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剥製の忘れ物

作者: 糸井槌

 書類を取りに戻った標本室の床に、見慣れない指があった。

指なんて最近のものにあったかしら、と首をかしげて、ああ先生が落としたのかもしれないなと適当に結論付けてから私は上着のポケットから取り出したレースのハンカチでその指を包み、慎重にシャーレへと置いた。シャーレに詰めたコットンの繊維は日射しの中で僅かに軋んで、光の絡ませ方を変えてみせた。

 

 ***

「ねえ、今日雨降るんだって?わたし傘持ってきてないのに」

大学時代の友人はそんなふうに気だるげな声を投げた。美術館で客を案内していた時と同じ人物とは到底思えない声。きっと意識などしないで声帯を使い分けている彼女はアイスへルジェを垂らした。バニラとベリー、そしてアルコールの薫りが立って、お酒持ち歩くのやめたら、と言いたくなったけれど可愛らしく小振りなルジェの瓶は香水のボトルを思わせて、結局昔と同じく差し出された甘さと一緒に呑み込んでしまうのだった。

「じゃあ泊まっていく?明日は標本室お休みみたいだから」

友人はこくこくとちいさく頷くと、化粧と髪が乱れているせいか、調律を脱ぎ捨てた音楽のような美しさを携えた顔を緩ませて、口元を汚しているピンク色をグロスと一緒に舐めとると、子供みたいに握ったスプーンをまたこちらへ差し出した。変わらないスプーンの持ち方に、それを笑ってそしてひとりになったあと泣きたい心持ちにさせられて、私はなにも言わず飲み込んだ。

 ***

 

 今日は電話も鳴らず、ドアにつけられたベルどころか少し開けてあるのに窓際に下げられたレースのカーテンが揺れることもない、とても穏やかな午後だった。

 指は爪のつきかたや僅かな変形から、左手の薬指だろうと思った。余りに時間が穏やかなせいか、空気に晒された眼からなんの感情もない涙が伝うまで、シャーレに乗せた指を観察することに没頭していた。

この指はいったい誰のものなのだろう、と涙を拭いながらぼんやり考えていた。

 けれど、そうして作り上げた憶測を先生に話すことは何故か出来なかった。

 

 ***

「いいですか、本当の意味、存在として、完璧になんて誰にもなれはしないんです」

 はじめて標本室へ来た日、先生が口にした言葉はよく覚えている。

 先生はたっぷりと時間をかけ丁寧に、正しい手、の造りを説明してくれた。西日が深緑のカーテンにふれて、塵をきらきらとさせていた。

「私の話はこれでおしまいです。なにか解らないところなどがあったら、どうぞ聞いてください」

「解らないというか、今まで見てきた標本とは違うので、なんというか」

困惑する私を見据てから、先生は笑った。

「大丈夫ですよ、無理はありません。ここにある標本はすべてあなたが今まで知っていたものたちとは全く別の場所にあるんですから」

先生は、身体には大きすぎるように思える白衣のポケットから筒状の革の入れ物を取り出すと、私の前へ置いた。その入れ物には試験管が入っていて、その中にはターコイズの地に金の縁取をされた印鑑のようなものが収まっており、試験管には、B-イ26 F嬢 口紅、と印字された古びたラベルが貼られていた。それこそが、私がはじめて触れる、この標本室に収容された標本だった。

「標本は、ここに収容されて、それでおしまいなのでしょうか」

「原則としてそうです。標本の役割は誰かに見られるためではありませんからね」

「それなら」

「ここの標本はその対象ひとりのためにあるべきなんです。採集して狭いところに詰めるだけなら、子供の虫取りとかわりないでしょう」

冷たい、硬い口調だった。

その強さは、この人はここの仕事を心から大切にしているのだろうなと感じさせた。

 口紅をしまっている白衣の袖は折られていて、その片方の、左腕の折り目の下に隠されるようにして淡い染みが動きに合わせて出ては消えた。

 ***

 

 標本室の仕組みや仕事にも少しずつ慣れて、いやこの場所の空気に私の輪郭が馴染んでいって、まるで溶け込むような錯覚は足をすくうこともなくぴたりと私の身体に合わせて当て嵌まる。

