42.雨の神様と幼児と河童
さわさわと、風に吹かれて葉が擦れる音が神社の境内に響く。
神社の主、雨の神アオは、葉だけになっている桜の木を見上げる。
先日、港町の若い男たちが桜の葉を採りに来た。
手酷く毟るようなら、毛虫を落としてやろうと思っていたアオだったが、それを見張る天狗と薬屋の指導もあり、男たちは桜の葉を丁寧に、一ヶ所ばかりが禿げ上がってしまわないように、満遍なく採って、帰って行った。
そのついでとばかりに、薬屋は子どもたちに春に採れる薬草を教え込んで、緑が目立っていた境内を、綺麗に整えて帰って行った。
しばらくは、誰かがやって来る事はないだろう。
それを少し寂しいと思えるのは、贅沢だなと思い、アオの顔から笑みが溢れた頃だった。
「おねぇちゃーん!」
幼児の声が、神社の外から聞こえてきた。
振り向くと、ちぃと名乗った幼児が、アオの方へ向かって駆けてきていた。
「ちぃ?!」
「うん!ちぃだよ!」
「な、ど、どうして、此処におる。どうやって来た?!」
「ちぃね、かみさまのおねぇちゃんに会いたくてね、ひとりできたの!」
「ひとりで……じゃと……?」
その言葉が真実である事を表すかのように、ちぃの後からは、よく見かける年上の子どもたちも、大人も誰も来ない。
息を切らすようにして駆けてきた幼児は、ところどころが土で汚れていて、よく見ると擦り傷なんかも見える。
ちぃはそんな事など、気にせずにニコニコと笑って、アオの側へやって来る。
アオはその青い瞳を、つぶらな瞳をした幼児と合わせると、眉を吊り上げた。
「何故そんな危ない事をしたのじゃ!ここはちぃのような幼児が一人で来て良い場所ではないのじゃぞ!」
「……ふぇ?」
ちぃは、他の子達と一緒に、長屋のお婆さんの所に居るより、また山を登って、青い目の綺麗なかみさまのおねぇちゃんとお話がしたかった。
前のように一生懸命に山を登って、ちぃがやってくれば、かみさまのおねぇちゃんは褒めてくれる。
そう思って、坂道で転んで擦り傷を作っても、泣き出すこともなく、ここまでやってきたのだ。
けれど、かみさまのおねぇちゃんはちぃを褒めてはくれなかった。
かみさまのおねぇちゃんの顔は、時折、悪戯をしたおにぃちゃんを叱るときのおかあちゃんと同じ顔、怖い顔をしていた。
「だ……だって、おにぃちゃん、がっこ……」
「だっても、何もない!この神社は山の中にあるのじゃ!町よりも、危険は多い。現に、ちぃは土で汚れて、擦り傷まで作っておる。まだこの程度で済んだから良いものの、下手をすれば大怪我になったやも知れんのじゃぞ!」
「だ、だけど……だって、ちぃ……ふぇ……ふぇええええん!!!」
ちぃからすれば、急に怒られたのだ。びっくりしたちぃは、泣き出すしかなかった。
それに慌てたのは、神様の方だった。
「えっ?!な?!な、泣くでない!」
「だってぇええ!あぁああああ!!!」
「あぁ、そんなに大きな声で泣かずとも。えぇと、どうしたら?どうしたらよいのじゃ?」
わたわたと慌てるアオなど他所に、ちぃは大声をあげて泣き続ける。
「おーおー、えらく大きな泣き声が聞こえてきたと思ったら、お姫様さまが、幼児を泣かしてらぁ」
「しかも、その子、人の子じゃないかい?これまた珍しいもんだ」
そう、嘴を突っ込んだモノたちの肌は、濃い緑色をしていて、縮れた海藻のような毛が生えた頭には、なみなみと水の入った皿が乗っている。
河童たちは、いつもの通り、山の中から町へと流れる沢を通って、薬屋の息子へ薬草を渡しに行くつもりだったのだが、急に幼い子どもの大きな泣き声が、それも神社のある方から聞こえてきたので、様子を見に来たのだ。
