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良心

作者: ninjin

 今日も疲れた身体を電車に揺られること、七十分。(ようや)く地元の駅に着き、さて、どうしたものかと考える。

 そこの、いつもの、あの居酒屋で一杯飲んでいくか、それとも、真っ直ぐ家に帰るか。

 腕時計に目を遣ると、午後十時少し前。

 あ、いつもなら閉まっているスーパーの灯りはまだ煌々と輝いている。

 そうか、あのスーパーは確か午後十時閉店だったな。普段は午後の十一時頃に帰宅の僕だから、あのスーパーも閉店後だものな。

・・・(しば)し、思案・・・。

 よし、今日はスーパーで酒とつまみを買って帰ろう。

 僕は居酒屋をキャンセルし、そのスーパーに向かった。

 兎に角、先ずは冷えたビールを確保だ。

 僕はお酒の冷ケースコーナーでスーパードライ350ml缶2本と、レモンチューハイ500ml缶を1本カゴに入れて、それから総菜コーナーへと向かう。

 閉店間際の午後十時前ということもあって、店内の客は(まば)らで、代わりに店員たちが閉店作業なのだろう、忙しそうに棚のチェックやワゴンの片付けなどを行っている。

 僕が総菜コーナーにやって来た時、そこには僕以外に3人の客が居て、惣菜を物色していた。

 流石に閉店間際で、惣菜の平台の棚はかなりスカスカなのだが、残った全ての商品には5割引きのシールが貼られている。

 お、ラッキーじゃん。少ないとはいえ、まだ残っている。

 僕を含めてここに居る客は4人。そして残っている惣菜はざっと見て14,、5品くらいか。

 先ず、主婦らしき40代くらいと思われる女性が、春巻き3本入りパックを2つと、コロッケ5個入りの袋をかごに入れる。そして、その女性は、少し迷った後、そのままその場を離れてレジに向かった。

 次に僕と同じようなサラリーマン風の男性が、酢豚弁当と唐揚げのパックを手に取り、やはりそのままその場を去る。

 残っているのは10品程度。

 ええっと、ホッケの塩焼きが2つに、唐揚げが塩と醤油それぞれ1パックずつ。レバーにら炒めが2パックとイカフライ、白身フライ、それに何だかよく分からない中華炒めのようなもの2パック、それにのり弁が1個。

 先ほどカゴに入れたビールとチューハイを3本とも飲む気満々の僕には、のり弁の選択肢はない。そして僕はニラもレバーも食べられないので、それもない。

 さて、残るはホッケ、唐揚げ、イカフライ、白身フライ、中華炒め。

 中華炒めも、ニンニクが利いていると、それもアウトか。見た目では分からない。

 僕以外にもう一人居残ったのは初老の男性。

 ザッと、上から下までその容姿を見てみると、髪は半分ほど白髪が混じってはいるものの、確りと櫛が入った七三分け、銀縁の眼鏡に、(ひげ)は綺麗に剃られている。

 グレーの襟付きジャケットに、ノーネクタイで白のワイシャツ。但し、ワイシャツは若干シワが在るようにも見えるが、気にするほどのことではない。

 紺色の折り目のあやふやなスラックスではあるが、こちらもどうということはない。そんなサラリーマンは幾らでも居る。

 ただ、若干気になったのは、足元が白のソックスに、薄汚れた紺のスニーカーだったことと、持っていたのがビジネス鞄ではなく、布のショルダーバッグだったことくらいか。

 いや、他人を見た目で判断してどうのこうの言うつもりは無いのだ。これは誓って、そんなことを言いたい訳ではない。

 しかし、その何となく感じた『違和感』が(ぬぐ)えないのも、僕の正直な気持だったりする。

男性は、明らかに僕のことを意識して、先ほどから何度も(うつむ)き加減に、上目遣いでこちらに視線を寄越しているのだ。

 あちらが僕のことをチラチラと気にしているので、僕は残った惣菜の奪い合いを想像したが、いや、待てよ、僕はそんなに慌ててもいないし、焦ってもいない。何ならこの男性が充分に吟味して、買うものを選定し、2品ほど残してくれれば、僕はそれを買って帰れば良い、そのくらいの余裕があった。

