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全存在忘却男

 忘れっぽい男は、大理石の机一つを挟んで、スーツ姿の男と向かい合いながら座っていた。

「私は、今までたくさんのものをなくしてきたんですよ。なぜかしら、忘れ物が多くてね」

「それなら、私も経験がありますよ。今月に入って、早速ハンカチ一枚をなくしましたよ」

 スーツ姿の男が言うと、忘れっぽい男は力なく首を横に振った。

「それなら、まだ正常な状態と言えるでしょう」

「と言いますと?」

 興味ありげにスーツ姿の男が聞き返し、忘れっぽい男は頷いて、彼自身の身に起きたことを語り始めた。

「私は少年時代の頃から忘れ物が多かったんですが、大人になる頃には、それはもう酷い状態になり始めたんですよ。あれは確か結婚して三年くらいになった頃、一歳半の娘と二十六歳の妻を持っていた至福の時でした」

「その時から、何が起こったと?」

 スーツ姿の男が、話の続きを急かした。

「落ち着いてください。今から言います。その至福の時が到来するまでは、私の忘れっぽさはまだ通常の範囲でした。財布を落とすだとか、腕時計を落とすだとか、本をなくすとか、筆箱を紛失するとか、携帯電話を取りに一階へ降りて何をするのか忘れてリビングでお茶を飲むとか、降りる駅を二度忘れるとか、ですね。」

 ほうほう、とスーツ姿の男が相槌を打つ。まだ話の先が見えてこず、少し彼はいらいらしていた。

「それで、あなたの疑問にお答えします。私が結婚して三年くらいになると、私の身から離れていくものが、単なる物だけではなくなったのです」

「例えば?」

「私の友人です」

「友人ですって?」

 スーツの男が、素っ頓狂な声を上げた。

「まさか!」

「嘘と言ってもらっても一向に構いませんよ。私は、別にあなたに信じて欲しくてこの話がしたかったわけではありません」

「確かに。私達は、売主と買主の関係ですからね」

「ええ、まあ、そうですが。この話を聞いてから、私はあなたのものを買う、という約束でしたものね?」

「む? ああ、そうだ」

 スーツの男は、この忘れっぽい男を少し不審に思っていた。というのも、忘れっぽい男にアポをとられた記憶がないからである。

 彼は多くの者から恨みを買われているので、殺されてもおかしくない状態なのだ。だからこそアポをとっていない者は、自分の客であっても絶対に会わない。この理論から言えば、今、目の前にいる客はもしかしたら自分を暗殺しにきた刺客なのかもしれないがしかし、自身の家のセキュリティは完全無欠だ。つまるところ、この忘れっぽい男がアポをとっている人間と言わざるをえない。

 それに、この忘れっぽい彼は、ちゃんとアポをとったと言い張っている。大方、アポがあったことを、自分が忘れてしまったのだろう。

「ああ、私も忘れっぽくなったものだ」

「え?」

「あ、いや、独り言だ。話を続けてくれ」

 スーツの男が、さあ、と掌を上に向けた。

「私は先程も述べたように友人を失いました。いえ、その前に、私はまず会社の上司から失いました。最初は異動かと思っていたんですが違いました。この世から完全に消えたのです」

「なぜ、そう思うんだね?」

 スーツの男が手を組み、そこに顎を乗せた。

「友人に前の上司はどこにいるのかな、と聞くと、何を言っているんだい、と言われたからです。最初は変なこともあるもんだ、と思っていたんですが、その友人すら消えてしまったのです」

 少し頭がいかれているのだろう。今までの自分の客層は、大抵、トチ狂った輩が多かったから。スーツの男は自分の説に妙に納得した。

「さすがにここまでくると、あることを直感しましたよ。私は 、物ではなく、人の方の 、者を失い始めたのだと」

「はあ……。それで次は、どうなったんです?」

 スーツの男は、この手の客には調子を合わせておく方が無難だということを知っていた。

「私と関係を持つ者が、一人また一人、と消えていきました。そして、遂に私の知る人間は誰一人としていなくなりました」

「そうですか……」

 スーツの男は困ったので、棒読みのような相槌になってしまった。どう反応すればいいか解らない。

「ともかく、私は新たに友人や知人を作るべきではないと考え、ただ、ただ、じっと一人で生きていました。幸い飢えて死ぬこともなければ、病気で死ぬこともありませんでした。なぜかしら、私は私の周囲をなくすのに、自分自身をなくすことはできなかったのです。

 そして、私は放浪を続けていました。道中、誰かに話しかけられることはありましたが、無視しました。なぜなら、話しかけて、その人が消えるのは気持ちの良いものではありませんからね。

 そうして、私が孤独に生きている矢先に、更なる不幸が起きました。核ミサイルが、私の国に撃ち込まれたのです。それは、それは、酷い有様でした。私の周囲の人どころか、それこそ目にしたことのない地方の者まで消えてしまったのですから。

 しかし、爆心地にいながらも私は生きていました。これで、もう私は打ちのめされましたね。なんと私は悪い人間なのだろうか、と悩んで、悩んで、泣き続けました。ですが、一週間くらいしてからのことです。待てよ、悪いのは私ではなく、そのミサイルを撃ち込んだ奴、そう、ミサイルを産み出した奴ではないか、と気付いたのです」

「ど、どういうことかね?」

 スーツの男は、冷や汗が吹き出るのを感じた。

「私はこの忘れっぽさを使って、世の中を少しでも良くしようと考えたのですよ。だって、そうでしょ? 私は私を失うことはできないし、かといって、このまま放浪していただけでは私の能力が悪い面においてしか力を発揮しないのですから」

 忘れっぽい男はそう言ってから、スーツの男の肩をぽんぽんと叩き、そして彼の部屋を後にした。


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