1.突然の婚約破棄
「エリス・ウィンザー! 今をもって、君との婚約を破棄する!」
「――っ!?」
ウィンザー公爵家の長女エリスが、婚約者である王太子ユリウスから破談の宣告を受けたのは、シーズン最初の王宮舞踏会が始まったばかりのときだった。
スフィア王国の伯爵位以上の紳士・淑女らが大勢集まる中、まるで見世物のように、エリスは婚約破棄を言い渡されたのだ。
けれど、当のエリスには破棄される覚えがまったくなかった。本当に、何一つとして……。
「あの……殿下、理由を……どうか理由をお聞かせくださいませ」
エリスはユリウスに縋ろうとする。
今身に着けているドレスだって、ユリウスがこの日のためにプレゼントしてくれたものだ。
君の亜麻色の髪と、瑠璃色の瞳に映えるだろう――そう言って、一月前に贈ってくれた淡い紫の美しいドレス。
それなのに、どうして急に……と。
だが、ユリウスはエリスの手を振り払い、大声で衛兵を呼ぶ。
「あの男をここへ連れてこい!」
そうして連れてこられたのは、下位貴族らしき二十歳前後の男だった。
その男は衛兵二人に引きずられるようにして、ユリウスの御前で無理やり額を床にこすりつけられている。
ユリウスはその男を憎らし気に見下ろし、怒りに声を震わせた。
「言え! お前の罪状は何だ……!」
その声に、ヒッと小さく悲鳴を上げ、男はぼそぼそと何かを告げる。
「わ……私は……ウィンザー公爵家のエリス嬢と……………」
「もっとこの場の全員に聞こえるように話せッ!」
「――ッ! わ……私はそこにいらっしゃるエリス嬢と通じました! 本当に申し訳ございません……ッ!」
刹那、ざわり――と空気が波打った。
会場全体がエリスを睨みつけている。
だがやはり、エリスにはまったくもって身に覚えのないことだった。
エリスは否定しようと口を開く。「殿下、わたくしは――」と。
けれどそれより速く、エリスの前に躍り出てユリウスに頭を垂れたのは、妹のクリスティーナだった。
「殿下! まさかお姉さまがそんなことをするはずありませんわ! これは何かの間違いにございます!」
「……クリスティーナ」
姉の無実を乞う、美しい妹クリスティーナ。
明るくて、気さくで、誰からも愛される、笑顔の可憐なクリスティーナ。
だが、そんなクリスティーナが自分を庇う様子に、エリスは言いようのない不安を覚えた。
(どうしてあなたがわたしを庇うの? いつもはわたしに嫌がらせばかりするのに……)
けれど、その間にもユリウスとクリスティーナの話は進んでいく。
「ああ、僕だって最初は間違いだと思ったさ! だが、この男はエリスの秘密を知っていた。僕しか知らないはずの……君の秘密を……!」
ユリウスの怒りと悲しみに揺れる瞳が、エリスを静かに見つめた。
「エリス……僕は君を信じていたのに……。この男は、君の肩に火傷の痕があることを知っていたんだ。それが何よりの証拠だよ」
「……っ!」
その言葉に、エリスは顔を青くしてその場に崩れ落ちる。
身に覚えなどない。こんな男のことなど知らない。ユリウス以外の男に、この傷跡を見せたことは一度もない。
それなのに、いったいどうして……?
絶望の中、「この女を二度と僕の目に触れさせるな」という冷たいユリウスの声が遠くに聞こえ――気が付いたときには、エリスは会場の外に追い出されていた。
◇
「この役立たず――! よもや殿下を裏切るなど、恥を知れ!」
その晩、公爵である父に平手打ちされたエリスは、部屋で謹慎するよう命じられた。
エリスの部屋はこの屋敷で一番狭い。もともと使っていた部屋は、異母妹のクリスティーナに取られてしまったからだ。
そのとき一緒に、亡き母から譲り受けた貴金属や宝石類も奪い取られた。
残されたのは、デザインが古臭いからという理由で置いて行かれたドレスだけ。
エリスはヒリヒリと痛む頬を押さえながら、固いベッドに倒れ込む。
(いったいどうしてこんなことになってしまったのかしら……。わたしは、あの男性のことなんて何も知らないのに)
本当に、一度も見たことのない男だった。
それなのに、あの男は私の肩に火傷の痕があることを知っていたという。
(確かにここのところ殿下はわたしに素っ気なかったけれど、まさかこういう理由だったなんて)
私はこれから先どうなるのだろう。
王太子から婚約を破棄された令嬢に、行く当てなどあるわけがない。
エリスは不安のあまり、両腕で自身の身体を抱きしめる。
エリスが王太子ユリウスと婚約したのは、まだ七歳のときだった。
年齢と家柄が丁度いいからと結ばれた婚約。
だがユリウスはとても優しくしてくれて、エリスは、この人に相応しい女性になりたいと、幼心に決意した。
それから約十年余り。エリスは必死に生きてきた。
婚約して一年後、エリスが八歳のときに実母が病気で死に、父が愛人と再婚したときも、エリスは気丈に振る舞った。
愛人には、実弟シオンと同い年の六歳になる娘、クリスティーナがいた。
つまり、父は少なくとも六年以上浮気をしていたのだが、エリスは父を責めることはしなかった。
だが、そんなエリスの思いを踏みにじるかのように、元平民だった継母と異母妹はやりたい放題に振る舞った。