「どうぞ、先に選んでください。僕は残ったのを買いますから」

 僕が親切心(?)で、その男性に声を掛けると、彼は少し驚いたような仕草をしてから、ほんの少しだけ首を横に振って、特に何も言わなかった。

 気の小さい人なのだろうか、彼は先ほどと同じように、僕を上目遣いでチラッと見て、総菜コーナーから離れて行った。

 何なんだ?折角先に選んでって言ったのに、元々買う気は無かったのか?それとも彼は僕の想像以上に極度の引っ込み思案で、僕に話し掛けられたことでその場に居辛くなったのか。

 もしそうであるならば、僕は余計な一言を掛けてしまったのではないかと、少しばかり後悔したが、そんなことより、もう間もなくこのお店は閉店時間を迎えてしまう。その前にレジを通過しなければ、店員から迷惑な視線で見られてしまう。

 既に店内には『蛍の光が』流れ始めていた。

 僕はホッケと醤油唐揚げをカゴに放り込んで、急いでレジに向かったのだが、何故か気になり、今居た総菜コーナーを振り返った。

 すると、先ほどの初老の男性が、誰も居なくなったことを見計らったように、再び総菜コーナーに戻ろうとしていた。

 僕は彼と目が合う前に慌てて視線をレジの方向に戻すのだが、自分でも何がそうさせたのか、ハッキリしたことは分からなかった。

「568円でございます」

 安っ。

 そうか、お惣菜は半額だものな。居酒屋に行ったら、倍以上、いや、三倍は取られる。ま、勿論、キンキンに冷えたビールと、熱々のつまみは食べられるのだが。

 僕は支払いを済ませ、ふと見たレジのお姉さんがあまりにも可愛かったので、つい「すみません、遅くに、こんなものだけで」と、心にも無いことを口走る。

 アルバイトであろうそのレジ係のお姉さんは「いえいえ、また宜しくお願い致します。お気を付けてお帰り下さい」とニコリと微笑んでくれた。

 素敵な『お愛想』だ。

 そんなことを思いながら、僕はサッカー台で、受け取った商品を鞄に詰め、詰め終わると、そのまま出口へと向かった。

 会計の安さと、今のレジ係のお姉さんとの一言だけのやり取りで、ちょっとだけ幸せな気分の僕だったが、出口の自動ドアを(くぐ)ろうとした時、それは起こった。

 僕が自動ドアに差し掛かろうとしたその時、僕の前に、いきなり後方から追い越して来た人影が、かなり慌てた様子で店を飛び出していった。

 さっきの男性だ。総菜コーナーで、僕が違和感を感じた、あの彼だ。

 嫌な予感しかしない。

 僕は咄嗟(とっさ)に彼の後を追う。

 別に走って追いかける訳ではなく、速足?いや、競歩程度の小走りくらいだったかもしれない。

「ちょっと」

 僕は特に意味も無く声を掛けた。

 彼は一瞬振り返り、僕に気付くと、一気にスピードを上げようと走り始めた。

 が、しかし、だ。

 走り始めてほんの数メートルで、彼は自らの足を(もつ)れさせて、そのまま顔面からアスファルトに突っ伏してしまったのだ。

「あっ」

 僕が慌てて駆けよると、彼は怯えたような瞳で僕を見返す。

 そして、本当に受け身も取れずにほぼ顔から地面に倒れてしまったのだろう。眉間から血を流している。どうやらそれは、自らの眼鏡のフレームで負った傷に違いない。眼鏡がズレて、その形は若干歪んでいた。

 いつもなら、いや、通常なら、そこは「大丈夫ですか?」と声を掛ける筈だが、そうはならないのだ。

 彼は僕に捕まってしまったことへの恐怖心と、走り出したことで、結果転んでしまったことへの後悔、そして、僕に対しての恨みのような、そんな複雑な表情を向けていた。

 彼がどれ程動揺していたかというと、それは、彼が両手で抱きかかえるように大事に持っていたエコバックから、先ほど店に並んでいた惣菜のパックが、顔を覗かせていたのを、彼自身が隠し切れていないことからも見て取れた。

