6.名前
ありとあらゆるところに神が宿るとされているこの国で、馬借の考える神というものは、目に見えず、吉兆は人知れず起こることで、祈ってもダメな時はダメだし、いい事が起きたらそれとなく感謝する存在だ。
特別仏を信じているわけでもなく、かと言って異国の神を信じているわけでもない。
作物の実りを願い、感謝し、年を越したことを感謝し、旅の道中に旅人にご利益のある神社があれば立ち寄ることもある。実家の側には馬頭観音様の像があるにはあったが、特別毎日拝むことはない。せめて一度は伊勢に行ってみたいものだなどと、祖父母は語るが、兄弟はそうでもない様子だった。
それが馬借、馬飼宗近の信じる神だった。
「昔は、それは、それは、人がたくさん来た。
最初は、わたしの供養のためじゃったが、次第に海神様のご加護を得たい人々が集まった。
『豊漁でありますように。』
『船が沈みませんように。』
『穢れを祓ってもらえますように。』
そんな願いが集まっていた。わたしはそれを、海神様に願い。海神様もそれを叶えようと努力なさった。
そうして、わたしにはこの社に住まう神としての力が付いていき、見える範囲が広がった。
そのうち、ここには雨の神もいると言われ、
『山々からも作物のために雨を降らせて欲しい』という願いもあった。
神の力が伴ったわたしには、それを自分の力で叶えることができるようになっていた。
そうして、たくさんの、本当にたくさんの人がこの神社に訪れておった。
参拝に来た者たちの馬を見るのは、楽しみの一つじゃった。
神としての力があるからこそ、遠くにも行けた。出雲にも何度か行ったことがあるのじゃぞ?」
神である少女は、少し得意げな笑顔を見せる。だが、それも一瞬の事だった。
「いつからか、わたしに願う者が減ってきた。海神様への願いも減って、わたしが何もしない時が増えた。そうしているうちに、人が来んようになり、人が来んから境内も荒れ始めた。わたしに付いた神の力も段々と弱くなって、次第に社も荒れるようになった。今、わたしの力でどうにか守っているのはこの本殿の御神体……わたしの身体がある場所と、先ほどの物置ぐらいなものになってしまった」
少女の俯いた先では、小さな陶磁器の様な手がギュッと力強く握りこまれている。
「所詮は、海神様のご厚意で掬い上げていただき、建っただけの一柱。いつか、誰一人とて、この神社に祈る者がいなくなれば、わたしは神の力を失い。そして消えることだろう」
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消える。
そう話して聞かせる少女の顔は、何かを隠そうとするための笑顔だった。
「消えるとゆうても、ずっと、ずっと、先になるじゃろうよ。何せ、昨晩も今日もわたしの元には、願いと感謝がやってきている。山裾の者たちはまだ願い、祈る事をしてくれている。なんだかんだで、あなたが死んでも、ここにおるやもしれぬぞ?」
冗談めかした口調で少女は語るが、宗近は笑えなかった。
消える。というのが、神にとってどういうことなのかは、人間である馬借の宗近にはわからない。
だが、人間からするとそれは、死に近い感覚なのではないかという想像は容易だった。
「なんとかできないのか?」
少女はふるふると首を横に振る。
「そもそもわたしは、この地の氏神のような存在。高名な神々と違い、名もない存在じゃ。この地で祈る者がいなくなれば、力を失う。集落が滅びて、祈る者が居なくなって、消えて行った神の話を聞いたこともある。珍しいことではないのじゃよ」
八百万の神が溢れるこの国で、名も知らない神が現れ、消えているのかもしれない。
それが、この国にある理ことわりの一つなのかもしれない。
それでも宗近は、目の前の少女が二度目の死を迎えることを、どうすれば避けられるのかを考えてしまう。
理を捻じ曲げたいと、願った。届くかどうかもわからない、名もなき神に。
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「わたしの話ばかりになってしもうたな。すまぬ、すまぬ。そうじゃ、アカ!アカは何を食べるのだ?」
「あぁ、アカは草なら何でも食べる馬なんだが、特に好きなのは、豆だな」
「豆?馬は豆も食べるのか?」