 今日は、畸形を起こしたハムスターの爪を標本にするための準備におわれていた。

「爪の持ち主だった仔は、もう死ぬだけです。だからこの爪だけも、ここへ保管していただけますか」

依頼者のペットショップの店員は、独り言のようにそれだけ言うと虚ろな目のまま標本室を後にしていった。

先生が、可哀想ですね、と呟いた。

ハムスターにか、それとも依頼者にか、両方か、どれにも属さないものか、考えても解らなかった。

「あなたはサリドマイドを知っていますか」

「昔、授業で。薬害性のものでしたよね」

「そう、正すなら、ドイツで開発されたサリドマイドという睡眠薬です。妊婦も飲めるという触れ込みで売り出されたのですが、数年後に胎芽病、サリドマイドですね、そういった畸形への因果がレンツ博士により報告、すぐに回収となりました」

「でも、日本では確か」

先生が伏せた目蓋を震わせた。

「ええ、因果関係を否定しました。その結果は……あなたも授業で習ったとおりでしょう」

私が紅茶を飲もうとした時、先生はポケットから革の、F嬢の口紅をしまっている入れ物を取り出した。

「この口紅の持ち主が、そうだったようです。左手の薬指が指輪でも嵌めているように、そこで指の形成が止まっていたんです」

 ちょうど、こんなように。

先生は私の左手を掴むと薬指に口紅で線を引いた。

それが突然だったせいで、紅茶が零れて先生の白衣を染めていった。

 その日から、第三日曜日に私の薬指がF嬢の口紅で区切られる事が決まりになった。

 

 その日は酷く忙しく、全ての仕上げをこなした時には、気がつけば日を跨いでいた。

 ふらふらになりながら第四標本室へ向かうと、先生はアルコールランプを三つ並べた灯りの中で机に向いて背を丸くしていた。

何冊かの本が広げられて、先生の万年筆を使う音が耳に心地よかった。白衣は大きいから、小さい背中が目立ってきれいだと思った。すこし目を閉じて、考えたいくつかの似合う名前を舌に乗せて、飲み込む。

先生、と声を掛けると、よほど熱心に見ていたのか驚いた顔をあげて、すぐに照れたようにまた視線を戻した。

「これはなにかの学会にでも出すものですか?」

「なんてことありません、ただの趣味です」

 日焼けしてあちこちに染みのあるその辞書は酷く傷んでいた。少しでも扱いを間違えればたちどころに形を失ってしまいそうなほどのぼろだったけれど、粗い紙に触れる先生の指先は決してそれを許さなかった。キリル文字はルーペに拡げられて、なにか遺跡に描かれた壁画の一部のように映った。

「じゃあ、なんの趣味ですか」

「残念、これも私だけの秘密ですよ」

「先生は本当に秘密がお好きですね」

ページが捲られる度に、辞書は第四標本室のカーテンと同じ匂いをあげた。

先生が私の左手を捕まえて、F嬢の口紅に薬指は容易く区切られていく。

 ああ、今日はもう第三日曜日だった。

 

 ***

 先生が森へ行こうと言ったのは正午を少し回った頃だった。

「森、ですか」

「そう、そこへ私は時々散歩しに行くんです」

この近くにそんな森なんてあったのだろうか、と私は首をひねった。

「私くらいしか知らないような秘密の場所なんですよ。だれど気紛れで、あなたに教えてあげます」

秘密ですよ?さあとにかく、散歩しましょう。

私の手を引いて、先生は機嫌良く革靴の底を鳴らした。

先生からの言い付けでずっと引いたままの薄いレースのカーテンの奥は一面に暗い雲でつぶれていた。

 

「寄生された鼠」

「猫の経血」

「文鳥の骨」

 途切れの無い道で、先生は指先と舌という最小限の動作だけで様々なものに名前を与えながら歩を進めていく。

私は背伸びをしたり這いつくばったり、あらゆる体勢をとって、それらを眺めては手帳へ書き留めて、首を延ばせばその脚に届けそうな距離にある先生の後を追う。

 先生の履いている靴はサイズが合っていないのか、いつもその縁に、白い足が動くたび小さな隙間を作る。真黒で、目を離せなくなるなにもない隙間。

 

