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無気力からの脱力

作者: わか

 この部屋に時の流れはない。いや正確にはあるのだが、そこに入った者は、時間を忘れてしまう。別にあまりに楽しくて時間を忘れるとかではない。時間に追われる現代社会において秒刻みでカチカチと進み続ける、時間のことを考えずに済むのだ。




 「あー、何もしたくない。何にも考えたくない。ただ、ずっとこうやってダラダラとしていたい」


 部屋の真ん中で柴崎は大の字に寝転がって呟き、辺りを見回した。部屋の壁も床も白一色で、家具も一切無い。ただ、どこまでも部屋は続いているようで、反対側の壁は見えそうにない。その巨大なキャンパスの上に点々と人が居て、各々の気の向くままに何かをしている。


 「なにを気の抜けたことを言ってやがる。そのまま寝そべってるだけで人生を終える気か?」近くに居た男が携帯ゲーム機に視線を向けながら、柴崎の言葉に反応する。


 「ああ、一向に構わないね。俺にはあくせく働いて、家族を作って、生きがいを見つけて、最期は家族に看取られながら死ぬだなんて人生を歩むだけのエネルギーは無いんだ。この部屋に来てるってことは、お前も同じなんじゃないのか?」


 「俺は違うさ。ただ、あれだ。会社のこともやらなきゃならんことも全部忘れて、ゲームに集中したいだけだ。いいか、俺は普段は、お前みたくだらだらと何の目的も無く生きてる人間とは違うんだからな。一緒にするなよ」


 男は憤慨した様子で、ゲーム機に向き直った。しかし当の柴崎も、「あ、そう」と言ったきり、それ以上男に話しかけることはしなかった。


 正直なところ、柴崎は男と話したことを後悔していた。


 あの程度で怒るとは。彼もまた自分の人生とか、生き方とかに誇りを持って生きている人種なのだろう。だから俺みたいな無気力な人間を下に見てくる。そうやって誇りを守っているんだ。その埃みたいな誇りをな。


 口に出そうものなら、白い目を向けられそうなダジャレを思い浮かべながらほくそ笑んでいた柴崎であったが、途端にどうでもよくなり、そのまま寝てしまった。




 柴崎が目を覚ますと先程まで居た白い部屋とは別の、普段暮らしている木造アパートの一室に戻っていた。ベッドから起きた柴崎の目線は壁に向かう。そこにはいくつものメモ用紙が貼り付けられていた。柴崎が書き溜めてきたTODOリストである。中には二年前に書いたものも混ざっている。こうして起き抜けに見える位置に貼っていても、二年も滞納してしまうのだから、もはやこのリストが意味を成していないことは明白であろう。柴崎は壁の模様の一部と化した紙を一瞥し、朝食を摂りに冷蔵庫へと向かった。


 冷蔵庫の前に立った柴崎であったが、冷蔵庫の扉を開けるのすらも億劫になり、「冷蔵庫の扉を開ける」という項目をTODOリストに加えたくなった。しかし飯を食わねば死んでしまうので、仕方なく非常に億劫であったが、扉を開けた。こういう風に半ば強迫的な状況に追い込まれなければ、行動できないのが柴崎である。小学生の頃、めんどくさいからと言って修学旅行をサボろうとした(最終的には親からの圧力に屈したのだが)。中学生の頃は部活にも入らなかった。高校受験では、帰宅部であるというせっかくのアドバンテージを無にする程に受験勉強をサボり続けた。まともに勉強を始めたのは年も暮れ始めた十二月である。


 しかし、そんな柴崎でも、生まれ持っての運なのか、或いは彼の処世術の成せる所なのかは不明だが、人並みの給料を貰い、余裕は無いが不自由も無い生活を送れている。そんなだから、自分の性格を改めようと考えを巡らすこともしてこなかった(したとしても、途中で面倒くさくなるのが関の山ではあるが)。


 一度、柴崎の部屋を訪ねた友人が壁一杯のTODOリストを見て言った事がある。


 「お前、これ書くだけで満足してないか? 書いたらやる気無くなっちゃうタイプだろお前。『もう紙に書いといたからいいや。』って。それでもう何か手を尽くした気になってる。例えばほらこれ、『掃除機をかける』」