おかげで、河童たちのお姫様が、泣いている人間の幼児相手に手を焼いているという、珍しい場面に出くわした訳だ。
「しっかし、お姫様が泣かせたなら、その子には俺たちが見えるってことだ。もっと珍しいな」
「そりゃあ、すこぶる珍しい!俺たちが見れる人間なんて、最近は薬屋の坊か、旦那くらいなものだったからなぁ……」
楽しげに会話をしている河童たちに向かって、アオは叫ぶ。
「何でも良いから手を貸せ!!」
猫の手も借りたいと思っていた神は、水掻きのついた河童の手を借りたのだった。
゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。
河童たちは、頭の皿が乾かないようにと、常に持ち歩いている瓢箪の水を使って、ちぃの身体についた泥を落として、擦り傷が出来ているところには、軟膏を塗って行く。
ちぃは、河童という物珍しい存在に出会った驚きが、アオに叱られた事よりも勝ったのか、大声で泣き叫ぶことはやめて、しゃくりをあげながら、河童たちをじっと見ている。
「さぁ、良く効く河童の軟膏だ。これ塗っときゃ、擦り傷なんざ、すぐ治っちまうぜ」
「と、言っても、作ったのは薬屋の坊だがな」
ケケケッと笑う、河童たちをちぃは指を咥えて不思議そうに見る。
「……なんで、みどりなの?」
「何でって言ってもっても、なぁ?」
「俺たちゃ、河童だからなぁ。生まれた時から緑色なんだよ」
「……ふぅん?」
ちぃは、わかったようなわからないような返事をする。ただ、自分を神社の屋根の下へ連れて行こうとする存在が、人間でも、かみさまのおねぇちゃんでもない事だけはわかった。
河童たちは、ひさびさに自分たちを見る事のできる人間が、薬屋以外にいる事に少しはしゃいでいた。
「お嬢ちゃんは河童見るの、初めてか?」
「……うん。ちぃ、みどり見たことない」
「河童だよ、お嬢ちゃん。覚えとくれ」
「……うん」
河童二匹と幼い子どもという、なんとも不可思議な光景に、アオはため息を吐きつつ、社の中から小瓶を手にして戻ってきた。
「河童たち。助かった、ありがとう」
「いんや。俺たちもひさびさに楽しかったさ」
「そうそう、薬屋の坊以外に、俺たちが見れる人間に会えるなんて、思ってもなかったしな」
「……そうじゃな」
人が、人ならざるモノの姿を見て、信じる事を忘れてしまいそうになっているこの時代。
見てくれるから、信じてもらえる。
信じてもらえるから、存在できる。
たとえ神に近い幼児であっても、自分たちを見てくれる存在が居るというのは、人ならざるモノたちにとっては、嬉しいことなのだ。
「そうじゃ。河童たちよ、申し訳ないが、ちと頼まれてくれないか?」
「なんだい?」
「俺たちに出来ることなんざ、大してないと思うけど」
「お前たち、薬屋の男と知り合いなのだろう?なら、薬屋の男に言伝を頼みたい。ちぃという幼児が、神社にいるから迎えに来てくれと」
ちぃは一人きりで神社まで来たと言う。なら、大人たちも、年が上の子どもたちも、ちぃが何処にいるか知らないだろう。
それがまさか、神社まで来ているだなんて、きっと誰も思わないはずだ。
だから、せめてこの事情を見通せる薬屋の男を迎えに呼んだ方がいい。
「いいだろう。頼まれた」
「その代わり、そろそろ雨を降らしてくれや。暑くなってきそうで、俺たちが干上がりそうだ」
「うむ。ちぃが無事家に帰ったら、雨を降らそうぞ」
「よ、さすが俺たち河童のお姫様!」
「雨の神様!様々だなぁ」
「わたしは一度もお前たちの姫になったつもりはないが……。まぁ、よい。頼んだぞ」
「おぅ!じゃあな、お嬢ちゃん」
「俺たち河童の事を忘れないでくれよ!」
