14.ランデル王国の王太子
それから約三十分が経ったころ、エリスはマリアンヌと会場隅のソファに腰かけ、和やかに談笑していた。
話題は先ほどのダンスについてである。
「わたくし、びっくりしっちゃったわ……! アレクお兄さまがあんなに楽しそうに踊るなんて! 去年まではわたくしのペアはお兄さまだったのだけど、いつもどこかそっぽを向いているし、本当につまらなそうで。それなのに先ほどのお兄さまったら……! お二人は本当に仲がいいのね、羨ましいわ」
「そう仰っていただけるとほっとしますわ。実は、ここのところ殿下はとてもお忙しくて、ダンスの練習ができなかったものですから」
「まぁ! だからお兄さまったら最初あんなに力んでいらっしゃったのね。お二人の距離があまりに近くて、わたくし本当にドキドキしてしまったのよ。会場の誰もが驚いたんじゃないかしら。女性嫌いのお兄さまが、あんなに正面からエリス様を見つめておられて……」
「…………」
マリアンヌの言葉に、エリスは先ほどのことを思い出す。
これから踊るという大事な場面で、ホールの中央で立ち尽くしてしまった自分。
けれどそんな自分を、アレクシスはフォローしてくれた。
方法はかなり力技なものだったけれど、そのおかげで中盤以降、彼女はいつもの自分を取り戻し自力で踊ることができたのだ。
もともとダンスの得意だった彼女は、アレクシスとの体格差を思わせることなく見事なステップを披露し、無事にフィニッシュ。
アレクシスからも「何だ。踊れるじゃないか」とお褒めの言葉(?)を授かり、今に至る。
(とにかく、無事に終わってよかったわ)
ダンスの前はあれだけ恐ろしかったこの舞踏会場も、今は少しも怖くない。
その理由はきっと、アレクシスが「踊れなくても問題ない」と本気で言ってくれたからだ。
呆れるでもなく、慰めるでもなく、ただ「問題ない」と――その一言に、エリスの心は救われた。
(でも、『俺を誰だと思ってる。帝国最強の男だぞ』って……あの台詞には本当に驚いたわ)
そのときのアレクシスを思い出すと、不覚にもときめいてしまう。
“帝国最強”だなんて言葉をあんなにサラッと口に出してしまえるアレクシスが、そのときのエリスにはたまらなく眩しく映ったのだ。
(殿下には、あとできちんとお礼を言わなくちゃ)
アレクシスはダンスが終わってすぐ、軍人と思われる誰かに声をかけられどこかへ行ってしまった。
その為エリスは、まだお礼を伝えられていないのだ。
感謝の言葉は、帰りの馬車の中で伝えよう――そう心に決めて、エリスはマリアンヌとのお喋りを再開する。
すると、そんなときだ。
マリアンヌが「お花を摘みにいってきますわね」と席を立ったそのすぐ後、エリスは一人の男から声をかけられた。
「失礼ですが、エリス皇子妃殿下でいらっしゃいますか?」
「……?」
聞き覚えのない声に顔を上げると、そこに立っていたのはやはり見知らぬ男だった。
ブルーグレーの瞳と、首の後ろで括られた銀色の長い髪。
歳はアレクシスと同じくらいだろうか――やや中性的な顔立ちの、柔らかな雰囲気を纏った男。
だが、エリスはすぐに相手の正体に気が付いた。
男の美しい装束の胸元の紋章は、ランデル王国の王家の印だ。つまり、この男は王族。
(ランデル王国の王族が、わたしにいったい何の用かしら。年齢的には、一番上の王子よね)
エリスは脳内で、事前に頭に叩き込んでおいた諸外国の要人リストをパラパラとめくり始める。
そして該当人物の名前を探し当てると、にこりと微笑んだ。
「わたくしに何か御用でしょうか、ジークフリート王太子殿下」
――ランデル王国が王太子、ジークフリート・フォン・ランデル。
彼は王太子でありながら、殆ど表舞台に出てこない謎多き王子として有名だ。
(そんな王子が、どうしてわたしに話しかけてくるの?)
エリスはただただ不思議に思う。
自分とランデル王国の繋がりは、弟のシオンが留学していることくらいなのに、と。
だがエリスがそう思ったのも束の間、ジークフリートが口にしたのは、まさかの弟の名前だった。
「シオンがあなたに会いに来ているんです。たった今、この会場の外に――」と。
「……え?」
それはあまりに予想外の内容で、エリスは茫然としてしまった。
この場で出るはずのない、シオンという名前に。
たった一人の大切な弟の名が、ジークフリートの口から出たことに。
「どう、して……?」
正直、わけがわからなかった。
そもそもエリスはシオンに対し、帝国に嫁いだことすら伝えていないのだ。
ユリウスから婚約破棄された挙句、帝国に嫁ぐことになったなどと伝えたら、絶対に心配をかけてしまう。
シオンには心配をかけたくない。たった一人祖国を離れ、苦労している弟をこれ以上苦しめたくない。
そう考えたエリスは、シオンに何一つ伝えず帝国に輿入れした。
そしてその後は、一度も手紙を出していない。
出そうと思ったことはあるのだが、皇族宛の手紙には全て宮内府の検閲が入ると聞いて、やめてしまった。
それなのにジークフリートは、今ここにシオンがいるという。
ランデル王国から馬車で十日もかかるこの地に、自分に会うために来ていると――そう言ったのだ。
驚きのあまり声を出せないでいるエリスに、ジークフリートはゆっくりと右手を差し出す。
「彼に会いませんか? 僕がお供しますよ」
「……っ」
「大丈夫。王宮の外には出ませんから」
「……でも」
「夫のことが、気になりますか?」
「――ッ」
ハッとするエリスに、ジークフリートはにこりと微笑む。
「ですが、殿下と共に会うのはおすすめしません。シオンは今とても気が立っていますから、殿下の顔を見ようものなら真っ先に殴り掛かかってしまうでしょう」
「殴りかかる? あの、優しいシオンが?」
「正直言うと、彼がどんな人間であるか僕は知らないのです。けれど僕の弟の言葉を借りるなら、『姉の結婚の記事を目にしたときからずっとイライラしている』と。それにここだけの話、彼は毎晩ベッドの中で泣いているんだそうですよ。そのせいで彼と同室の生徒がノイローゼになって困っていると、監督生の弟に相談されまして。おかげで僕が彼を連れて、こうして遠路はるばる足を運ぶことになったというわけです」
「……っ」
「だから僕の為にも、彼に会ってやっていただけませんか? エリス皇子妃殿下」
エリスを見つめる、ジークフリートの強い眼差し。
本当かどうか判断しようのない内容だが、無視するわけにはいかない。
エリスはひとり、心を決める。
彼女は小さく頷いて、ジークフリートの手を取ると会場を抜け出した。