10.その頃、アレクシスは
エリスがマリアンヌとのお茶会を楽しんでいる頃、アレクシスは宮廷内の執務室のソファにて、ぶるっと身体を震わせていた。
急に寒気を感じたからである。
(何だ……? 風邪か?)
最近はなるべく早く帰宅しようとろくに休憩を取らないため、疲れが溜まっているのかもしれない。
(少し仕事を減らすべきか……。いや、だがそんなに簡単に減らせるものでも……)
アレクシスがそんな風に考えていると、不意にクロヴィスの声が飛んでくる。
「可笑しな顔をしてどうしたんだい、アレクシス?」
「あ……いえ……、急に寒気がしたものですから」
「寒気?」
今、ローテーブルを挟んだ反対側のソファにはクロヴィスが座っていた。
アレクシスは、つい先ほど先触れもなくやってきたクロヴィスに「確認したいことがある」と言われ、ソファに座らされたばかりだった。
寒気がする、と言ったアレクシスに、クロヴィスは「ふむ」と顎に手を当ててほくそ笑む。
「大方、誰かがお前の噂話でもしているのだろう」
「噂話?」
「ああ、今日は例の茶会の日だろう? マリアンヌのことだから、お前の昔話を面白おかしくエリス妃に語っているのではないかな」
「…………」
確かに、マリアンヌには昔からそういうところがあった。
社交的で人懐っこく素直な性格の彼女だが、一度気を許した相手には何でもペラペラと話してしまうのだ。
それもあって、アレクシスはエリスがお茶会に参加することに不安を抱いていたのだが、案の定である。
「まぁ、とはいえ、もしマリアンヌが気を許したというのなら、エリス妃は疑うべくもなく善良な人間だということだ。マリアンヌの人を見る目は確かだからな。心配することはないだろう」
「……それは、確かにそうでしょうが」
「何だ。もしやお前は、夫としての威厳が保てなくなることを案じているのか?」
「いえ、特にそういうわけでは……」
クロヴィスの問いに、歯切れ悪く答えるアレクシス。
――実際のところ、アレクシスはここ最近の自分の気持ちが分からなくなっていた。
二週間前、「他の妻を娶りたくない」という身勝手な都合で、エリスに無理を言った自分。
エリスが断れないことを知りながら、夫婦仲が良好であることを周囲に示す為にエメラルド宮に居室を移し、共に食事を取りたいと告げた。
アレクシスはそのとき、少なくとも、嫌な顔をされるのは間違いないと思っていた。
初夜であれだけ手酷く扱ったのだ。エリスは自分の顔など見たくもないだろう、と。
だがエリスは驚いた様子こそ見せたものの、迷うことなく「はい」と答えたのだ。
それも、自分を気遣うような笑みを浮かべて――。
(なぜ笑える……? 君は俺が怖くないのか?)
アレクシスは不思議に思った。
翌日から、自分に合わせた生活を送るエリスのことを。
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」と笑顔で自分を送り出し、どれだけ夜遅く帰宅しても、「お帰りなさいませ」と優しく出迎えてくれるエリスのことを。
そして何より、献身的なエリスに対し嫌悪感を抱いていない自分の心が、一番信じられなかった。
――もしや俺は、エリスを"思い出のエリス"に重ねているのではないか。
髪の色も、瞳の色も、名前も同じ。そのせいで、こんな気持ちになるのではないか――と。
二週間が経った今も、この気持ちの正体はわからないまま。
けれど少なくとも、エリスに対し嫌悪感を抱いていないことだけは確かだった。
アレクシスがモヤモヤとした気持ちを抱えながら顔を上げると、クロヴィスが興味深そうな目で自分を見ていた。
これはろくなことを考えていない顔だ――本能的にそう思ったアレクシスは、急いで話を本題に戻す。
「それで、俺に確認したいこととは?」
そう問いかけると、クロヴィスはこれでもかと微笑んで、後ろに控える側近から一枚の書類を受け取った。
「確認事項は二つだ。どちらも二週間後の宮廷舞踏会についてだが――まず一つ目。舞踏会の来賓客リストの中に、ランデル王国の王太子、ジークフリートの名があった。彼はかつて一度も帝国の公式行事に顔を出したことがないから、どうにも気になってな。どういう風の吹き回しだろうかと」
「――!? あいつが帝国に来ると!?」
「そのようだよ。彼はお前の留学時代の友人だろう? どんな男だい?」
「どう、と言われても……。発言行動全てにおいて予測がつかない男だった、としか……」
「卒業以来連絡を取ったことは?」
「ないですね」
アレクシスがきっぱりと答えると、クロヴィスは短く思案して、「わかった」と頷く。
そして、「では次。こちらが本題だが――」と言って、急に顔から表情を消した。
そのいつになく真面目なクロヴィスの表情に、アレクシスは内心ドキリとする。
いったい何事だろうか、と。
「今朝方、宮内府から上がってきた経費書類を確認していて気付いたんだが……」
だがクロヴィスの口から放たれたのは、全く予期せぬ言葉で――。
「お前、エリス妃に送る宝石を用意していないだろう」
「……宝石?」
刹那、アレクシスは口を半開きにして固まった。
いったいこの兄は何を言い出すのだろうか。
「そう、宝石だ。宮廷舞踏会で妃たちが身に着ける衣装について、色が厳格に決められていることはお前も知っているな?」
「まぁ、それは。宮の名にちなんで、第一皇子妃は赤、第二皇子妃は青、第三皇子妃のエリスは緑、と。ですが、衣装は宮内府が用意するはずでしょう」
「衣装はな。だが宝石は夫である皇子が用意するのが慣わしだ。費用は宮内府持ちだが、その選定は皇子が行わなければならない」
「――!」
瞬間、アレクシスは絶句した。
完全に失念していたからだ。
女嫌いのアレクシスは、今までそういった慣習を気にすることなく生きてきた。
そのため、その辺りのマナーに疎いのだ。
顔を青くするアレクシスに、クロヴィスはやれやれと肩をすくめる。
「本当に手のかかる弟だね。そんなことだろうと思って、ここに来る前に宝石商を手配しておいた。デザイナーと細工師と共に、夕方には来てくれるそうだ。カット済みの石を百点用意するよう伝えてあるから、今夜中に決めてしまいなさい。いいね?」
「……はい」
アレクシスが答えると、クロヴィスは手にしていた一枚の紙を手渡し「これはエリス妃のドレスのデザイン画だ。頑張りなさい」と言い残して去っていく。
だがアレクシスには、その意味がわからなかった。
(頑張る? いったい何を……。それにこのデザイン画は何だ? ただ宝石を選ぶだけじゃないのか?)
ドレスのデザイン画を見つめ、大きく眉を寄せるアレクシス。
彼は、先ほどからすっかり空気と化しているセドリックを呼びつける。
「セドリック、今の話、聞いてたな?」
「はい」
「なら、兄上の最後の言葉の意味がわかるか?」
「そりゃあ、ドレスに合わせた装飾品を作るにはそれ相応のセンスが求められますし」
「ドレスに合わせた? なんだ、それは」
「…………。もしや殿下は、石を数点選べば終わりだと思っていらっしゃるのでは?」
「ああ、その通りだが。違うのか?」
「全く違います」
セドリックにピシャリと言い捨てられ、アレクシスは困惑する。
そんな主人の姿を見て、「今夜は徹夜になりそうだ」――とセドリックが内心大きな溜め息をついたことを、アレクシスは知る由もない。