「食べますよ。特に小豆が好きで、年始にふすまと混ぜてちょっと入れてやると、豆の方を狙って旨そうに食う。後は、甘いものもだな。たまに蜂蜜の塊とかやると、それはもう喜んで食べます」
「ほぉ……草だけしか食わんのだと思っておった」
「そうでもないぞ。草だって選り好みして食うし、麦が好きなやつもいる。人参を欲しがったりするやつもいれば、花ばっかり食べたりするやつもいる」
「面白いのぅ……人のようじゃ」
いつの間にか、少女は身を乗り出して宗近の話を聞いていた。馬の話は、馬を飼い、育て、生きて来た宗近にとっては日常で、どれだけ話しても尽きない。
臆病な馬をどう育ててやればいいのか。
手入れをしてやると馬がどれほど輝くのか。
旅の途中、共に寝ればとても暖かいことなんかも。
「なるほど、それで馬を連れて参る者が多かったのじゃな」
「昔は偉い人が乗るものだったらしいけど、今じゃその辺の人間だって乗っていい。うちで育てている馬は足腰が強いし、気性が柔らかい種類ってこともあって、俺が育てた馬も何頭か外に出したりしたさ」
「何故、そんなに馬が好きなのに、旅をする仕事をしておるのだ?」
何故馬借をしているのか、と聞かれることはこれまでもあった。
一所に留まらず。馬と荷だけを携えて、険しい山道を行ったり来たりする仕事。危険はどちらかといえば多いし、実入りも特別良いわけじゃない。
実家に留まって、大好きな馬の世話をしていた方が幸せなんじゃないか。
「それは、母親にも、兄弟にも、……幼馴染にも言われたことがあるな」
「それでも、旅がしたかったのか?」
「……俺は、三男なんだ。だから元々、家を継げる立場じゃなくてな」
「あぁ、それは。余計な事を聞いてしもうて、悪かった」
「いや……」
長男が家を継ぐ。だから他は別の仕事に就く。それは珍しいことじゃない。
家を継げないのは仕方ない。生まれた時からほぼ決まっていたことだ。
だが、
「……兄貴のところに、あぁ、一番上の兄貴なんだけど。俺が一番仲の良かった幼馴染が嫁いできてさ」
「ほう?」
なにやら、少女が目を輝かせてさらに近寄って来る。
前に、港町の茶屋でもちょっと話したら、ミチさんもミドリさんも寄って来たのを思い出す。どうにも、その手っぽい話になると女の子は気になるらしい。
期待されているところ悪いが、その手の話ではないのだ。宗近としては。
「いや別に、好意があったとかじゃないからな?そうじゃないんだが……なんか、居心地が悪くてな。気が付いたら、家を出ようと思っていた。兄貴にアカだけをくれと言って、最初はほとんど着の身着のままって感じで」
とにかく家を出たかった。あのまま家で、穏やかに馬と向き合うことができないと思ったからだ。
馬という生き物は繊細だ。人の感情の機微を察して、そのせいでよくも悪くもなる。宗近は馬飼の家に居る馬たちに影響を与えたくなかった。
「それが、18の頃だったのか」
「あぁ、気が付きゃもう5年だ」
がむしゃらに、アカを連れて里から降りて、仕事を探した。
一所に居たいとは思わないが、せめて馬と共にいたい。
そうして見つけたのが馬借の仕事で、運よく拾ってもらえたのが、今の会社という組織だ。
「そうか……」
「言っとくが、本当に好意なんてないからな?一昨年の暮れに、一度里に顔は出しているし。可愛い甥っ子も生まれているしな」
「そうか。甥御は何と言う名になった?」
「宗一。兄貴が宗一郎って言うんでな」
「なるほど。宗の字を継がせたのか」
兄は馬飼の名も、宗の名も取り上げたりはしなかった。
なんなら、いつでも戻って来ていいとすら言う。
それをしないのは、まだ宗近の中で踏ん切りがつかないのもあるが、ようやく馬借の仕事が楽しくなってきたというのもある。
だからまだ、宗近は家へ戻ろうとは思わないのだった。
゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。
宗近は可愛い甥っ子の話をしてやりながら、時折うつらうつらとしていく中で、ふと思った。
「そいや、君の名前は?」
「わたしに名はないぞ?たまたま拾われただけの身じゃからの。強いて言えば、ここは海神様の名があるべき社ではあるが」
「いや、神様としてのお名前ではなくて、人だったのなら、名前があったのかなと」
少女はほんの少し、目を伏せる。