「おじさん、どうして逃げたの?」

 僕は咎めはしても、怒る気も無く、声を荒げようとも思ってはいなかった。可笑しな話だが、自分より随分と年上の男性に対して、まるで小学生に話し掛けるよな、そんな口調で話し掛けていた。

「あ、いえ・・・」

 勿論僕には分かっている。彼のそのショルダーバッグから顔を覗かせている惣菜は、レジも通さずに、彼が万引きしたものであることを。

「『あ、いえ』じゃ、分からないよ。どうして僕から逃げようとしたの?」

 僕は意地悪なのだろうか?そんなつもりは微塵もないのだが・・・。

 男性は僕から目を()らし、(うつむ)いて、黙り込んでしまう。

「ねぇ、何か、盗ったんだよね?僕はよく分からないけど、正直に言った方が良いよ」

 僕は敢て、彼から視線を外すフリをする。しかし、目の端では確り彼の動きを観察していた。

 すると彼は、そこで初めて気付いたのか、ショルダーバッグから半分飛び出した格好の惣菜パックを、僕の目を盗むようにバッグの奥に押し込んだ。

 しかし僕は、そのことも見逃しはしないのだ。

 やはり僕は意地悪なのか?

 僕は視線を戻し、再び訊ねた。

「おじさん、僕は何もあなたを警察に突き出そうとか、そんなことを考えている訳ではないんだ。ただ、他人の物、お店の物を、黙って盗っちゃダメだろ?ちゃんと返した方が良いと思うんだよ。僕は間違ってる?どうかな?」

 男は恐らく僕の値踏みをしている。僕がこのことで脅しを掛ける人間か、それとも唯のチョロイ一般人か、そんなところだろう。

 そして、彼の結論は、後者だったようだ。

「す、すみません。ちょっとした出来心で、総菜コーナーに置いてある無料の割り箸とソースが欲しかったもので・・・」

 はぁ?である。この期に及んで、そんなのが通じると思っているくらい、この男は僕のことをナメている、そう思った。

若干腹が立った。

「おいっ!」

「!はいっ」

 僕が強めに声を上げると、男はビクッと身体を硬直させて、再び怯えた目で僕を伺う。

「なぁ、おじさん、嘘はダメなんだよ。な?そうじゃないだろ?箸とかソースじゃなくてさ、僕はちゃんと知ってんだ。そのバッグの中に何が入ってるかはさ。もう、お店、閉まっちゃったけど、まだ中に人は居るからさ、今から行って、返すなり、お金払うなり、そうしなよ。さっきも言ったけど、僕はあなたを警察に突き出すつもりは無いんだって。分かる?僕の言ってること」

 男は怯えた風に頷きながら、恐らくは、何とかこの状況を切り抜ける算段をしているのだろう。怯えているように見えて、実は、視線はチョコチョコ泳いでいるのだ。

 その顔を見ていると、更に僕は腹が立って、ムカムカしてくる。

 ひとつ気付いたことがある。彼は最初に思ったより随分と歳が行っているようだ。眉間から流していた血は既に固まり始めていたが、その傷が気になってよくよく男の顔を眺めると、当初五十代後半、()しくは六十代に差し掛かったくらいの現役世代かと思っていたが、どうも七十歳は超えているように見える。

 少しだけ僕の心が萎える。

「なぁ、何とか言ってよ」

 すると、男は再び僕の機微(きび)を読み取ったように、今度は全く別の話を始めた。

「実は、私、年金で生活していまして、家で待つ妻と二人、年金だけではどうしても食べていくのに困ってしまって・・・・」

 し・ら・ん・が・な。僕はキレた。

「んなこたぁどうだっていいんだよっ!お前はバカなのか?何が年金が足りねぇだ。知るか、そんなこと。だったら盗んで良いのかよ?あ?そんな歳になって、んなことも分かんねぇのか?え?てめぇ、優しく言ってりゃ調子に乗りやがって、なに勘違いしてんだ?おいっ」

