Report92: 凪のデトロイト
甘い声で呟いたのは中年の男性だった。欧州……少なくともタイ人ではない。年は俺よりも上だろうが、目は切れ長で鼻は高く、素直に美形だと思った。髪は黒くて短い。身長も高く、立ち振る舞いには惚れ惚れした。映画俳優だと言われたら一片の曇りもなく、信じてしまうだろう。
俺が小首をかしげていると、その男性はすたすたと歩いていった。そして喧嘩真っ最中の二人の前に立つ。髭ダルマとツーブロックは殴り合いを一旦止め、その中年男性を注視するのだった。
「何だアンタは、やんのか――えっ、オゴッ……!?」
「んぐッ、アッ、放せ!!」
突如、中年男性は左右の手で二人の首を鷲掴みにしたかと思うと……そこで俺の理解の範疇を超えた。
意味不明であった。どこにそんな膂力があるのか、直立したまま、体重七十キロ以上は優にあるだろう男性二人を、同時に持ち上げてみせたのだ。
激しく抵抗する二人。じたばたと足掻くのだが、宙を蹴るばかりだ。俺はそれを固唾を飲んで見ていた。
「どうせ、どこかの犯罪組織の一員だろう。この辺では暴れるな。良いな?」
「わ、わ……分かりました! もうしませえぇぇん!!」
「おおお、俺もだ! 手を引く! だから許してくれ!」
そう叫び声を上げると、中年男性が手を放した。地面に倒れ込み、激しく咳き込む髭ダルマ。ツーブロックの方は気を失っているようだ。
ふと冷静になり、周囲を見渡す。野次馬に来ていた人間も絶句していた。
俺は、助けてもらったって事でいいんだよな……?
「あの、ありがとうございます」
「まだまだだな。もっと鍛えろ、<リセッターズ>」
「え……あれ、ひょっとしてどこかで?」
俺がそう尋ねると、中年男性はフフッと笑った。笑った顔も美しかったのだが、あまり言及してゲイだと思われても嫌なので割愛する。
そこでふと、遠くからこちらに手を振っている女性が居る事に気付いた。その女性に手を振り返す中年男性。
「ほら、行くよー」
声の主はその女性で、赤み掛かったロングヘアーの女性だ。二十代くらいだろうか。白いニットに灰色のタイトスカートを穿いている。手に持ったバッグは恐らくブランド物だと思われる。ややフォーマルなファッションだが、観光だろうか。
中年男性の恋人……にしては歳が離れている。娘だろうか。
「それでは、またどこかで」
「あ、ちょっと!」
俺の質問に対して答えるわけでもなく、その男性は去っていってしまった。
「リベルタスによろしく」
去り際、男性がそう呟いた。俺は慌てて後を追おうとするのだが、雑踏に紛れ、姿は見えなくなってしまった。
リベルタス、つまりメガミを知っている。となると仮面の男、サムチャイ、もしくはその仲間か……。
何度反芻しても、答えは得られない。ひとまず事務所に連絡を入れた。電話に出たのは新人のリュークだった。
俺はリュークに伝えていく。状況の報告、メガミの昔の名を知る人物……依頼は知らないおじさんが達成してしまった、と。
喧嘩していた二人も、いそいそと車を発進させていった。人集りも霧散するように消えて、駅前は穏やかになったのだった。
その後、事務所に戻って、暫く雑用なんかをやっていたら夕暮れ時になった。日本と同じで、冬季は日没が早い。
時計を見やる。六時になろうかという頃だった。
「今日は解散だな」
メガミがノートパソコンを閉じ、鞄にしまった。これを合図に、ゾフィやカメコウも帰り支度を始める。
新人のリュークの歓迎会でもやるのかと期待していたのだが、開催されなかった。俺が加入した時もなかったし、今は……そんな気分でもなかった。
それもその筈、再開した任務に慣れつつあったが、心境は良くはない。大学への潜入調査で知ったカニバリゼーション、仲間の負傷、殉職。それらは容易く晴れる問題ではないという事を否応にして知った。
これから先も、こういう経験があるのだろうか。誰かが死ぬ。いや、それはもしかしたら俺かもしれない。自分が死ぬ恐怖よりも、仲間を失う恐怖の方が大きかった。
この日の夜は、色々考えこんでしまって中々寝付けなかった。