河童たちは、水掻きのついた手をうんと広げて、大きく手を振ると、沢が通っている山の方へと姿を消した。
「……さて、ちぃよ」
アオに声をかけられて、ちぃはびくりと身体を振るわせる。
また、怒られると思ったのだ。
だが、降ってきたのは優しい声だった。
「手を出せ。良いものをやろう」
「……うん?」
ちぃは恐る恐る手をアオの方へ差し出すと、アオはその手へキラキラと輝く小さな粒を三つほど乗せてくれた。
「わぁ……」
「こんぺいとうじゃ。甘くて、美味いぞ?食べるといい」
「うん!」
ちぃは、金平糖を一粒手に取ると口の中へ入れる。それは、たまにおにぃちゃんからもらって、食べさせてもらう蒸し饅頭とも違う甘さをしていて、ちぃはそれをコロコロと転がして、口の中いっぱいに味わう。
「さっきは、急に怒って悪かった。こんぺいとうは、そのお詫びじゃ」
「……いまは、おこってない?」
「怒っておらんよ」
かみさまのおねぇちゃんのキラキラと輝く青い目が、優しく微笑んでいた。
その目に、ちぃは本当に怒っていない事がわかって、安心した。
「……ちぃよ。わたしに会いに来てくれる事は、とても嬉しい。じゃがな、ここは山の中にある。ちぃもここに来るまでに、擦り傷をいくつもこさえただろう?」
「……うん」
「ちぃが一人きりで来るには、ここは危ない場所じゃ。じゃから、次からは、ちゃんと兄たちや、大人と一緒に来なさい。でなければ、わたしはちぃに会わん」
「おにぃちゃんか、おとなといっしょにきたら、ちぃとおはなししてくれる?」
「うむ。誰かと一緒に来た時は、きちんとちぃに会って、話をすると、約束しよう。じゃから、ちぃも、もう一人きりでここへ来ないと、わたしに約束してくれ」
「うん!ちぃ、やくそくまもれるよ!」
「うむ。約束の守れるちぃは良い子じゃな」
かみさまのおねぇちゃんは、ようやくちぃを褒めてくれた。それだけで、ちぃは嬉しかった。
次はちゃんと約束を守って、おにぃちゃんやおかあちゃんと一緒に来よう。そうすれば、かみさまのおねぇちゃんは、ちぃを褒めてくれるし、一緒にお話をしてくれる。
「……おねぇちゃん。ちぃがきたら、またこんぺいとう、くれる?」
「うぅむ……ちぃにあげたい気持ちは山々なのじゃが、これは宗近が来なければ無くなってしまうからの……約束は出来ん」
むねちか、という言葉に、ちぃはこの間、花見の時にかみさまのおねぇちゃんの側に居た大きな男を思い出す。
ちぃのおとうちゃんより大きな男は、それでもとっても優しい声で、ちぃとお話をしてくれた。かみさまのおねぇちゃんと特別仲良しさんな男。
そういえば最近、見かけないと思ったちぃは、アオに聞く。
「むねちかは、どこにいるの?なんでいつもおねぇちゃんのちかくにいないの?」
「宗近は、アカ……馬と一緒に町の外へ行って、物を売ったり、買ったりするのが仕事じゃからな。いつもわたしの側には居られないんじゃよ。……今頃は、どこにおるんじゃろうな」
かみさまのおねぇちゃんの青い目が、なんだか、悲しそうで、寂しそうな色をしている。
ちぃは、そう感じた。
「おねぇちゃんは、むねちかのちかくにずっといられないの?」
「……わたしは、この神社の雨の神じゃ。ここを離れる訳には行かぬ。それに、宗近は人じゃからな、神であるわたしが隣にいる訳にも、行かぬのじゃ」
「ふぅん……?」
相変わらず、かみさまのおねぇちゃんの言う事は、ちぃには少しばかり難しくて、全てがわかるわけではない。
けれど、かみさまのおねぇちゃんが、むねちかが居なくて寂しいと思っている事、寂しいのに側にいられない事は、ちぃにもわかった。
そして、それがとても変なことだと、ちぃは思うのだった。
