オール電子辞書
秋の風が吹く屋上。そこに二人の少女がいた。一人はフェンスを越えたところに、もう一人は屋上の中央にいる。
「止めて! 自殺なんか止めてよ、幸子!」
中央にいる少女、芳美が叫ぶ。幸子には、死んで欲しくない。止めて欲しかった。自殺などという、無意味に周囲を傷つけるだけの行為は、絶対に思い留まって欲しかった。
しかしフェンスの先にいる友人、幸子は、振り向きもせず、こう答えた。
「引き止めてくれてありがとう、芳美。でも、私にはこれしかないの。だから飛ぶ……私に意味というものを付けるために」
「止めてえええええええええええ!」
芳美はフェンスに駆け寄ったが、幸子の自殺は止められなかった。友人は、マンションの屋上から飛んでしまった。
あれから数年が経ち、芳美は高校に入学していた。無論、授業の進度が速くなり、いよいよ辞書を引くのが面倒になってきたので、今日、母とともにデパートに出かけ、電子辞書を買ったのであった。
「さてさて、今日は何を調べてみよっかなあ」
何気なく本棚に目を向けてみた。「憎悪の世紀」というタイトルが、彼女の目に留まった。憎悪の意味は知っていたが、試しに、ということで『憎悪』を調べてみた。
ぞうお――を①【憎悪】(名)スル
憎むこと。憎み嫌うこと。「――の念」「深く――する」
→加奈子の苛立ち(いらだち)
加奈子。芳美のクラスにいる女子である。しかし、一体どういうことだろうか。なぜ、人の名前が、出てくるのか。それに、この加奈子というのは、『あの加奈子』のことを指しているのだろうか。
彼女は、堪らずに『加奈子の苛立ち』を調べてみた。すると、意味が表示される。
加奈子の苛立ち(苛立ち)
①他人の不細工な様を見て怒ること
②男が話しかけてきたのを不快に思うこと
まさか、あの加奈子に限ってそんなことがあるはずはない。芳美は憤慨して、電子辞書を閉めかけたが、そこでふとあることを思い出した。
加奈子が男子に話しかけられている時、彼女の眉が極僅かながらもひそめられていることを。
この辞書は、もしかしたらとんでもない代物なのかもしれない。
彼女は、慌てて他の語句も調べてみた。すると、驚愕の事実が次から次へと顔を覗かせる。
父が、実は昇進に燃えており周りを蹴落としているということ。
母が、数多の男を手玉に取ってきたこと。
担任が、学校の金庫をよく物色するということ等々。
「最高よ!」
彼女はそれからもなお、キーを叩き続け、周囲の人間の秘密のほとんどを知ってしまった。
「ちょっと待って……。私はどうなのかしら?」
気になったので、彼女は自分の名前を調べた。だが、検索結果は零であった。
「変ね」
彼女は、それに対して何の疑問も持たずに電子辞書を愛用し続けた。もしかしたら何かを調べている内に、関連語句か何かで自分の名前を見付ける時がくるかもしれない、と思ったからである。だが五年経った今でも、自分の名前を目にしたことはない。
「あ……あ……」
彼女の思考を、ある悲愴的な考えがよぎる。もう一度考えてみる。しかしながら、それは間違いなかった。
「私は、何の特徴もない人間なんだわ。だから、辞書でいくら調べても出てこないのよ」
芳美は、マンションの屋上まで行った。電子辞書を傍らに置き、飛び降り自殺を計ろうとした。
「止めて!」
いつの間にか、そこに友達がいた。たまたま、ここに来たのだろうか。
芳美は、にっこり笑った。その笑みには、心の底からの苦痛が少々蓋を持ち上げてこぼれていた。
「引き止めてくれてありがとう、洋子。でも、私にはこれしかないの。だから飛ぶ……私に意味というものを付けるために」
友達は、突如として走り出した。だが、芳美は、マンションの屋上から飛んだ。
電子辞書の画面が点いた。新たな意味が追加されたのだ。
じさつ【自殺】(名)スル
自分自身の命を絶つこと。
→芳美の悲観
→幸子の悲愴
→美砂の悲嘆
→篤子の悲痛
→真奈美の悲哀
→紀夫の絶望
→芳樹の錯乱
→忠広の苦悩
→健太の嫉妬
→雅也の怨恨
→剛の汚辱
→優香の屈辱
→浩之の空虚
→博明の虚無
→勇一の堕落
→義典の狂気
→香奈恵の狂乱
→雅直の破滅
→千香の耽溺
→美保の拒絶
→周一郞の破綻
→伸一郎の壊滅
→裕介の愚考
→桜の愚弄
→由美の愚劣
→康太の翻弄
→亞矢の不幸
→正一の非業
→彩香の所業
→優奈の悶絶
→真央の萎縮
→杏の隠滅
→典史の卑劣
→義郎の卑悪
→悠太の卑怯
→大輔の自虐
→未紀の懐疑
→英俊の疑念
⇔→他殺