 声を荒げた僕だったが、ふと我に返って辺りを見回す。

 良かった、誰も居ない。

 しかし、そろそろ次の下り電車が到着する頃だろう。そして、降りてくる乗客に、この状況を見られるのはかなり不味い気がする。

 この経緯(いきさつ)を知らない人間が見たら、どう考えても不良サラリーマンが老人をいたぶっているようにしか見えないだろう。然も相手は顔面血だらけだし・・・。

 冷静に考えて、不味いこと、この上ないな・・・。

 いや、実はもう誰かがこの様子を遠くから見ていて、駅前の交番に通報しているかもしれない。

 確かに僕は何も悪いことはしていないし、法にも倫理にも、道徳にも触れてはいない。いや、寧ろその法と道徳を、老人相手に説いている。

 しかし、相手の老人は怪我をしている。そうなると、状況は決して僕に味方してくれるとも限らないのではないか?

 一応はちゃんと説明さえすれば、僕が大事(おおごと)になることは無いにしても、今、この時間から警察の事情聴取やら店での現場検証やらに付き合わされるのはまっぴら御免だ。

 僕は段々と不安になって来た。

 早いところ、この状況から脱しよう。

「なぁ、おじさん。ずっと言ってるけど、僕は何も、あなたを警察に引き渡して万引き犯にしたい訳じゃないんだ。分かるよね?だからさ、さっきも言ったけど、今直ぐ、お店に戻って、窓でも叩いて店の人に出て来てもらってさ、『ちょっとした出来心で』『申し訳ございません』って言ってさ、返すなり、お金払うなりしてきなよ。僕はもうこれで帰るからさ、ちゃんと行きなよ。僕はそれを見届けることはしないから、あとはあんたの良心次第だ」

 僕はそう言って、彼の目を覗き込むようにジッと見詰める。

 今度は彼の視線は泳ぐことは無かったが、それが何を意味するのか、それを判断するのは難しかった。

 僕はもう一度「ちゃんと行くんだよ。あんたに良心があれば」、そう言って彼に背を向け、自分の家の方向に歩き始める。

 振り返ることはしなかった。

 彼が店の方向に向かおうが、反対に店から離れようが、もう僕にはどうでも良かった。逆に言えば、どちらの結末も見たくなかった。

 歩き始めて二~三分くらいの間、僕の心臓は酷くは無いにしても、いつもよりは早い鼓動を感じさせたことは否めない。

 それでもそれはやがて落ち着き、次第に冷静さを取り戻していった。

 七~八分歩いたところで、駅と自宅のちょうど中間地点くらいに在る児童公園に、何とはなしに入って行き、そして、ベンチに腰掛けた。

 鞄のチャックを開け、少し考えてから、レモンチューハイを取り出して、プルタブを押し開け、一気に半分ほどを喉に流し込む。

 旨くも無ければ不味くもないし、冷たくも無ければ(ぬる)いと言うほどでもない。

 そして、何ひとつ可笑しいことは無いにも拘らず、僕は『フッ』と、息を吐きながら笑ってみた。

 さっき僕は老人に向かって『あんたの良心次第』『あんたに良心があれば』、そう言った。

 しかし、『良心』って、何だろう?

 今しがた僕に起こった事件(?)で、僕の採った行動、言動、選択、それらは果たして良心的だったか?

 もしそうであったとして、それは誰に対して?何に対して?

 老人を追い詰めなかったことは良心か?違うだろう。

 万引き犯を諭したことは?いや、彼があの後、自ら店に懺悔(ざんげ)と謝罪に行き、許しを乞うたかどうかは分からないし、それを見届けなかった僕は、自分は責任を負わずに犯罪を見逃したに等しく、良心的な行いとは言えないだろう。

 では、貧困に(あえ)ぐ老夫婦に対しては?それも違う。あんな話は嘘かも知れない。

 では、確りと罪を認めさせる為に警察に突き出す行為は、果たして良心的と言えたのだろうか?

 ・・・これも違うのではないか・・・。分からなくなってきた。

 法的にはそれが正解なのだろうが、果たして、それは良心を(もっ)て行う行為なのか?