「ちぃよ」
かみさまのおねぇちゃんは、もっともっと、寂しくて、悲しい青い目をして、ちぃに話しかける。
「お主もいずれ、わたしが見えなくなる時がやって来る。そうして、見えなくなれば、わたしと話をしたことも忘れてしまうかも知れん。だが、この神社に、神様が居ること。それだけは、どうか、忘れないでくれ」
ちぃは、かみさまのおねぇちゃんを喜ばせたくて、返事をする。
「ちぃ、おねぇちゃんのことわすれないよ。あおいおめめがきれいな、かみさまのおねぇちゃんのこと。ぜったいに、わすれない」
かみさまのおねぇちゃんは、少しだけ困った様な顔をしたけれど、キラキラと青い目を輝かせて、ちぃに笑いかけてくれた。
゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。
ちぃが金平糖を十ほど、食べた頃。港町から、くしゃくしゃの頭をした薬屋の男が、神社へちぃを迎えに来た。
アオは、迎えに来た薬屋の男を労う。
「すまんな。幼児を一人で帰す訳にも行かぬと思い、お主を頼ってしまった」
「いえ、大丈夫ですよ。……むしろ、ここで見つかって良かった。今、町中で小さな女の子が居なくなったって、大騒ぎで、見当違いなとこを探すとこでした」
長屋の老婆がちぃが居なくなったと気がついたのは、河童たちが薬屋へ知らせた後だった。
今、港町ではちぃを探して、陸揚げしている船や、網や、盥に至るまでをひっくり返す勢いで探している。
「そうか。……わたしからも、一人でここまで来るなとは、叱ってしまったから、町の人間にはあまりしからないように言って貰えないか?」
「親からは叱られると思いますが、そのくらいは仕方ないでしょう」
「そうじゃの……」
親が叱るのは、当然だ。
急に居なくなって、心配していたのだから、それはちぃが取るべき責任だろう。
「俺は薬草を採りに来たら、たまたまこの子を見つけたって事にしておきますので」
「うむ。わかった」
「それじゃあ、帰ります。……ほれ、行くぞ」
ちぃは、薬屋の男の手を取る前に、かみさまのおねぇちゃんの方へ向かって大きく手を振る。
「おねぇちゃん。ちぃ、またくるから!こんどはおにぃちゃんとくるから!だから、さみしいおかおしないでね!」
アオはちぃの言葉にハッとして、自分の顔を触ると、ちぃに思いっきりの笑顔を向けて見送る。
子どもとは侮れないものだ。
ちぃは、薬屋の男に手を引かれながら、ゆっくりと港町へ帰っていった。
手を引くくしゃくしゃの髪をした男を見上げて、ちぃはぽそりと言う。
「くすりやさんは、かっぱさんに、にているね」
「……お前、それ町中で言うなよ」
薬屋は、少しため息を吐きながらも、幼児の手を握って、港町で待つ、幼児の家族の元へと歩いて行くのだった。
゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。
港町へ帰ったちぃは、おかあちゃんとおとうちゃんに、しっかりと叱られた。
けれど、おかあちゃんもおとうちゃんも、かみさまのおねえちゃんと同じ事を言って怒るので、ちぃは、怒られている訳が分からなくて泣くのではなく。本当に、申し訳ないと思って泣いた。
ちぃが家に帰って、泣き止んだ頃。
港町から神社のある山にかけて、しとしとと雨が降った。
「あめの、かみさま……」
ちぃは、その日の雨と、山の中にいる青い目をした雨の神様の事を、一生忘れることはなかった。
そんな訳で、小さな冒険のお話でした。
どうもレニィです。
「誰にもないしょでお出かけなのよ」
って歌が道中流れていたと思います。
そんな感じです。
どうぞよしなにー!!!




