19.自覚
時刻は真夜中を迎える頃。
エメラルド宮のエリスの寝室では、アレクシスが医師を退室させるところだった。
「下がれ。あとは俺が見る」
「はい。では、わたくしはこれにて」
「ああ、ご苦労だった」
医師は恭しく礼をして部屋から出て行く。
それを最後まで見送って、アレクシスは迷わずベッドの方を振り返った。
天蓋付きのベッドの上では、侍女たちによって寝着に着替えさせられたエリスが、静かな寝息を立てて眠っている。
念の為と思い医師に診察させたところ、『眠っているだけ。薬が切れれば時期に目を覚ます』との診断で、アレクシスはひとまず安堵していた。
アレクシスはベッド脇の椅子に腰を下ろすと、エリスの寝顔をじっと見つめる。
アレクシスがエメラルド宮に戻ったのは、今より一時間ほど前のこと。
舞踏会中にエリスが連れ去られた事件は、クロヴィスの登場で一応の終結を見せた。
正しくは中断と言うべきかもしれないが、あのクロヴィスが『引き受ける』と言ったのだから、それすなわち終結だ。
形はどうあれ、明日の朝には全て綺麗に片付いているのだろう。――アレクシスには、そんな確信があった。
だが、だとしてもだ。
アレクシスの心情的には、何一つ解決していなかった。
たとえ今夜のうちにジークフリートとシオンがランデル王国に送り返されたとしても、この心を蝕む焦燥感は、決して消えないとわかっていた。
アレクシスは数時間前、舞踏会でエリスと踊ったときのことを思い出す。
緊張からか何なのか、突然『踊れない』と言い出したエリス。
そんな彼女をフォローすべく、身体を持ち上げるようにして最初のステップを踏んだときに感じた、大きな違和感を。
そう。そのときアレクシスは確かに思ったのだ。「軽すぎる」――と。
初夜のときから、細い体をしているなとは思っていた。
いやまあ、出るところはきちんと出ているのだが、腰も手足もほっそりしていて、豊満な体つきの帝国民女性と比べると随分違う。
とは言え、スフィア王国は帝国から遠く離れている上、交流もないこともあり、そういう民族なのかと特に気には留めなかった。
けれど弟のシオンは年相応の健全な学生らしい体格をしていたし、特に身長が低いということもなく。
そこから導き出された答えは、ジークフリートの『エリスは祖国で酷い扱いを受けていた』という言葉が、決して嘘ではないということだった。
きっとエリスは、食事も満足に与えられない生活を送っていたのだろう。
なるほどそれなら、彼女が料理ができるというのも納得がいく。幼かった彼女が食事にありつくためには、自分で料理をするしかなかったのだ。
「本当に、俺は君のことを何も知らないな」
アレクシスは長い指で、エリスの瞼にかかった亜麻色の前髪をそっとはらう。
早く目覚めてくれと思う反面、まだ眠っていてほしいと願ってしまう自分がいる。
エリスとシオンが何を話したのか知らないアレクシスは、エリスの口から『シオンと共に暮らしたい』と告げられることを、心のどこかで恐れていた。
聡明なエリスのことだから、国家間のことを考えて、たとえそう思っていても自分からは言い出さないだろう。
けれど万が一にもそう言われたら、エリスの意思を無視してまで引き留めることはできない。――アレクシスはそう考えていた。
幼い頃から虐待を受けていたらしき彼女を、これ以上苦しめてはいけない。
正直言うと、シオンのエリスに向ける感情は姉に対するものとして不適切だと思っていたが、エリスが弟と生きることを望むのならば致し方ない、と。
そんな、臆病な正義感と同情心、あるいはもっと別の何かが、アレクシスの心を苛んでいた。
すると、そんなときだ。
不意にエリスの瞼がぴくりと動き、「ん」と小さく呻き声を上げる。
ハッと息を呑むアレクシスの前で、三秒ほど遅れてようやく瞼が開き、瑠璃色の美しい瞳が、ぱちぱちと数回瞬いた。