「あったはずじゃが、随分と昔の事で、わたしももう忘れてしもうた」
神として建ってから、その名を呼ぶ者たちはとうの昔に亡くなっていき、祈る者たちは特に名を呼ばない。
呼ばれない名は、その名を持っていたはずの者ですら忘れてしまうほどの長い時を、この社で過ごしてしまった。
忘れてしまったという答えに、宗近は困って頬をかく。
「そうか……せめて何か名があれば、覚えてもらえるように働きかけられるかと思ったんだが……」
自分が死んでも、せめて子や孫、その先に伝える事ができれば、少しでも長く留まって居られるのではないかと、思った。
だがそれも簡単ではないようだ。
「ならば、あなたが名を付けてみるか?」
それは、ちょっとした戯れの様なものだった。
長く、長く、人との交流もなかった一柱の神の思いつき。
この人間になら、名を呼ばれてもいい。いや、呼ばれたいという欲求がそんな言葉を作り上げた。
「……いいのかい?」
「よい。わたしが許す」
「ふむ……そいじゃあ」
宗近も眠くなってきていて思考が曖昧だったのかもしれない。
神に名を与えるだなんて、普通の人間がしていいことじゃないだろうと、その時は思わなかった。
ただ、彼女を見た時から、この名が相応しいと思っていただけの事だった。
「アオ」
「……なんじゃそれは。わたしの瞳が青いからか?」
また単純だなと、少女は笑った。
そんな少女に宗近は伝える。
「そうさ……この国の全てを見たとは言わないが、旅をして来た俺が今まで見てきたどんなガラス玉よりも、宝石なんかよりも、一等綺麗な青色をしている」
「……」
「一等綺麗な瞳だよ……」
それだけ言うと、宗近は眠り付いてしまった。
「……そうか」
その寝顔を、青い瞳を細めた少女が見守っていた。
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翌日、港町は朝から雨が降っていた。
海を荒らすような雨ではないが、雨の中船を出す漁師は居ないし、温泉を目当てに来た客足も、外へは向かないもので、いつもなら大賑わいの茶屋も今日は閑古鳥が鳴きそうだった。
当然、そんな日に荷運びの仕事があるわけもなく。朝方茶屋へ戻って来た宗近は、アカの世話をした後、得意先を少し回っただけで、店じまいだった。
宗近は部屋を借りている茶屋の若旦那と一緒に、借りた部屋で暖かい茶を啜りながら、外の雨を眺める。
雨は静かに降り続け、屋根を弾むように叩き、出来た水溜りをちゃぷちゃぷと揺らす。
「やれやれ、雨神様のご機嫌がよろしくないようだ。今日はどこも、商売上がったりだな。こりゃあ」
若旦那はそうぼやきながらお茶を啜る。
「いや、ご機嫌だから雨が降るんだそうですよ」
宗近のその言葉に、若旦那は片眉を上げて首を傾げる。
「ご機嫌?なんだってそう思うんです?」
「あぁ、いや、ほら。雨の神様なんだから、雨がお好きなんじゃないかと思って。好きな物なら、機嫌がいい時に出したくなるものでしょう?」
「なるほど。……でもそうですね。今日の雨は、いつもより穏やかに降っている気がします」
宗近はしとしとと、静かに降る雨音に耳を傾けながら、朝方別れ際に謝罪をしてきた雨神の少女を思い出す。
『すまない。名をもらったのが嬉しくてな……雨が降ってしもうた』
そう恥ずかしそうに告げる少女の頬は、瞳の色とは反対に赤く染まっていた。
若旦那はミドリに呼ばれて下へ降りていく。サボりに厳しくするように、女将から仕込まれているのだろう。
一人きりになって静かになった部屋で宗近はごろりと横になる。
「また会いに行きますよ。アオ様」
次に行く時は、何か珍しいものを持って行きたい。
そう思いながら、宗近は雨音を子守唄に午睡を始めた。
日本に暮らしていると神様って曖昧な存在なのかな、
なんて、中学生の辺りから思っていました。
居るようで、居ない。
でもいてくれないと悲しい。
だからでしょうか、八百万の神様という言葉が好きです。
どうもレニィです。
至る所に居るいろんな神様がきっと見ていてくれる。
というのが、わたしの考える神様です。
小説の神様ー!
今書いているこの話が話題になってくださいーーー!!
そして書籍化させてくださーーーーーい!!!!!
そんな感じです。
どうぞよしなにー!!!!




