一部の1 出会い
「疲れた……」
改革庁からの帰り道、私はえらく疲れていた。上がらない給料、理不尽を押し付けるクソ上司、金はある平民の出という貴族からすると最も穢らわしい立場に対する攻撃などなど。
毎日毎日疲れ切っていた。このまま帰ってベッドに倒れ込んで、朝になったら出勤する。親も死んで妻もおらず、帰ったって誰も待っていない。
民族統一運動の熱に浮かされて中央政府での仕事を始めたはいいものの、書類仕事に忙殺される日々。お上の政治家や英雄たちと違って、一つの部品には教育改革とか統一事業とかそういうのは紙の上の出来事でしかないことにすぐ気づいた。
なんもかんも投げ出してしまいたい。と思っても死ぬ勇気とかはない。とりあえず眠ってしまったらすぐに職場に行くことになるのでぶらぶら行くあてもなく歩く。
顔を上げるとそこはスラムだった。おっと、まずいところに入ってしまった。一応腐っても私は官僚なので、それなりの仕立ての服を着ている。速く引き返さないと身包み剥がされ路地裏に捨てられることになってしまう。
「おい、お兄さん!ちょっと見てかないかい!」
振り向くとスラムにしてはそれなりの身なりのオヤジが手招きしていた。周りに他の人はいないので私を呼んでいるのだろう。
「お兄さん名前は?」
「ベレン・パティマル」
「へぇ、平民だね!立派なもんだまったく!」
屋号は…"ザランベ奴隷店"。なるほど、道理で金がありそうなわけだ。
「悪いけど奴隷は買わないよ。そんな金はない」
「まあ早まりなさんな!ただの奴隷屋じゃないよ!しっかり教育が行き届いたのもいるからね!」
「いや私は…」
そもそも奴隷制は嫌いだ、という前に腕を引っ張られ引き摺り込まれる。
オヤジの言う通り確かに管理は行き渡っている。摘発対象となるような劣悪な衛生環境の店もこういうところには多い。いくら獣人といえど帝国では最低限生きる権利は保障される。
"大改革の勅令"以来人間を奴隷とすることは禁止された。たとえ借金で首が回らなくなっても再起のチャンスが誰にでも与えられるようになった。獣人を除いては。
獣人は昔からの被差別人種である。教典によればかつて魔王により生み出された魔物の末裔らしい。人間と変わらぬ知能を持つが動物のような身体的特徴を持つ。程度は個体により様々だ。
皇帝陛下の元の平等を標榜する我が国においても獣人への差別意識はついに無くすことが出来なかった。噂では現皇帝陛下の弟君は全ての民族への差別的扱いを取り払おうとしたが、政変のゴタゴタのなかで不審な死を遂げたという。そんなわけで、最低限の生存保障をして獣人への"特別労働待遇"は残置された。
「こいつなんかどうです?これ挨拶しろ!」
店内をオヤジに案内される。私はどちらかと言うと弟君に賛成の立場だ。いつまでも教典を馬鹿正直に信じて、見た目の違いで差別するなど愚の骨頂。
そうは言っても私は国に仕える立場だ。大っぴらに国の制度を批判するわけにはいかない。自分の立場が危うくなるのはもちろん、改善できっこないことを理想にするのは疲れる。
……一応、改革庁の標語は"改革なきところ幸福なし"だが。
とはいえプライベートな時間まで不快な空間にいることを甘んじる必要もない。そろそろ金を落とさないことをアピールして退散しよう。
適当にオヤジをあしらい出口に向かおうとした時、ふと1人の奴隷が目に留まる。
「この子は?」
「あ……そいつはやめた方がいい。俺も長くこの仕事をやってるがね、こんな酷い扱いは初めて見たよ」
獣人の年齢は一概には言えないが、かなり人間に近い彼女は13歳くらいに見えた。
茶色い髪の毛の間から生えた犬のような耳の片方は一部が千切れている。手や足の見える部分だけでいくつもあざが浮かび、体はやせ細っていた。
「顔立ちは悪くないがねぇ、会話も下手くそだ。前の持ち主が治安局にしょっ引かれてね、監禁同然になってたところを助け出されたって話だ」
そしてまた奴隷市場に流されたというわけか。酷い話だ。
檻の前から足が動かない。落ち着こう、ここで彼女を買って助け出した気になったとしてもただの自己満足だ。結局奴隷と主人という立場でしかないし、ここにいる奴隷全員を買わない限り、もっと言えば国中の奴隷を買わない限り偽善でしかない。
……たまには自己満足もどうだろう?どうせ奴隷の身分以上を彼女らは与えられない。それなら1人くらい自分で助けた気になって悦に浸ってみるのもいいのではないか。
家に帰れば構う相手がいて、少し寛大に扱うだけで感謝される。なかなか悪くないんじゃなかろうか。
私は疲れで判断力が鈍っていたのもあって、勢いで奴隷を買ってみることにした。もう1人食わせていくくらいはどうにかなるだろう。家事を教え込んで働かせれば元は取れる。
「彼女を買おう。いくらかな?」
「へぇ!?いいのかい?引き取ってくれるってんならありがたいけどね……」
店に置いておいてもどうせ売れないので10バルコだけでいいとのことだ。命1つの値段としてはあまりに破格。
奴隷登録証にサインし、代金を支払う。
「へへっ毎度。路地を出るまでお送りしましょう。買い物をした後は襲われやすいからね」
「ありがとう」
奴隷の少女は檻から出され店の奥に連れて行かれた後、新しい服を着て戻ってきた。一応新品ではあるものの、いかにも安物という感じだ。
「あ、え、よろしくおねがいします」
消えそうな声で奴隷は私に挨拶した。
路地を出て、オヤジと別れ奴隷と並んで歩く。
「しかし……奴隷相手に彼とか彼女とか、おかしな奴だったねぇ」
彼女は歩く動作もぎこちない。あざが痛むのだろうか。
「名前は?」
「…しらない」
彼女が私の人生を大きく変えるとは、この時は知る由もなかった。