中2の夏、今日も宇宙人は降ってこない。
中学2年の夏。遠慮なく照りつける太陽と、どれだけ見上げても何も降ってこない空にうんざりしていた頃の話。
「そんなに刺激が欲しいなら、タバコでも吸ってみる?」
セミの合唱の合間に、2つ年上の姉がタバコを勧めてきた。その日、姉が家にいるのは珍しかった。高校生活、初めての夏を迎える姉は、学業そっちのけで、バイトに恋愛に大忙しだったから。夏休みなら尚更だ。そんな姉を当時の私は冷ややかに見ていたけど、今にして思えば羨んでいたのかもしれない。
受験勉強のため、図書館へと向かう玄関先でたまたま出くわした姉に、世間話程度に『何かいい事ないかな』とぼやいてしまった。聞くなり、悪い笑みを浮かべた姉に手を引かれて、二階の姉の部屋に招かれた。
久々に入る姉の部屋は、アロマや香水の残り香、それに生々しい化粧品の匂いで甘ったるく、同性ながら女臭さに頭がくらっとした。
「なんでタバコなんて持ってるの?」
「バイト先の先輩に貰ったの。頭フワフワして気持ちよくなるよ。セイもやってみなよ」
得意そうに姉がタバコを咥えて、慣れない手つきで安物のライターに火をつける。
なかなかタバコに火がつかない。今にして思えば、タバコを咥えつつ空気を吸い込みながら火をつけるのが正しいのだけど、背伸びする姉はそれが分からないから、ジリジリとタバコの先の紙が焦げるばかりだ。
苦戦してようやく火のついたタバコを指に挟んで、流し目でポーズを決めて、気だるそうにふぅーと口から煙を吐き出した。直後に小さく咳き込み、様にならない姿に頬を赤くした。
ああ、こいつはカッコつけたいだけだ。そう理解した私は一気に興ざめした。タバコを吸う人間など、得手して初めはこんなものかもしれないが、タバコがカッコいいと思う感覚は、すでに半世紀ほど時代遅れだと思う。まあ、姉の人生だから、とやかく言うつもりは無いけれど。
年下の私が言うのは変なのだが、背伸びしたいのはお年頃と言うものなのだろう。先日などは、「今日日学生の必需品でしょ?」と、姉は私にコンドームを一つくれた。「女側が持つもんなの?」と返すと、やはりバツが悪そうに赤面する。分からないなら、格好つけなきゃいいのに。棒がとれたロリポップに似た“必需品”を持て余し、今も机の上のペン立てに放り込んだままだ。母に見られたら、恐らく卒倒するだろう。
高校に入り、姉はどんどん阿呆になる。女は年頃になると、ホルモンバランスの影響で頭がイカれると、海外のコメディ映画で言っていた。女と一括りにする、でかすぎる主語にむっとしたが、姉を見る限りあながちデタラメでもないのかもしれない。私はああはなりたくないや、気をつけよう。
馬鹿らしくなった私は、姉を残し退室することにした。
「え、吸わないの?
セイは相変わらず面白みがないね。
それとさあ、こんな暑い日ぐらい、スカート履けばいいのに」
「やだよ。今から自転車乗るんだから」
「いや、今日に限らずいつも履いてないじゃん。
あんたスカート持ってるの?」
「制服があるよ。あと、お姉ちゃんのお古がクローゼットの中を占領してる」
「着ないなら、捨てればいいのに」
「捨てるとお母さんが怒るんだよ。
じゃあ、タバコ臭くなるの嫌なんで、私行くね」
「あー、待った待った!今日はね、セイにも家にいてほしいんだよ。
それでさ。松田さんにいいところ見せたいから、私が作ったことにして、女子力の高いデザート作って」
すっかり忘れていた。今日は父の部下である若い男が、夕食に招かれ我が家にやってくるのだった。珍しく姉がいるのもそのせいか。
松田さん、若いと言っても、私よりは10以上年上だ。父は時々こうしてゴルフ帰りに、仕事仲間を夕食に誘うのだけど、特に松田さんは気にかけているようだった。早くに両親を亡くした彼に同情し、今日ぐらいは我が家と思いなさいと、彼が来るたび父は言っていた。
「いいですね、家族って。僕は一人っ子だったから、姉妹って羨ましいな」
そう笑う松田さんを、私は偉い人だなと感心していた。押し付けがましい父よりも、ずっと大人である。
今日だけは我が家?思えるはずがないじゃないか。早くに亡くなろうが、彼の両親は2人だけなのだ。本当に松田さんに同情するなら、彼の心境を察してあげるべきだと私はおもう。
まあ、娘の1人でもくれてやるつもりなら別だけど。本当にあの父なら提案そうで怖い。父は頭の回転の速い人だったが、他人に対して配慮が欠ける一面があった。私はそれが苦手だった。
「貸しだからね。
作るのはいいんだけどさ。材料ないよ?