 どうしてこの人は身体に合わないものを纏いたがるのだろう、と思えばなぜか肺が泡立って泣きたいようなざわめきを覚えた。先生の背景を、私はなにも知らない。そういえば名前さえ、まともに呼びあったことがなかった。今与えている指先は当たり前にこちらを向くことはない。

 

 そんな風に気を取られていたせいか、枯れ葉の崩れる音に続いて、ほんのちいさな抵抗と皮膚の破れる鋭い痛みが掌から伝わるまで気づけなかった。這わせていた手をあげると硝子の破片が食い込んでいて、緑色に透けるそれを伝って一粒が落ちる。まだ地面へつけたままの左手に持った手帳を叩くと、その隅は黒く染みが拡がった。

 はっとして私が身体を動かすのと、先生の靴が枯れ葉を踏みつけるのは同時だった。

硝子に留まっていた滴が、耐えきれずに潰れる音がまた手帳を叩き最後の声をあげる。

小さな虫がどれだけ身を寄せても音が聞こえないように、枯れ葉も先生の靴の下でさらにちいさくなって、聞き取れないような悲鳴をあげているのだろうか。

衣擦れの音もなくしゃがみこむと、先生は硝子の食い込んでしまった私の手を取る。その手つきは 優しく、けれど深く拘束するように。呪いの祝福をするように。

 緑色が深く翳り、それは血と混ざって不思議な色を孕む。太陽を知らないような指先が硝子へと迷いなく伸ばされ、軽くその輪郭をなぞってから、ぐ、と押し付けられる。

皮膚の裂ける音と、肉を割る音。

一筋の線を引かれた先生の指先から、ゆっくりと形作られていく球体はひとつの芸術品のようで、ああはやく標本にしなければ、などと思ってしまうほどに、赤く黒く透明で隙がなく、美しかった。

延びた腕が戻される瞬間の筋肉の蠢きや冷たい肌の表情、危うさを纏いながらも指先に留まり透ける濃い赤。

「もうすこし見せたかったけど、行きましょうか。たぶん雨も降るし、それに手当てをしないと」

うすく笑いを滲ませると、先生はしゃがむ時と同じように音もなく立ち上がる。そのやわらかな動きで、感覚を無くしたように落とされた血が靴とおなじようにそこから延びる脚をまるで区切るように、真っ白なシャツの裾へ色が拡がっていく。

赤くなったシャツの裾から、それをまるで気にもとめない白い脚、そして無表情に境界を引いていく黒い靴へと目線を滑らせる。歩を進めだした踵がまた隙間をつくり、こちらへと口を開く。その奥はいくら見ようとしても真っ暗で、底知れず、なにも見えなかった。まるでその上に続いている白い足首がそこで断ち切られ、そのまま靴が縫い付けられているようだった。

ぽつりと聞き慣れた音がして、先生を追うために急いで立ち上がろうとした。そのせいか頭から血が退いく感覚で、膝から下がまるで消えてしまったように自由が効かなくなり、目の前がゆっくりとぶれ始める。

ふと、先生がその中で指先を口に含みながらこちらへ振り返ったような、そしてその指を離すとさっきと同じように笑みを滲ませたような、そんな気がした。

地面へ落としてしまった手帳に染みをつくっているものが、血ではなく雨粒だと解ったのはもう視界が塗り潰されてしまう寸前のことだった。

「とても綺麗ですね。その指にぴったりの標本を作りたいくらい」

 何を言ったのかはもう聞こえなかったけれど、先生の笑う音だけは閉じていく耳鳴りの中でかすかな余韻を保って、そのまま私の意識と一緒にどこまでも深く沈み込んでいった。

 ***

 