「エリス」と、なるべく優しい声になるよう努めて声をかけると、彼女はゆっくりと視線をこちらに向ける。
刹那、その瞳が驚いたように見開かれた。
「……殿下? どうして、こちらに……」
「どうって……覚えていないのか? 君は舞踏会場から、ジークフリートに連れ出されただろう?」
まだ薬が抜けきっていないのだろうか。などと心配に思いながら問うと、エリスは思い出した様にハッとする。
「――! あ……そう、でしたわ。わたくし、中庭でシオンと話していて……。――あ、シオンというのは、わたくしの弟なのですが……そしたら、急に眠くなって……」
「急に眠く?」
「はい……本当に申し訳ございません。舞踏会の最中でしたのに……。殿下は、シオンにお会いになりませんでしたか?」
まるで疑うことを知らないエリスの瞳に、アレクシスは悟った。
なるほど。どうやらエリスは、シオンの起こした事件について全く気付いていないらしい。
ならば、と、アレクシスは話を合わせることに決める。
知らないなら知らないままでいてくれた方がいい。それに、自分とシオンが話した内容――つまり、『姉さんを僕に返せ』と言われたこと――について、自分から言い出す勇気が持てなかった。
「いや、知らんな。俺はジークフリートから、君が中庭にいると聞きつけて迎えに行ったまで。――そしたら君が倒れていて、流石に肝を冷やした」
「……! そう、なのですね。それは本当に……本当にご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
エリスの顔が暗く陰る。
その表情に、アレクシスはやはり罪悪感を覚えながらも、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「気にするな。俺は部屋に戻るから、ゆっくり休め」
本当はエリスとシオンが何を話したのか気になるところだったが、けれどもしもそれを聞いて、『シオンと一緒に暮らしたい』などと言われたら堪らない。
だからアレクシスは、早々に部屋から退散することに決めた。
だが、アレクシスがドアを開けようとしたとき、不意に「殿下」と呼び止められる。
その声があまりに真剣すぎて、アレクシスはどきりとした。
(今日の俺は……なんだか、変だ)
と、自分で自分を気味悪く思いながら振り向くと、やはりエリスが思いつめたような顔でこちらを見ている。
もしや――と思った。
シオンの話をされるのか、と。
だが、エリスの口から出たのは、全く予想外の言葉だった。
「あの……、ありがとうございました」
「“ありがとうございました”?」
驚きのあまり、うっかり復唱してしまう。
まさか礼を言われるとは思わなかったからだ。
だが、よくよく考えてみれば確かに、眠ってしまった自分を運んでくれた相手に礼を言うのは、何らおかしなことではない。
「いや。そもそも、俺が君から目を放したのがいけなかった。こちらこそ、すまなかった」
そう答えると、エリスははにかむような笑みを浮かべる。
「いえ、あの、運んでくださったこともそうなのですが……」
「……?」
「ダンスのとき、動けなくなったわたくしに、殿下は『問題ない』とお言葉をかけてくださいました。あの一言に、わたくしは救われたのです。……そのお礼を、どうしても言いたくて」
「――っ」
「本当に、ありがとうございました」
嘘偽りない真っすぐな眼差しで見つめられ、アレクシスは内心とても動揺した。
自分では何気なく言ったその一言に、『救われた』などと言われても、どういう反応を取ればいいのかわからなかった。
ただ、どうしようもなく、胸が熱くなったことだけは確かだった。
結局アレクシスは「ああ」と短く答え、今度こそ部屋を出る。
そして後ろ手に扉を閉めると、そのままトンと背中を預け――口元を覆った。
(――ああ、そうか。俺は……)
気付いてしまった。エリスの笑顔を見て、気が付いてしまった。
自分は、彼女が好きなのだ――と。