買い出ししてくれるの?」
「何でもしますよ。セイちゃん。
菓子だけに貸しね!ちゃんと埋め合わせはするから。
そのかわり、私が作ったことにしてね!絶対だよ」
「お姉ちゃん、松田を狙ってるの?」
「さんぐらいつけようね?
松田さん、割と好みなんだよね。大人なのに笑うと可愛いじゃない?」
「……彼氏さんにチクるよ」
「あー、大丈夫。もう別れたから。
パスタの食べ方が絶望的に汚くてさ、100年の恋も覚めた。
その点、松田さんはテーブルマナーも完璧だよね」
元カレさん可哀想に。この前まで、運命の出逢いだとか調子のいい事言ってたのに、パスタで振られるなんて。こんな低級な女、マクドナルドにでも連れて行けば十分なのに、背伸びするから。
失恋中であろう元カレさんに想いを馳せつつ書いた買い出しリストを掴んで、この暑い中意気揚々と姉は出かけて行った。あの短いスカートで、周囲など気にせず自転車に乗るつもりだろう。
姉は台風の目のような人だ。悪く言えばトラブルメーカーである。物語の主人公は、きっと姉のような人物がふさわしいのだろう。
懐中時計を持ったウサギを躊躇なく追いかける好奇心と行動力を、毎回今が初めての恋だといいきる純粋さと傲慢さを、当然のように姉は持ってる。それが少し憎たらしい。
突然巻き込まれる事件に期待して、何も降ってこない空を見上げる私が主人公では、物語は始まらないのだ。私も恋ぐらいしてみようか。空から降ってこないなら、いっそ地上で見繕う?
クラスの男子は、臭いしガキっぽくて嫌だ。かと言って松田さんは、うーん、ないな、ない。
本人もまんざらではないようだし、父が生贄を欲するなら、大役は姉に譲ろうと思う。姉の数回目の初恋にちなんで、甘酸っぱいレモンカードのタルトを作ることにした。
その日の夕方、受験生の貴重な1日をお菓子作りで無駄にした私は、今度は姉の猛烈なダメ出しで、姉コーディネートの服装に着替えさせられた。履き慣れないスカートは、毎回のようにドアに挟んで鬱陶しい。大体、姉のお古は好みじゃないのだ、ヒラヒラと無駄な生地が多く、可愛いアピールがやかましい。
夕食の準備をする母の姿も、ずいぶん気合が入っていた。念入りな化粧もさることながら、普段は触ることも禁止された食器も惜しみなく使う。この親子は松田さんに何を期待しているんだろうかと不安になる。そんなにいいか?細身の筋肉質、スタイルはいいと思うけど、何回見ても覚えられない、特徴のない顔だけど。
夜になり、松田さんをお招きして、見栄の張り合いのような夕食も滞りなく済んだ。ここぞとばかりに、姉は自慢のピアノの腕を披露する。「どれ、弾いてみなさい」と催促したのは父だが、そうなるように巧みに話題を誘導したのは姉である。ピアノより、そっちの才覚のほうが、よっぽど希少だと私は思う。ピアノへと向かった姉が席を外したことで、テーブルにおける姉と言う防波堤が無くなり、その日初めて松田さんが私に話しかけてきた。
「お姉さんピアノうまいね。セイちゃんもピアノ弾くの?」
「いえ、私はほとんど弾けません。才能ないんですぐ辞めちゃいました」
「じゃあ、セイちゃんは何が得意なの?」
お菓子作りといいかけて、言葉を飲み込んだ。
まずい、まずい。下手なことを言えば、この後姉が得意げに披露するであろうデザートが、私作だとバレてしまう。かと言って、他に得意なことなんてなく、困ってしまった。こういうときは、息を吐くように嘘がつける姉が羨ましい。
「こめかみ1センチで、竹刀を寸止めできます」
「剣道!猛々しいね。素振りやってみてよ」
「ここで?この格好で?どのこめかみに?」
「スカートも袴も、見た目は似たようなもんでしょ?」