屋敷の家具を全て入れ替え、宝石商を毎日のように呼び、ドレスを買い漁った。異国から珍しいものを取り寄せては、サロンで周りに自慢していた。
けれど父はそれを注意するどころか助長させる態度を見せ、そんな父親に見切りをつけたエリスは、実弟シオンのためにも自分がしっかりしなければと思ったのだ。
だがまもなくして、父はシオンを他国へ留学させると言い出した。
父は公爵家の入り婿だったから、正当な爵位継承者であるシオンを邪魔に思ったのだろう。
それに反対したエリスは、肩にタバコの火を押し付けられたのだ。
しかも父は、その怪我をこともあろうにエリスの責任にした。
火傷の傷が癒えないエリスを王宮に連れていき、ユリウスに向かってこう伝えたのだ。
「娘が粗相をして肌に傷を負ったため、殿下のお許しがいただけるなら、妹のクリスティーナを代わりの婚約者に据えられればと考えております」と。
その言葉を聞いたとき、エリスは自分の人生はもう終わったと思った。
父に愛されない自分。弟とも引き離され、屋敷では最低限の生活を与えられるだけ。
それだって、自分が王太子ユリウスの婚約者であるからだ。
物を取られたり、隠されたり、そういう小さい嫌がらせで済んでいるのは、自分が王太子の婚約者だから。
もしその地位を奪われたら、いったい自分はどうなるのだろう、と。
けれどユリウスは、涙を堪えるエリスを優しく抱きしめてくれた。
「傷なんて気にしないよ。僕の婚約者はエリスだ。それは変わらないよ。だから泣かないで」と。
その瞬間だった。
エリスが、ユリウスに恋をしたのは。
それからは、エリスは継母に何を言われても、クリスティーナにどんな嫌がらせをされようと、毅然として生きてきた。
自分が生涯ユリウスを支えるのだと。王太子妃になるのだと。
生きる目的を与えてくれたユリウスの優しさに報いたい、と。
毎日毎日、必死に努力してきたのだ。
――ああ、それなのに……。
(殿下は、わたしを信じてはくださらなかった)
それがとても悲しかった。
とても悔しかった。
自分は何もしていないのに、愛しているのはずっとユリウスただ一人だと言うのに、その気持ちを信じてもらえないことが、ただただ苦しかった。
エリスは声を殺して泣いた。
灯りもつけず、暗い部屋でたった一人。
慰めてくれるユリウスは、もうどこにもいない。
それからどれくらい経ったころだろうか。
不意にドアが開いて、クリスティーナが入ってきた。
目の覚めるような彼女の美しい金髪も、この暗闇ではわからない。
「何よ、灯りもつけないで。辛気臭いったらないわ」
クリスティーナはヒールの音をわざとらしく鳴らしながらベッドの脇にやってきて、エリスを冷たく見下ろした。
「まさかずっと泣いてたの? やーねぇ、メソメソしちゃって。大丈夫よ、安心して。ユリウス殿下のことはわたしに任せてくれればいいから」
クリスティーナの口から出た、ユリウスの名前。
その名前に、エリスは反応しないわけにはいかなかった。
「それ……どういう意味? 殿下を任せるって……」
ベッドから身体を起こし震える声で問うエリスに、クリスティーナはニヤリと口角を上げる。
「全部言わないとわからない? ユリウス殿下はわたしが誠心誠意お慰めしてあげるって言ってるのよ。あーあ、にしても本当に簡単だったわ。こんなことならもっと早く実行していればよかった!」
「…………」
(いったいこの子は何を言ってるの? もっと早く実行していればって……何?)
困惑するエリスに、クリスティーナは笑みを深くする。
「あの男に、”抱いた女の肩に火傷の痕があった”って噂を流してもらったのよ。まさかそれがお姉さまのことだなんて思いもしなかったでしょうけど。今頃王国から逃げ出す算段を整えているでしょうね。しつこい男だったから、ほんといい気味!」
「――ッ! まさか……クリスティーナ……全部、あなたが計画したことなの……?」
「だからそうだって言ってるでしょう? でも仕方ないじゃない? だってお姉さま、全然ユリウス殿下を譲ってくださらないんだもの。だったら壊すしかないじゃない」
「……そん、な……」
――ああ……そんなことのために、クリスティーナは殿下の気持ちまでも傷付けたと……?
私だけでなく、周りを巻き込んで……?
「許されないわ……こんなこと、許されていいはずがない……。これを知ったらきっと、お父さまだってお怒りに――!」
「あら、そう思うのなら告げ口したら? もっとも、お父さまはお姉さまの言うことなんて信じないでしょうけど!」
「――っ」
「むしろ、お父さまがこの件を知ったらわたしを褒めてくださるんじゃないかしら? だってお父さま、昔から言っていたもの。お姉さまが邪魔だって。殿下の婚約者じゃなければ、シオンと一緒に追い出してやったのにって……!」
「……!」
絶望するエリスを蔑むように見下ろして、クリスティーナは月明りの下、美しく嗤う。
「じゃあ、そういうことだから。おやすみなさい、お姉さま。良い夢を見られるといいわね」
「――ッ」
クリスティーナは機嫌よく部屋を後にする。
エリスはその背中を、ただ茫然と見送ることしかできなかった。