52.約束
月のない、新月の夜。
星々が今だと言わんばかりに、輝く夜空の下を、荷車を引く赤い毛並みの馬と、それを御する青年か一人、進んでいた。
目的地は、山の中にある、小さな神社。
神社にたどり着いた馬と青年を迎えるのは、音を聞きつけた、少女の姿をした神社の主人。
「……もう出発か、早いな。宗近」
青い瞳を緩ませて、アオは馬と青年を迎え入れる。
宗近は、そんなアオの顔を見て、また言葉に詰まる。
だが、もう、言わなければならない。
「……アオ様。俺、話があるんだ」
「……そうか。宗近よ、今宵は新月だ!月明かりもない夜空の下で長話をするのは、楽しくないじゃろう?話は社の中でしよう。行灯の明かりをつけてくれ」
アオはそう言うと、少し早足で社へ戻って行った。
゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。
宗近が行灯に明かりを入れている間に、アオは物置から布団を持って来ていた。
相変わらず、布団はアオにとっては大きいので、ズルズルと引きずって持って来る。
その音を聞いたのは、昨年の今頃だっただろうか。
不思議な物音がすると思って、目を開けた先に居たのは、青いガラス玉のような色をした瞳を持つ少女だった。
あの時は、アオが神だなんて思っていなくて、狐か何かだと思っていたのだったな、と思い返す。
アオは、御神体の置かれた祭壇の目の前に、布団を一組だけ敷くと、その横にちょこんと正座して、宗近を待っていた。
「アオ様、布団一組しかないぞ?もう一組持ってこようか?」
「今日はこれで良いのじゃ。宗近、行灯の明かりはつけ終えたか?そしたら、布団の上に胡座で座ってくれ」
宗近は、アオの指示に首を傾げながらも、従う。
アオは胡座をかいた宗近の前までやって来ると、そこへ収まるように、背を宗近に預ける形で座る。
「な、何やってんだ?!アオ様?!」
「何、ちぃがの、よく父君にこうしてもらうのだと、自慢するのでな。わたしも、羨ましくなってみたのじゃ」
「羨ましいって……」
「ほれ、何をしておる宗近。ちゃんと腕を回して、わたしをしっかりと抱かぬか」
「えぇ……神様にそんなことして良いのか?特殊性癖とか言わない?」
「良い、良い。わたしが許す。そんな事も言わん」
「……そういって、大丈夫だったことの方が少ないんだが。……まぁ、仕方ない。神様の言う通りにしますよ」
宗近は、アオのお腹辺りを押さえるように、腕を回す。
「これでどうだい?」
「うーむ。まずまずじゃの」
「なんだい、まずまずって」
「もうちっと、懐かしい感じがするかと思ったのじゃが、やはりダメじゃの。あまりにも人である時から、時間が経ちすぎてしまった」
相変わらず、寂しそうな声をして、そんなことを語るアオを、宗近は思わず強く抱きしめた。
「……なぁ、アオ様。やっぱり、人に戻りたいんじゃないかい?」
アオは、自分を強く抱きしめる腕を、まるで子どもをあやすように、優しく叩く。
「そうじゃのう……。最近は、それも良いかもしれんと、思えてきたのう」
「っ!なら!」
「じゃが、まだわたしには、守るべきものと、社がある。まだわたしは、神で居なければ困るのじゃ」
そんなもの、捨ててしまえと、宗近は言えない。
宗近はアオが守る港町の住人ではない。
余所者が、勝手な事を言うわけにはいかないし、それに、この港町を大切に思っているのは宗近も同じだ。
「宗近じゃって、困るだろう?もし、わたしが、わたしと共に海神様から名を受けて、海神様の庇護の下、共に暮らそうと言ったら。……海には、宗近の守るべき馬たちも、家族も居ないのに」
アオの言葉に、宗近はハッとさせれた。
宗近が言葉にしなくても、きっとアオは気が付いていたのだ。
宗近が、ここへ何をしに来たのか。
「……アオ様、俺、俺な。実家へ、帰ることになったんだ」
「……そうか」
「父さんは歳で、ヨリ、一番上の兄貴の嫁は身重で、二番目の兄貴は、家を出て行ってしまった。とても、一兄さんと母さんで、馬たちの面倒は見切れない」
「……そうか」
「だから、俺。俺、実家へ帰って、馬たちの面倒を見てやらないとダメなんだ。馬借を辞めて、実家に、帰ってやらないと……」
「……そうか」
アオは宗近の言葉に、静かに相槌を打つ。
「ごめん、アオ様。俺もう、ここが帰る場所じゃなくなるんだ」
宗近の声が震えだす。
アオは腕をぐっと伸ばして、宗近の頭を抱えて込んだ。
宗近はアオの肩に顔を埋めるような形になる。
アオの声が、いつもより近くで聞こえる。
「宗近よ。自分で言うておったであろう。『いずれ、帰る時は来ると思う』と。その時までは、この港町が宗近の帰る場所じゃった。だが、宗近の言っていたその時が、今、来たのじゃ。……そりゃあ、少しばかり早いとは思う。だが、時が来たものは仕方がなかろう」
こんなに小さな身体なのに。
幼い少女の姿をしているのに。
アオは、宗近よりもずっと落ち着いて、物分かりのいい話し方をする。
「あなたは、人間。わたしは、神。あなたには、人間として、あなたの守るべきものが故郷にある。わたしには、神として、この港町とそこに暮らす人々を守るためにこの社に居なければならない。それだけのことだ」
それだけのことが、宗近には辛いのだ。
これからだと思っていた。