 そう言って柴崎の友人は指でメモのある部分を指し示す。そこ以外にも『掃除機をかける』というフレーズが定期的にTODOリストの中で繰り返されている。


「二ヶ月前に来たときもこれ書いてあったじゃん。でもってまだ掃除機かけられてないんでしょ?」


 「そりゃ俺だってやろうとは思ってるよ」


 柴崎がぼそぼそと答えになっていない返事を返す。


 「その度にTODOリストに『掃除機をかける』って書いて、ガス抜きしてるわけだ。それだけで何かやった気になれるから」


 友人の顔には呆れが見える。


 「そもそも部屋だって小さいんだから、掃除機かけるなんてのはすぐ出来ることでしょ。そんな些細なことまで面倒なのかよ。いいか? すぐ出来ることは、思い立ったらさっさとやってしまえ。やろうと思った時には既にやり始めてないとダメなんだよ。こんなメモっ切れに書いてる内は絶対に何も出来ないぞ」


 


 柴崎はこの言葉をよく覚えているし、彼の友人が言ってることをその通りなのかもしれないとも思っている。しかし面倒なものは面倒なものだし、反省も面倒なので、依然としてTODOリストを書き溜め続けている。


 その友人はそれ以来家に来ていない。




 運動をしなければ脂肪が堆積していき、筋力は落ちる。それと同じように、柴崎は何もかもを面倒くさがってやらない為に、TODOリストが堆積していき、活力は落ちていった。例え彼が一念発起して、一日だけやる気に満ち満ちた男になろうとも、常人であれば家中隈なくピカピカにするところを、その貧弱な活力では精々溜まった洗濯物を洗濯機にかける程度で終始するだろう。勿論洗濯し終わった後の濡れた洗濯物を干すだけの気力など彼には無い。その湿気で繁殖した雑菌のせいで、より臭くなった服を身に着けるようになるだろうことは想像に難くない。


 とにもかくにも、行動するためには活力という名のエネルギーが必要で、彼の場合それが極端に少ないのである。しかし彼だって死にたくはないので、その僅かな活力を日々の生活のために割いている。その結果、残ったエネルギーでは精々ベッドに転がるのが精一杯となる。だからと言って、柴崎がこの状況を脱却しようとしているのかと言えば、もはや明らかなように答えは否である。やる気・努力は柴崎からもっとも縁遠い言葉だ。




 「そんなに頑張って、お前はどうしたいわけ?」


 柴崎がまだ高校生の頃、友達の小泉にそう尋ねたことがある。夏の甲子園地方大会を目前にしたときの事である。昼食を一緒に食べながら、小泉は柴崎に自分の野球部での苦労話を自虐的に、そして自慢げに語ってきたのだが、この言葉はそれに対する返答である。


 「どうしたいもなにもそりゃ甲子園に行きたいに決まってるだろ」


 「それで? その後は?」


 「その後って。まぁ、あわよくば優勝しちゃう?」


 小泉が冗談めかして返す。


 「でも優勝できないじゃん」


 「そうかもしんないけどさぁ」


 「じゃあやる意味ないっしょ」


 「夢のない野郎だなあ。俺たちだって優勝したくて練習してるんだからな? 別に負けていいやなんて気でやってないから。そもそも練習しないと勝てるもんも勝てないだろ」


 「いやそうじゃなくて」


 「じゃあなに? お前は何が言いたいわけ?」


 「だから、そんなに頑張ってどうすんのかなぁって。だって結局優勝はできないわけだろ? ならその努力は無駄じゃないのって話だよ」


 「別に優勝することだけが全てじゃねえよ。ま、努力したこともない柴崎くんには分からないでしょうけどね」


 小泉は「ちょっとトイレ」と席を立ち、物理的にも柴崎を下に見ながらその場を去っていった。


 「俺には分からねえわ」


 あれから五年経った今、昔とはすっかり変わってしまった天井の景色を眺めながら、柴崎はあの時と同じ言葉を呟いた。




 上階の部屋からドタドタという低音と女性の怒鳴り声が聞こえてくる。どうやら子供が騒いでいるらしい。それを咎める母親の声量からはイラつきが滲み出ていた。


 しかしこの母親も自ら望んで子どもを産んだのだろう、と柴崎は思った。そして、なぜそんなわざわざ心に波風立てるような道を行くのだろうかとも考えたが、やはり柴崎に答えは出せなかった。