 標本室に落ちていた薬指を、先生のものだったと思い出したのは、森へ行ってから一月も経たない頃だった。

 その日私は標本室で過去に標本にされたものたちの書類、先生の言っていたサリドマイドに関する記述を読んでいた。

書類は分厚く、様々な畸形と標本にする際の扱い方が書かれていて、そこには多指症についても細かく記されていた。

項目通りにナンバーの振られた棚を開くと、二十本程の試験管が並んであった。試験管の殆どは手か足の親指で、それらはどれも幼すぎたり、あるいは老けていた。

 そんな中に、ひとつだけ細長く奇麗な形をした若い指が隠れるように奥で収まっていた。それへ貼られたラベルは新しく、まだ標本にして十年も経っていないようだった。

ラベルの文字をなぞってから、私は息をのんだ。

そしてもう一度書類の多指症の一番新しいページへ目を通すと、そこにはやはり先生の文字が並んでいた。

それから、あの森で倒れた時と同じように私は眩暈に呑まれ、そこまでの記憶を飛ばした。

 

 ***

 数日後に開かれる美術展の準備も一段落つき、友人は相変わらず鞄からルジェを取り出す。アイスへ溢しながら、友人は私へと視線をむけた。

「ねえ、あの標本室潰しちゃうって本当?」

「え?」

「あそこ、もう一ヶ月以上前から解体の申請入ってたよ、聞いてないの?」

友人の声に、頷くしか出来なかった。

かなしかった。先生が隠しきるには、秘密たちは余りにも先生の身体には大きかった。無理だとわかっていたけれど、なにも手伝わせてもらえないことが、たった一面だけにもふれさせてくれないことが、きっとなによりかなしかった。

 ルジェを貰い、友人の真似をしてアイスに掛けた。それはチョコレートのアイスには全く似合わず、ただ汚く濁ってしまうだけだった。アイスはもう随分溶けはじめていた。

 ***

 

 第四標本室への道を、先生について歩く。

 重い扉を開くと、古い蝶番からは決まって遠くからの泣き声のような音がして、それがいつも苦手だった。

 厚いカーテンや、辞書のページのにおいは、単に黴や湿気を吸った埃と同じなだけで、そうと解ってしまえばそれらはもうただの除去すべきものでしかなかった。

棚を開ける先生の後ろ姿が、サイズの合っていない白衣や靴と相まって、惨めな、痩せこけた花に映った。

「秘密はもうやめてくれませんか」

そう投げれば白衣の背中は少し震えた。

「この標本は残っても、私や先生は、いつかは消えてしまうでしょう?」

喉の奥深く、叶えたかったなにかが蠢いているのが解った。きっとやさしすぎたんだ、今まで、先生に対している時の私は。

「この標本室もなくなってしまうんですね」

 ビーカーを棚から取り出している音の隙間で、先生はそう零した。

「先生の正しい手は、嘘だったんですね」

「……幻滅しましたか?」

「いいえ、完璧なものなんてどこにも無いんですから。それに、ここはもう」

 言いさした事を全て吐ききれない内に、先生は私を封じるように白衣の腕へ覆った。最適な形でそこに収まるよう身動ぎをするたびに、黒いセーターの生地が肌に痛かった。

先生は私から離れると、試験管からF嬢の口紅を取り出した。ああそういえば今日は第三日曜日だった、と真っ赤に汚れていく先生の口許を見詰めながらぼんやりと考えた。先生が私を呼び、どちらとでもなく近寄る。ヒールの音が転がって、それは笑う間もなくカーテンやコットンなどのやわらかなものへ消えていく。

長く含まれていた先生の口からゆっくりと離されると、私の薬指は、かつて先生が無くしたそれを取り戻そうとしたように、根元が真っ赤に染まり濡れていた。

 先生は私へ口紅を手渡すと、視線だけで先を促した。

それを合図のように、もう私たちは口を聞くことはなかった。

赤黒い粘膜の音が交互する。先生の薬指は細く、しなやかで、けれどかなしいくらい、どこまでも偽物だった。そして、この偽物の側で消えたいという、きっと混じり合えない願いをひとつだけ込めて、そっと歯を立てた。

 

 最期に見た第四標本室の重いカーテンは来た日と同じように、うつろなまま西日に抱かれていた。

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