「松田さんのこめかみでいいですか?」
なんだこいつ、面白いじゃないか。上司に振り回される可哀想な若手のレッテルから、初めて松田さんに興味を持った。まあ、素振りはしないけど。どう断るか思考しているうちに、やや酔い気味の父が、「よさんか、はしたない」と割り込んだ。
「2人目は息子が欲しかったんであって、息子のような娘が欲しかった訳じゃないぞ」と呟き、この話は無かったことになった。それは悪うございましたねと、こっそり舌を出した。
「そんなこと言っちゃバチが当たりますよ。
家族みんなで食事ができる。それがどんなに幸せなことか、僕は知っています」
穏やかに発した松田さんの言葉に、父が素直に非を認め、私に謝罪した。父親に謝罪されることなど初めてだったので、鼓動が聞こえるくらい、私は動揺してしまった。
「そうだ!私、今日は一日かけてデザート作ったの。
お口に合うか分からないけど、松田さん食べてくれます?」
ピアノはいつのまにか弾き終えていたようだ。前後を知らない姉が、微妙な空気になったテーブル席に、デザートを勧めてきた。
お口に合うかの言葉に少しムッとした。さっきの動揺の後遺症からか、感情のコントロールがうまくできない。丸一日かけて作ったのに、合わないとか言ったら、望み通り竹刀でぶっ叩いてやろうと思う。タルトが松田さんの前に運ばれると、結果には無関係なはずの私まで、なぜか緊張する。
そんな気持ちは杞憂で、すごく美味しいと、歯の浮くようなお世辞を言ってきた。何故だろう、半分は赤面するほど嬉しいが、もう半分は心にモヤが掛かるような、なんともいいがたい感情に襲われる。
納得済みの姉との契約なのに、恥じらいながらお世辞に喜ぶ姉に辟易する。
「特にタルトの上のレモンカードが絶賛だよ。
どうやって作るの?」
一瞬にして、姉の顔が引き攣った。目をコチラに泳がせるが、カンペを渡すわけにもいかず、どうしようもない。
しどろもどろ答える姉のレシピは、カードではなくジャムの作り方だった。それが私には可笑しくて、可笑しくて、思わず目に水膜を張るほど、笑い声をあげてしまった。
「お姉ちゃん、動画観ながら必死だったもんね。
もう一回作れって言われても、なかなか難しいよね」
契約は契約だから、最後まで嘘に付き合ってあげることにした。
姉の女子力アピールは不発に終わったけれど、健気さは伝わっただろうから、及第点だろう。
松田さんもとうに帰宅したその日の夜、こっそりと姉の部屋に忍び込んだ。借りはすぐに返してもらおう。
「ねえ、お姉ちゃん。やっぱりタバコ1本ちょうだい。これで貸し借りチャラでいいよ」
「どういう風の吹き回し?まあ、そんなんでいいなら、安上がりだけど」
大きく窓を開けて、机の奥に隠し持ったタバコのケースから、1本取り出して、私にくれた。ご丁寧にライターの火までホストのように構えてくれる。
「お姉ちゃん吸い方間違ってるよ。
タバコは2度吸うらしいよ。一度吸い込んだ空気を、もう一度吸い込んで肺を満たすの。いい?見てて」
死ぬかと思った。
盛大にむせ返り、親が起きてくるのではないかと慌てた姉に、無理矢理口を押さえつけられ、余計気持ち悪くなる。二度と吸うかと、心に誓った。しばらく動けず目を回す私に呆れながら、私から取り上げたタバコを姉が吸う。
窓越しの星空をバックにタバコを吸う姉の姿は、少し様になっていた。似ていない姉妹だなと、改めて思う。
「私がお姉ちゃんに勝てることなんて、あると思う?」
「何それ?何のはなし?」
「なんでもないよ」
何も降ってこない空、きっと夜空も宇宙人を連れてきてはくれなさそうだ。それでもこんな夜空なら、流れ星ぐらいは期待できるかもしれない。