 柴崎が耳栓を外すと、すっかり辺りはシンと静まり返っていた。時計は午後の十一時を指している。柴崎が最も好む時間帯だ。人々も鳥も獣も寝静まり、昼間の喧噪が嘘だったかのように静かな時間、自分以外の存在を意識しないで済む時間。世界がずっと十一時だったらいいのにと何度柴崎は思ったことだろうか。よく不老不死になって無限の時間を生きたいという願いを聞くが、柴崎の場合は少し違った。確かに永く生きていたいという気持ちは同じなのではあるが、彼の場合この至福の十一時の時間を、餅が引っ張られてどこまでも伸びていくように、永遠に引き伸ばして欲しいと願っていた。そうすれば、不老不死方式のように愛別離苦や世の変遷などで心を乱さず、ずっとこの幸福の中で心持ち穏やかに生きていけると。


 ああ、無常かな。しかし時は流れ行く。苦難は押し寄せ、悲嘆は絶え間なく、心に安らぎを与えない。


 柴崎がそんなことを考えながら眠りにつくと、あの白い部屋に飛ばされた。




 「あの、すいません。ここって一体どこなんですか?」


 突然話しかけられ振り返ると、高校生くらいの男子が中腰で立っていた。こんな若い頃からこの部屋に来るとは可哀想だなと柴崎は思った。


 「俺もよく分かんないけど、天国っちゃ天国だし、地獄っちゃ地獄」


 柴崎が答えると、その男子高校生は要領を得ないといった顔をしてからすぐ、訊ねる相手を間違えたのではと思い始めた。


 「僕、早くここから出たいんですけど」


 「なんでよ、せっかく来たのにもったいないなぁ」


 「受験勉強しないといけないんですよ。こんな所でノンビリしてる暇なんて無いのに」


 少年の声からは焦りが滲み出ていた。


 「大変だねぇ」


 対照に柴崎は相も変わらずまったりとした調子で言って微笑んだ。


 「笑い事じゃないですよ。本当に早くここから出ないといけないんですから」


 「そんなに受験勉強したいのか」


 「ウチ金ないんで今年受験落ちたら高卒で働けって言われてるんすよ。そんなん、なりたくないですもん」


 そう言う少年の顔には切迫感があった。


 「高卒でもいいじゃない。現に世の中には高卒の人なんて沢山いるんだよ? そういう事を言うのは失礼なんじゃないかな」


 柴崎は大卒であるくせに、知ったような顔で言った。


 「あ、いや、そんなつもりじゃなくて」


 すっかり彼は目の前の男が高卒なのだと勘違いしてしまい、焦っている。


 「ただ、僕は大学に行きたいってだけで、高卒の人を軽く見てるなんてことは無いです」


 柴崎は彼の月並みな弁解を聞き流してから、「なんで君はそんなに大学に拘るの?」と訊いた。その高校生は、この部屋からの出方を知ってるならさっさと教えてほしいのにと思いながら、


 「だってもう大学行くのなんて当たり前になってるじゃないですか。だから行ってないと、この先不利になるんじゃないかなって思うんです」


 と答えた。


 「ふーん、そんなもんなのか。いやね、俺も大学行ったんだけど、今にして思えばなんで行ったんだろうと思ってさ。だって、人間なんて所詮生まれてきて死ぬこと以外に絶対しなきゃなんない事なんてないでしょ。そんな事考えてる俺がなんで当時、大学行くだなんて七面倒臭いことしたのかなって。ま、多分、今の君みたいなこと考えてたんだろうね。昔は俺も少しはマトモだったのかな」


 苦笑しながらそう話す柴崎の前で高校生が「はぁ、そうですか」と一言発したきり、場はしんと静まり返った。


 「あの、そろそろここからどうやって出るか教えてもらえませんか」痺れを切らした少年が尋ねる。


 「寝ればいいんだよ」


 「え?」少年が拍子抜けしたような声を上げる。


 「そう、寝る。それだけ」「本当に?」「うん」


 「じゃあ、急いで寝てきます」少年はそう言うと、人の少ない所まで移動していって横になった。そしていつの間にか彼の姿は消えていた。


 柴崎は、この部屋に来てさえも急ぐことを忘れられない人を見るのは初めてだった。少年の普段の生活を案じている内に、次第に彼にも眠気がやってきた。




 柴崎が初めてあの部屋に入ったのは中学三年生の頃、受験シーズンの真っ最中であった。初めて経験する程の重圧と多忙に当時の柴崎少年はこれまでになく疲弊していた。毎日飽きるまでゲームをしていた日々が遠い過去のように感じられ、自分は既に死んでしまって努力地獄なる処に落とされたのではないかとさえ思っていた。そこに突然現れたのがあの白い部屋である。しかしその部屋に初めて入った時、柴崎少年は特に驚くこともなく、まるで自分の部屋のような見知った空間であるかのような錯覚に陥っていた。