まだまだ、この港町に荷を運び、茶屋で世話になって、港で男たちに混ざりながら働いて、干物を手にしたら、また山へ行って、品をやり取りして、この神社へ帰ってくるのだと。
弧を描く青い瞳が、自分を出迎えてくれるのだと。
けれど、現実はアオの言う通りだ。
宗近は、人間。
アオは、神。
一人と一柱は、守るべきものも、場所も、その存在も、何もかもが違う。
それなのに、宗近の抱き抱える小さな体は、温かく感じる。
「……アオ様は、神様なのに、人の子みたいに、あったかいな。生きているみたいだ」
「まぁ、名を貰って、存在していることが、生きている事であるなら、わたしは間違いなく生きているのじゃろう。それにわたしが温かいというより、宗近が温かいから、わたしも温かくなったのじゃろう。……特に、肩の辺りなんかじゃの」
アオはそんな軽口を言いながらも、肩を温かく湿らす涙を受け止める。
「宗近。わたしから、あなたに願う事は、一つだけじゃ。
わたしを忘れないでくれ。
ここにわたしが居ること。
あなたが、"アオ"と名を与えた神が居ること。
あなたが今こうして、抱き締めている感触ごと、全てを忘れないでくれ。
次の世代に、名が繋がらなくてもいい。
あなたに覚えてもらえていれば、それだけで、わたしは満足じゃ」
アオは、少し硬い毛の生えた宗近の頭に頬を寄せる。
宗近は、その全てを忘れまいと、より強く、アオを抱き締めた。
゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。
朝焼けの眩しい光の中、宗近は出立の準備を整えた。
アカを山へ向けて出発すれば、もうこれで、本当にこの神社へやってくる事はないかもしれない。
それでも、宗近は立たなければ行けない。
宗近を待つ者が、守るべきものが、故郷にあるのだから。
アオも最後の見送りの為に、鳥居ではなく、神社の出入り口ギリギリまで、足を運んだ。
いくら力の戻ったアオでも、神無月でもなければ、神社の外へ出る事は難しい。
だから、本当にここまでしか、見送れない。
「そうだ。アオ様、手を出してくれ」
「手?」
そう言いながらも、アオは左の手のひらを宗近の方へと差し出す。
宗近は、懐から何かを取り出すと、アオの手のひらへ乗せる。
アオの手のひらの上で、菊の形をした赤い紐で飾られた黒く輝く石が、転がる。
「……宗近、これは」
「お守りのお返しだ。とは言っても、俺は神様じゃないから、これはただの飾りなんだが。……石は、恥ずかしいけど、俺の目の色にした。紐は、アカだ。たとえ、飾りだとしても、アオ様の手元にこれがあれば、アオ様は俺の事も、アカの事も忘れない。いつでも、アオの名前を与えた俺たちのことを、思い出せる。違うか?」
アオは宗近からの贈り物を、大切に胸に寄せて、青い瞳を輝かせる。
「……あぁ、違いない。違いないとも」
朝日が山を登り切りそうな時間になった。
どんなに名残惜しくても、一人と一柱は、ここまでだ。
「それじゃあ、アオ様。馬飼宗近、自らの守るべきものの元へ、帰ります」
「……うむ。達者でな」
宗近は荷車の御者台に乗り込むと、意を決して、アカを進ませる。
これで、本当に。
さようならだ。
宗近は、振り向かなかった。
振り向けなかった。
アカを山へ進ませる中、宗近は一人、言葉を絞り出す。
「アオ様、俺は、俺は本当に、貴女に恋をしていました」
゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。
アオは宗近を静かに見送る。
山へ入っていく彼らの後ろ姿だけを、じっと静かに見つめていた。
あぁ、本当に。
さようならなのだ。
人間の女子なら、その後ろ姿に、行かないでくれと言えたのだろう。
けれど、アオは神だ。
どんなにその側で、その先に居たくとも、居られない。
だから、行かないで欲しいだなんて、言えるわけがなかった。
宗近からの贈り物を握りしめる手に、ポツンと、雫が落ちた。
「おかしいのう。嬉しくもないのに、雨だなんて」
アオは慌てて上を見上げる。
これから山道を行く宗近たちに、何かあってはいけないと思ったからだ。
空に黒い雲はやって来ては居たが、雨は降っていなかった。
それでも、握りしめた手には、雫が降り止まない。
あぁ、そうか。
忘れていたと思っていた。
もうこんな事が起こるわけがないと思っていた。
「……おかしいのう……神なのに、涙が、出るだなんて」
山を行く宗近たちの姿が滲んでいく。
まだ、何とか見える。そんな位置に宗近が行ってしまった時、アオの口から言葉が溢れた。
「……宗近。わたしは、あなたに、恋というものを、していた」
とうとう、宗近たちが見えなくなった頃、港町には、雨が降り出した。
さめざめと、涙のように降る雨に、雨の神すらも驚いた。
「……そうか、わたしは、悲しくても、雨を降らせて、しまうのだな」
降り続ける雨の中、アオは、とうとう声を上げて泣いた。
その声を聞ける者は、もう山へ行ってしまったと言うのに。
港町には、それから五日間、雨が降り続いた。
その雨は、とても物悲しく、そして静かに、降り続いたのだった。
もはや最終回ですね。
どうもレニィです。
最終回のようですが、なんと、
まだ3話も読めるんです!!!←
えぇ、こちらではあと3話あります。
是非ついて来てください!
そんな感じです。
どうぞよしなにー!!!




