『私』の主人(ホルト視点)
――体が、ふわりと投げ出される。
マーガレット様を庇わないと。俺はそう思い、必死でマーガレット様の体を抱き込んだ。
崖の下は木が密集しているし高さはきっとそれほどでもない。俺がクッションになれば、マーガレット様は確実に助かるだろう。
そんなことを考えているうちに背中に木の枝が当たる感触がし、バキバキとそれを折る音を立てながら俺たちは地面へと落下した。
「――ッ!」
背中に鈍い衝撃が走る。呼吸が詰まって俺は激しく咽た。腕に抱いたマーガレット様を見ると驚いて気絶しているようだが怪我一つしていない。そのことに俺はほっと安堵の息を漏らした。
痛む背中に顔を顰めながら上を見上げると、木立が邪魔で元いた場所はよく見えない。
けれどフランさんがこちらに向かっているだろう。
あの人はマーガレット様にとても過保護だ。驚くほどの早さで来てくれるに違いない。
それを想像して、俺は思わず笑みを漏らした。
……両想いなのに、あの人も不器用だよな。
そんな勝手なことを思うが身元不明の俺なんかと違い、フランさんはれっきとした伯爵家の跡取り息子だ。色々なしがらみがありマーガレット様を攫って逃げます、というわけにはいかないのだろう。
俺はマーガレット様に幸せになって欲しい。フランさんと、結ばれるといいんだけどな。
マーガレット様を地面にそっと寝かせ、俺はその姿を観察した。
彼女は、今日も女神のように美しい。こんなに美しい人なのだ。ヒーニアス王子も盟約の件がなくても、手放したがらないだろう。
マーガレット様は見た目だけでなく、心も綺麗でまさに女神という存在だ。
この山を目にして以来妙にざわついていた俺の心のことも、マーガレット様はいち早く察知して優しい言葉をかけてくれた。
彼女を敬愛している。彼女の幸せのためなら、なんだってできる。
そんなことを思いながら、彼女の白い頬を何度も撫でた。マーガレット様の肌はすべすべとしていて、清らかな感触がする。
その時、かさりと繁みが動く音がした。フランさんが来てくれたのだ。
そう思い喜色満面で振り返った俺が目にしたのは……
――狼の集団だった。
この山に魔物はもういない。しかし当然野生動物は存在する。
恐怖に肌が粟立ち、体が震え始める。けれど俺はマーガレット様を背後に隠し狼と睨み合った。
俺はどうなってもいい。マーガレット様だけは……助けないと。
護身用にと用意していたナイフを俺は腰から抜き放った。記憶を失う前は知らないが、俺に実戦経験なんてものはない。
けれどせめて。マーガレット様が目を覚ますまでは持ちこたえて逃げてもらわないと。
フランさんは騎士の家の出だという。彼と合流できれば彼女は助かるはずだ。
マーガレット様に拾ってもらった命なのだ。彼女のために失うのならば、ちっとも惜しくはない。
「グルル……」
狼が唸り声を上げながら俺たちに近づいてくる。俺はそれに向かい合い、その動向に注意を払った。
狼の一匹が俺に向かって勢いよく走ってくる。その鼻先を薙ぐようにして、俺はナイフを払った。獣は手先や鼻先に強い痛みを感じる、そう聞いていたから。
手応えは、あった。鼻先を裂かれた狼は小さな鳴き声を上げて俺から少し離れる。
けれどそれに安心する暇もなく、残りの狼たちが俺に襲いかかってきた。
「――ッ!」
数で来られるともうダメだ。肩に、腕に。焼け付くような痛みが走った。
狼に牙を立てられ肉が削がれる。大きな体でのしかかられると、激しい獣臭が鼻をついた。
必死に顔を動かしマーガレット様に目を向ける。
すると二匹の狼が……彼女に近づいて行くのが目に入った。
ぞわり、と胸の傷が蠢いた。
意識が冷たい闇に一気に飲まれ、落ちていく。
止めろ。
その人は――
『私』の主人だ。
『私』は手を横に払う。するとその動作だけで上に乗っていた狼たちの体が紙でも引き裂くように軽々と裂け、弾き飛ばされた。
大量に舞う血飛沫は私の体を避けるようにして欠片も汚さない。
長い銀糸の髪が揺れる。『器』が力を使えるように変容したらしい。
彼女の方へ向かっていた狼たちが驚愕したように動きを止め、取り囲んでいる他の狼も怯えを見せ逃げようとする。
――だけど、逃がすものか。
お前らは私のマーガレットを傷つけようとした。
爆ぜろ、と思考する。
それだけで狼たちは内側から爆ぜ、飛び散った。
残りがいないことを魔力を周囲に這わせて確認し、私はマーガレットに歩み寄る。そしてその柔らかな体をそっと抱き上げた。
彼女は、安らかな顔で眠っている。その事実に私は安堵しその滑らかな頬に頬をすり寄せた。
愛おしい、私の主人。無事で本当によかった。
「――彼女に、なにをしている」
ひやり、と。首元に冷たいものが押し当てられた。
この声は……フラン・『ハドルストーン』。まさか彼が、忌まわしいあの家の子孫だったとは。私の探知を掻い潜りここまで接敵できるのは、たしかにあの家の者しかいないだろう。
「私は、彼女を助けただけだよ。『フランさん』」
皮膚が傷つくことには構わず、私は彼を振り返る。鋭い刃に切り裂かれ、生温い液体が首筋をぬるりと伝った。
「お前は、何者だ」
細剣を構えたハドルストーンは怪訝そうな表情で私を睨みつける。
「百五十年ぶりだね、ハドルストーン」
質問には答えず。仇敵との邂逅に胸を躍らせながら、私はうっそりと微笑んでみせた。
両雄の邂逅。
明日も更新予定です。