 その部屋で彼は今までの鬱憤を晴らすかのように、ただ只管にゲームをし続けた。彼にはもはや自分が受験生であるということなど頭から消え去っていた。結局そのゲームをクリアするまでプレイし、エンドロールに入った頃、彼は不意に睡魔に襲われた。


 彼が目を覚ましたのはとある病院の一室だった。どうやら一度寝たっきり丸二日意識が戻らなかったらしい。柴崎少年には全くその自覚はなかったので、その話は到底信じられなかった。しかし、その一月後、彼は再びあの白い部屋に飛ばされることとなった。彼は今度はその部屋で適度に遊んだ後、と言ってもその部屋では時間の感覚がないので作業量から判断したのだが、すぐさま寝てみることにした。彼が目覚めたのは就寝してから約六時間後だった。このことから、どうやら白い部屋にいても時間感覚は無いが、現実世界では時間が進んでいるらしいと柴崎少年は勘付くに至ったのであった。そしてその仮設は今尚揺らいでいない。




 すぐ隣では幹線道路を多くの車が通り過ぎていく。歩道には多くの店舗が所狭しと立ち並んでいる。柴崎は車両と店に交互に視線を揺らしながら、通りを北へと歩いていた。


 その時突然、柴崎の背後で女性の悲鳴が響いた。後ろを振り返ると項垂れている女性がいる。その腹部が不自然に赤く染まっていく。側では別の女性が動転していた。


 背筋が凍った。それと同時に体が火照る。


 こういうのが嫌いなんだ。柴崎は思った。ただ安穏と暮らしていたいだけなのに。それが奪われる。


 ふと、視界にビルの隙間に忍び入る人影が見えた。その男の手で包丁のようなものが鈍く光った気がした。柴崎はその男の後を追った。自分も返り討ちにあって刺されるかもしれないという恐怖が無いわけでは無かったが、それ以上に柴崎の中には怒りが滾っていた。正義感からではない。理不尽に人の日常を奪うモノへの嫌悪感が柴崎を猛烈に駆り立てた。普段の柴崎からは想像もつかないほどに。


 「おい、待て! お前!」柴崎が叫ぶ。


 男も男で動転しているようで、その足取りはフラフラである。そのおかげかビルの路地裏まで来て、運動不足の柴崎でもなんとか追いつくことができた。男の腕を掴むと、「離せ!」とまだ若い声をした男が叫ぶ。しかし、制圧しようにも柴崎の筋力で若い男に勝てる筈がなく、振りほどかれてしまう。


 「せめて顔ぐらいみせろや!」柴崎も大声で張り合いながら、男のマスクに手をかける。突然に顔に手を伸ばされ驚いたのか、男の動きが一瞬固まった。その直後、柴崎までも言葉を失う。剥がれたマスクの後ろにあったのは先日の高校生だった。


 「お前、こないだの……」


 その状況で先に体を動かせたのは、高校生の方だ。柴崎が言葉を紡ぎあぐねている内に少年は柴崎の腹部に、先程の女性と同じように、刃物を突き立てていた。柴崎の顔が苦痛に歪む。声を出そうにも言葉が喉を抜けない。


 柴崎はその場に倒れ込んだ。


 こんな呆気ない幕切れが俺の最期……? 


 走馬灯さえも浮かばない。あまりに無気力に生きすぎた。友人の小泉なら野球に打ち込んだ青春時代でも思い出すのだろうか。俺にはそんな風に人生の最期に思い返すモノさえないのか……。




 だけど、悔いはない。


 好きだったんだ、あの日々が。たとえ無気力で何もしてなくたって、ただ穏やかに生きている、その感覚をずっと噛み締めていられた日々が。




 でもやっぱり、まだ味わっていたかったかな。




 柴崎が次に目にしたのは真っ白な天井だった。眠気はまだ来ない。


 

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