 確かに僕は、最初に男を追った時、『万引きを見逃すことは出来ない』という自らの『良心』に基づいて行動したと思っていたが、それも果たして、本当にそうだったかどうかは怪しい気がしてくる。

 実際はただ何となく、見て見ぬフリは出来ないけれど、そんなに深くを考えていた訳ではなく、勝手に、そして咄嗟(とっさ)に身体が動いただけに過ぎず、それでも結局は責任も負いたくなければ、面倒にも巻き込まれたくもない。

 良いも悪いも無く、面白いかと言われるとそう大したことは無く、だからと言ってつまらない訳でもない。そういうことだ。

 ということは、他人に、然もそれは自分よりも倍以上は歳の差があるであろう老人に対して『良心』を口にすること自体が、道徳にすら(かな)っていないのではないか?

 僕はレモンチューハイをチビリと飲んで、それから胸のポケットから取り出した煙草に火を点ける。

 大きく一服吸い込んでから吐き出した煙は、暖かくも冷たくもない夜風に吹かれて、空気と混ざり合い、消えていく。

 そう言えば、さっきも同じようなことを思った。

 旨くも無ければ不味くもなく、冷たくもない無いが(ぬる)いと言うほどでもない・・・。

 そういうことか・・・。

 『良心』や『善意』を振りかざしたところで、そんなものが目に見えるのは一瞬であり、いつの間にかそれは影も形も無く消えていく。

 逆も然りだ。『意地悪』や『悪意』にしたって、一瞬そんな感覚が頭に(よぎ)ったにしても、そんなものは瞬く間に霧散して、それがどういう感情で行った行為なのかなんて、忘れてしまい、あとは『それは成り行きだったのだ』『仕方のないことだったのだ』、そんな風に自分を正当化するのだ。いや、正当化するのも最初だけだ。直ぐにそんなことも無かったことになる。

 結局は、『良いも悪いも』無く、『善も悪も』無いんじゃないか?

 考えるだけバカバカしい・・・。


 その先は、ただぼんやりと煙草をふかしながら、何をするでも考えるでもなく、ピントの合っていない視線のまま、夜の公園の風景を眺めていた。

 そして、いつしか『考えないこと』にも飽きて、ふと思う。

 今しがた起きたことは、現実か?

 ビールとチューハイとつまみを買ったのは現実だ。確かに鞄の中にそれらは在る。

 あの老人の後を追ったのは?

 いくら夜間とはいえ、まだ夜の十時過ぎた頃、駅前のスーパー近くで、周りに誰も居ないことなんてあるのだろうか?

 近くを通る人間も居なければ、誰かの通報で警察官が来ることも無かった。

 最後はそこそこに大声で老人を(なじ)ったように覚えている。

 何か、僕は重大なことを見落としていないか?

 僕は一瞬、恐怖にも似た不穏な戦慄(わなな)きが、胸の奥の方から湧き上がってくるのを感じた。

 そして、僕は恐る恐る自分の煙草を持った手の甲に視線を落とす・・・。

 その手は、シミだらけでシワばかりが目立つ、何とも年老いた手だった。

 煙草を持つ手の先に見えるのは、寄れた紺のスラックスと白いソックス、それに薄汚れたスニーカーだ・・・。

 僕の座ったベンチの脇に置いた僕の鞄は、先ほど出会った老人が持っていたチャック付きのショルダーバッグに間違いない・・・。

 もう分かっているのだ。

 それでも、僕は眉間を指で触ってみる。

 小さな痛みを覚え、少し粘り気のある液体のようなものを触る感覚があった。血糊だな・・・。

 それから僕はショルダーバッグの中から、レジでお釣りと一緒に貰ったレシートを探し出し、街灯の明かりを頼りに内容を確認する。

『アサヒスーパードライ350 2コ 378円、レモンチューハイ500 1コ 138円  計568円(ショウヒゼイ 52円)』

 僕は(おもむろ)に立ち上がり、(そば)に在った水道の蛇口をひねり、曲がった眼鏡を外し、顔を洗う。

 冷たい水が、傷に()みた。


 それから公園のトイレに向かい、洗面台の鏡を確かめる。


 そしてそこには、(まが)うこと無き、白髪混りの七十代と思しき・・・。





    おしまい


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

それではまた。

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