一部の6 教育
「そう。60分で1時間、24時間で1日、360日で1年だ。これで時計とカレンダーは読めるか?」
「はい!」
久々の休みをとってシェバに一般常識を教える。数日の休みのために部長にまた色々と嫌味を言われたわけだがそれは別の話だ。
包丁の扱いを教えた時から思っていたことだが飲み込みが早い。一度説明すればすんなり分かってくれる。もっとも本来知っていて当然の簡単な知識ではあるのだが、それにしてもだ。
「これで留守番もできるだろう。シェバは賢いな」
「へへ……」
恥ずかしそうにしながら尻尾をゆらゆらと揺らす。これは喜んでいるということでいいんだろうか?感情と連動するのだろうか。
「よし、次は読み書きを覚えるとしよう。待っていなさい」
ペンと紙を持ってきてシェバにも1本渡す。握り方を教えると、少し苦戦しているようだ。
「いいかな。我が国では表意文字と表音文字が併用して使われる。あー、つまり……言葉の意味を表す文字と喋った音を表す文字だ。まずは表音文字から覚えた方がいいだろう」
民族統一運動のなかで普及された最大民族であるドゥターン人の使うドゥターン文字と、近代化の過程で情報圧縮のために作られた表意文字であるドゥタカ文字。現在最も国内で通用するのはこの2つだ。
いくら学習が早いとはいえ、30ほどあるドゥターン文字をいきなり覚えるのは流石に酷なようだ。シェバは私が書いた手本と睨めっこしながら線を引いていく。
「ん〜〜〜〜?」
「ここは飛び出るんだ。手本をよく見てごらん」
文字というのは不思議なもので大人になってもまじまじ見ているとただのぐちゃぐちゃの線に見えてしまう。
それでも間違い探しのような線の交差に意味を見出せるのだから人間というのは発展してこれたのだろう。いや、獣人も。
「こう、ですか?」
何度か失敗したものを塗りつぶしてやっと書き上げたそれは、バランスは悪いがどうにか見た者に音をイメージさせた。
「うん…ま、読めないことはない。最初は誰でもこんなものだよ。上出来だ」
「うーん、もっと頑張ります……」
遠回しに下手と言われたのを感じ取ったらしい。子供には言葉が分からない代わりに大人以上に他人を察する能力があったりする。元から賢いシェバにもそれがあるようだ。
「まあ落ち込むことはない。義務教育過程では5年かけてどうにか新聞を読めるようになるんだ。1日でできるようになるはずがないさ」
学校か。通わせられれば私も楽ができるのだが、獣人の通える学校は少ない。時間はかかるが少しずつ自分で教えていくしかないだろう。
「…………」
どうやらシェバは拗ねているな。自分にできないことにぶつかると悔しくなる。その挫折を乗り越えるには努力を続けるか、目を逸らしてみるかだ。どちらが正しいとかではなく時と場合によるんだろう。今回、私は後者を一旦選んでみることにした。
「疲れただろう。1日で覚える量としては膨大だからな。まだ日も出ているし外に行こう」
「外……危なく、ないですか?」
「所有者…いや同伴者がいれば平気だろう。離れないようにな」
椅子から立ち上がり身支度をする。出かけるときは父から貰った帽子を被ることにしている。
シェバの方はこれといってすることはないので、私の支度が終わるのを待っていた。
「よし、行こうか」
呼びかけると椅子から降りこちらに走ってきた。そして私の腕をぐいっと掴む。
「どうした?」
「離れないって、言われたから」
不安そうにそう言うと、手に力を感じた。
「ああ……そうだな。いや、服に皺が付いてしまう。手を繋ごう」
私の掌が少女の一回りは小さい掌を包む。風呂に入れた時も感じたことだが獣人というのは体温が高いのだろうか。ぽかぽかと暖かさが伝わる。
「暖かい」
シェバが呟くように言った。心の声がそのまま漏れてしまったという感じだ。
「シェバの方が暖かいさ。私はあまり体温が高くない」
「そう、ですか。でも、暖かい、です」
扉を開け階段を降りる。管理人のペリおばさんが話しかけてきた。
「珍しいですね、お仕事以外でお出かけになるのは。それは奴隷ですか?」
この人はどこにでもいるおばさんというような人で、まだ若いといえるであろう私によく話しかけてくる。話が下手な私だが、彼女は1の言葉に10で返すような女性なので聞き役に徹することが多い。多少鬱陶しいが部長の嫌味のシャワーよりは随分マシだ。
「先日購入しましてね。シェバ、挨拶なさい」
「え、あの、こんにちは…」
ペリおばさんは満足そうに笑って挨拶を返した。色々と話したそうな顔をしているが、私も帽子を取って挨拶し、そそくさと玄関を出る。
外に出るとシェバの手にさらに力が入った。見れば耳を立てて尻尾は垂れ下がっている。
「怖いのか?」
「えっ、いや、ごめんなさい!」
息抜きのために連れ出したが逆効果だっただろうか。考えてみれば獣人の、虐待を受けてきた、子供の、女の子の、楽しそうな場所など私には分からない。
「謝ることはない。これから慣れればいいんだ。息抜きになればいいが。辛ければ戻ろう」
「いえ、えっと、平気です。行きましょう!」
外は街の喧騒に包まれている。車の魔力炉のポテポテという音や婦人の談笑する声、店の呼び込みなど。慣れるまではうるさく感じていたが、慣れてしまえばただの生活の一部になる。
特に行くあてもないが、とりあえずシェバに本でも買ってやろうと思い本屋を目指すことにした。文字の勉強になるし暇も潰せるだろう。
「少し歩く、平気か?」
「はい」
初日よりは歩く姿も健康そうだ。耳の傷跡はやはり痛々しいが。
太陽は少し傾き始め、街を照らしていた。