笑いのような声を漏らしたあと、クロヴィスは更にこう続けた。
「とは言え、受け入れ先の問題もあるからな。一旦保留にして方々に確認を取ったところ、国立公務学院で受け入れる方向で話がまとまった。というわけだから、義兄としてよく面倒をみてやるように」――と。
セドリックはそれを聞き、驚いたように眉を寄せる。
「国立公務学院と言えば、キャリア官僚を育成するエリート養成機関……。あそこは数ある高等教育機関の中でも、帝国貴族しか受け入れない生粋の純血校でしょう。そこにシオン様を入れられるということは――」
「ああ。兄上は、卒業後もシオンをこの国で囲うつもりだろうな。しかも、学費含めた滞在中の費用は、すべて俺の私費から出すことになったというし」
アレクシスは苛立ちに顔をしかめ、天井を仰ぎ見る。
グランゼコールとは、帝国内に二百ほど存在する高等教育機関のことである。
理工系を中心に、政治・経済・軍事・芸術に至るまで、職業と関連した諸学について最高クラスの教育を受けることができるエリート養成機関だ。
一部の機関を除き全帝国民に門戸が開かれており、これらの機関に入れた者は各分野での将来が約束される。
クロヴィスはシオンを、その中でも最も位の高い国立公務学院に入れると言ったのだ。
それも、アレクシスの金を使って、である。
「殿下の私費で……ですか。なるほど」
セドリックはその意味を理解して、感嘆に近い声を上げた。
「つまり、シオン様に帝国内での地位を約束すると同時に、殿下から恩を売った形にするということですね。何ともクロヴィス殿下らしい采配ではないですか。してやられましたね」
「お前、面白がっているな?」
「まさか、滅相もありませんよ。私はただ、これが殿下とエリス様を結ぶ、いいきっかけになればと思っただけです。結局未だに、エリス様には思いを伝えられていないのでしょう?」
「…………」
そう。セドリックの言うとおり、アレクシスは自身のエリスに対する気持ちを自覚したのはいいものの、未だ想いを伝えられていなかった。
あの日から早一月。
朝夕毎日顔を会わせ、食事をし、セドリックの助言で花を贈ってみたりはしているものの、それ以上踏み込む勇気もなく、きっかけもなく、時間だけがずるずると過ぎてゆく。
そんなアレクシスの状況を、セドリックは内心歯がゆく思っていた。
極度の女性嫌いのアレクシスが、"初恋のエリス"以外に初めて女性に興味を持ったのだ。
しかもそれが妻となれば、上手くいくに越したことはない。
友人として、臣下として、セドリックがそう考えるのは自然なことだった。
「殿下がシオン様を帝国に招き、その上学費まで出すとなれば、エリス様は間違いなく喜んでくださいますよ」
とは言え、シオン本人が喜ぶかどうかは全く不明だが――と心の中で付け加えながら、セドリックはアレクシスに書類の束を差し出す。
主人の恋路は大いに気になるところだが、そろそろ仕事に戻ってもらわなければならない。
「ところで殿下、こちら頼まれていた建国祭当日の皇族方の移動ルートと、警備担当者の名簿リストです。ご確認を」
「ああ、そうだったな。まったく、舞踏会が済んだと思ったら次は建国祭か。毎年のこととはいえ面倒なことだ」
アレクシスは書類を受け取ると、煩わしげな顔で、それでも順に目を通していく。
――が、半分ほどチェックしたところで、なぜか手を止めてしまった。
「殿下?」
何か問題でもあったのだろうか。
そう思ってアレクシスの手元を覗き込むと、そこにはよく知った名前があり――。
(リアム・ルクレール? ――あっ)
その男性名を見た瞬間、セドリックの脳裏に過ったのは一人の少女だった。
その少女とは、オリビア・ルクレール、齢十七歳。ルクレール侯爵家の長女で、中等部のころから付き合いのある、長男リアムの妹だ。
アレクシスは昔から彼女に慕われているのだが、オリビアはとても押しが強く、けれど身体が弱いためにどうも強く出られない――言うなれば、アレクシスの天敵である。
確か彼女はリアムに付き添われ、療養のためにここ二年ほど領地に引き籠っていたはずだが、リアムが軍に復帰したということはオリビアも帝都にいるのだろう。
「殿下……あの……」
「……戻っていたのか、オリビア」
「――っ」
ボソッと呟かれた声の低さに、セドリックはハッと息を呑む。
恐る恐る顔を覗き込むと、アレクシスの顔色は病的に蒼い。
(ああ、やはり殿下の女性嫌いは健在か。エリス様が平気なら、あるいは、と思ったが……)
セドリックは、主人の放つどんよりとしたオーラに、やれやれと肩をすぼめながら、窓の向こうの遠い空を見上げるのだった。
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次話、エリス視点(といいつつ三人称ですが)に戻ります。