3‐2‐8 自室へ戻り
クレメンスに伴われ、ナギサは学舎寮へと戻った。
大神殿から学舎寮までの道は夜も更け、人気はない。一人歩くには心細い小路ではある。だが、薬草園へと続く道と同様、きちんと整備され、人が近寄れば自動的に灯りがつくので、実際に怖いと思ったことは一度もない。
今日に限って言えば、隣にクレメンスがいる。
心細さよりも安心感が勝る道中だったが、同時に、慣れぬ大人との会話には内心でそれなりの苦労を強いられた。
「クレメンス様、わざわざ送って頂いてありがとうございます」
深く頭を下げるナギサに、クレメンスが慌てて手を横に振った。
「いやいや、ナギサ君。頭を上げてくれたまえ。
ここまで送るのはわたしの職務だ。ただ、それがなくとも、君のような年少の者を一人夜道を歩かせるなど、わたしにはできないよ」
ふわりと頭を撫でる大きな手。夜気は冷たいはずなのに、その掌から伝わるのは優しい暖かさだ。
ナギサが静かに見上げれば、そこには穏やかな微笑みがあった。
◇
自室に戻り、小物屋でもらった大切な贈り物をベッドの上へそっと置く。
そして、そのままベッドに倒れ込んだ。
——着替えないと……。
そう考えるものの、身体が思うように動かない。
鉛のように重い手足を無理やり動かそうとして、結局、シーツに顔を埋めたまま吐息をついた
あまりにも今日はいろいろあり過ぎた。立て続けに起きた出来事もそうだが、整理して考えなければならないことまで、山積みだった。
——あの場を仕切っていた男は逃げてしまった。
目印の魔法を打ち込めなかった。それは己の失態だと、ナギサの中に、悔やしさが再び込み上げてくる。
だが、男達が根城にしていた場所へ騎士達を導くことはできた。
そう考えれば、少しは己の魔法が役立ったと思える。しかし、同時にクレメンスから聞かされた男達の凄惨な光景が脳裏をよぎる。
あの時はホットチョコレートの心地よい甘さと濃厚な色合いが、不意にどす黒い血色に思え、甘い香りさえもが一瞬、血錆びの臭いに感じられてしまった。
禁制品である腕輪の回収、ただそのためだけに腕ごと切り落とす……。路地裏で唐突に人を攫う悪意。
この世界の平穏な皮を一枚めくれば、そこにはそんなにもおぞましい悪意が潜んでいるのだろうか。
この一年、ナギサが見てきたこの世界は、基本とても優しい世界だった。凄惨な事件が身近で起きることもなく、戦争の影すら感じられない。精々が魔獣や魔力溜まりの脅威を耳にする程度だった。
——そういえば……。ゴリツィアは何故あれほど怯えていたのだろう?
襲われたこと、モリスが捕えられたこと、ナギサ自身も恐ろしかったのだから、ゴリツィアだって同様のはずだ。
だが、その後も何かに怯え続けていた。騎士に対する恐怖かとも疑ったが、クレメンスに頭を撫でられた時のゴリツィアに、怯えの色はなかった。
あの時の様子を思い出そうとするが、ニールと念話で話していたこともあり、ナギサは断片的にしか思い出せなかった。だが、それでも“無効化の魔道具”その言葉に強く反応していた。何か魔道具か禁制品と呼ばれるものに、トラウマでもあるのだろうか。
あの怯えようを思い出すと、ナギサからいきなり切り出すのは躊躇われる。
何かきっかけになる話題でも出た時に、それとなく聞いてみることにしよう。
すっきりしない頭で、ベッドに横たわっていると、自然と視線は贈り物の包みへと向かった。
——こんなに沢山……。
店のご婦人方の過剰なほどの親切。トランキリタの“娘”という言葉。それに、クレメンスはまるで話に聞く“父親”のような優しさでナギサに接してくれた。
恐ろしい事、嫌な事が数多くあった一日だったが、それ以上に、周囲に溢れる善意に気づかされた一日でもあった。
この沢山の手土産。
店主婦人はまだしも、だが、あの時、あの場に居た、それ以外のご婦人方は、初対面の人ばかり。それなのに、こんなにも見ず知らずの子供に手を差し伸べてくれた。
——そういえば、ニールさん、ご婦人方にはたじたじだったけど……。
あれが彼の本当の姿なのか、あるいは人界での偽りの姿なのか。ローニャが恋する相手。そう思えば、前者であって欲しいとナギサは思う。それに……。
——謝ってくれた。
まさかの謝罪だった。彼はローニャに言われて謝るようには見えない。ならば、あれは自発的な言葉として受け取っていいのだろうか。
それに……助けてくれた。ナギサを助けるためでなく、モリスの為であったかもしれない。だが、ニールから念話をかけてくれた。
これまでの彼の態度を思えば不思議で仕方がないが、この話はいつかリュークに伝えてあげたいとナギサは思う。リュークとニールは元々、仲が良い友人だったという。ニールが素直に謝ったこと、ナギサを助けてくれたことを知れば、リュークの心にあるわだかまりも、少しは解けるのではないだろうか。
——そういえば、リューク……。今頃どうしているのかな……。
リュークは春休暇の終わりごろ、予定通り行商から戻って来た。だが、すぐにまた出掛けてしまった。
先日の春宵宮でのことや、その後のローニャが名前を取り戻したことによる騒動の影響で、行商人として約束していたことをいくつか違えてしまい、その埋め合わせをする必要が出来てしまったらしい。
また出掛けると聞いて驚くナギサに、『信用に関わるからね』と柔らかな笑みで頭を撫でられた。都合が悪い事は、人々の記憶を改変してしまうリュークが、あくまでも行商人として振舞おうとする姿に、ナギサは返答に詰まってしまった。
つまりは、ナギサを助けに来てくれたせいで、仕事に穴を空けてしまい、その対応でまた出掛けなければいけない、ということだ。
リュークとクラウスが助けてくれる。そんな状況に、いつの間にか甘えていた。
ニールに殺されそうになった時、リナにアダマースを助けて欲しいと乞われた時、どちらの時も二人はナギサの為に春宵宮へ来てくれた。仮にも神様とシンバ。両者がただ人であるナギサの為に、時間を割いてくれる。考えてみれば、それはとても贅沢なこと。余りにも二人が身近で、傍にいることが当たり前のように思っていたことに気づいてしまう。
いつか飽きられる、見捨てられると……。リュークへの想いが膨れ上がるほど、その恐怖も膨れ上がる。
置いていかれる己を想像してしまい、リュークへと手を伸ばせない。
いくらリュークが言葉を尽くしてくれても、神々と人では時間の流れが違いすぎるのだから。
ぼんやりとした思考の中で、シーツに置かれた鮮やかな色が目に入る。
“女神の瞳”色。
何度見ても美しい色合いである。ローニャの瞳色と言われて直ぐに納得できた。この糸で刺繍すれば、確かに御守になりそうである。
張り詰めていた心の糸が、ぷつりと切れた。
鮮やかな糸の輝きを視界の端に捉えたまま、鉛のような身体がシーツの海に深く沈み込んでいく。
抗う術もないほど強烈な睡魔が、今日一日の恐怖も、悔しさも、すべてを等しく塗り潰していく。
ナギサは着替えることさえ忘れ、心地よい闇の底へと、ただ静かにのまれていった。




