アベルは令嬢と出会う2(アベル視点)
「ねぇ、私のお話を聞いてくれない? 私はマーガレット・エインワースよ」
彼女の名乗りを聞いて、僕の頭は真っ白になった。
話しかけても気さくな調子で受け答えをしてくれた彼女が……。まさか筆頭公爵家のご令嬢!? しかもヒーニアス王子の婚約者じゃないか!
社交に興味を持たなすぎた自分を呪いたくなる。他の生徒ならおそらく誰でも知っていたことだろうに。
「えっ……あの筆頭公爵家のご令嬢で王子の婚約者の……!? 気軽に声をかけて申し訳ありませんでしたぁああ!!」
気がつくと僕は、図書館の絨毯の上に這いつくばっていた。
彼女の機嫌を損ねてしまえば退学……どころじゃなく、家の取り潰しまっしぐらだ。そんなことになるわけにはいかない。
脳裏に可愛い弟妹たちと、優しい微笑みを浮かべる両親の姿が思い浮かぶ。
彼らが僕のせいで不幸になったら、僕は死んでも死にきれない。
「だ、大丈夫だから! 私、ほら、怖くないから! 顔をあげて?!」
「そうですよ。お嬢様は適当でぞんざいに扱っても怒りませんから。お顔を上げてください!」
地べたに這いつくばって震えていると、マーガレット様とその侍従……侍従といっても僕よりもきっと身分が高いのだろう……が慌てた様子で声をかけてくれた。
……なんて慈悲深い方々なんだ。
僕は震える身をゆっくりと起こすと、その場を占める面積がなるべく小さくなるように座った。妙な折り畳み方をした足が少しずつ痺れるような感覚があるが、そんなことを気にしている場合ではない。
ちらりと視線を上げるとマーガレット様の美しいお顔が目に入る。その紅玉の瞳と視線が絡むと豪奢な赤の髪を揺らしながら妖艶に微笑まれ、僕はさらに震えてしまった。
こんな見るからに高貴な人を『爵位はさほど僕と変わらないお金持ちの家の子なのかもしれない』なんてどうして勘違いできたのだろう。
「貴方、お名前は? 同じ一年生よね」
日々の生活の中で無駄な大声を出して喉を摩耗させることもないのだろう。そんな滑らかで綺麗な声をかけられ、僕の体はさらに震えてしまう。
「アベル・カーペンターです。木っ端男爵家の長男ですぅ……」
彼女の質問に答える僕の声は、情けないほどに揺れている。
仕方ないよな、こんな高貴な人と話すのは初めてなのだから。早くこの会話を切り上げて寮に戻りたい……頭の中はそんな考えでいっぱいになってしまう。
「フラン、彼を椅子に座らせて」
「……はい」
フランと呼ばれた従僕はマーガレット様の言葉を受けて僕の腕を取って椅子に引っ張り上げようとしとした。
僕なんて床で十分だ。そう思い精一杯抵抗しようとしたけれど、フランさんはその細身の体からは想像ができないくらいに力が強い。僕はあっという間に椅子の上に引き上げられてしまった。
「あああ……僕なんて床で十分なんです。マーガレット様と同じ机につくなんて……! 無礼があって一族郎党処刑されたらと思うと……ううう」
半ば錯乱しながら椅子の上で身を緊張させている僕の方へ、マーガレット様が優美な動作で近づいてくる。
そして……。
僕の手をその小さな両手で優しくそっと握った。
温かで柔らかい曲線を描く白く美しい手に、侍従をつけられるような家柄ではないため、家事を自分でしている荒れた手を取られてしまった僕は激しく混乱した。
どうしていいのかわからず顔を下に向けると、大きく前が開いた制服から覗く彼女の白い肌が目に入る。見てはいけないと顔を再び上げると、眼前にはマーガレット様の慈悲に満ちた微笑みを浮かべる端正な美貌があって。これでは目のやり場がない。
彼女はきっと、心底お優しい方なのだ。だから下賤の者である僕にまでこのように接してくれる。
けれどこの美しさは僕には眩しすぎてむしろ毒だ。つまり少し離れて欲しい。
「ひぇえええ! お許しください!」
思わずそう叫ぶとマーガレット様の煌めく紅玉の瞳が真ん丸になって、困惑したように少し首を傾げられた。
「落ち着いて、落ち着いて、ねっ! 私の悩みを聞いてくれるのでしょう?」
「は……はいぃいい……」
握った手をさらに強く握り込んで辛抱強く子供をなだめるようにマーガレット様が言う。
その手の温かさに、僕の気持ちは少しずつ落ち着いていった。……途端に気恥ずかしくなってしまった。
すべすべしていて、柔らかで、繊細な感触の彼女の手。それは今まで触れたどのようなものよりも、尊いものに感じる。
「あの、手を……」
「ごめんなさいね。妹にこうするといつも落ち着くものだから、つい」
思わず真っ赤になりながらそう言うとマーガレット様は慈愛のこもった微笑みを浮かべながら、ゆっくりと手を離してくれた。
『妹』……というのは平民出身でエインワース公爵家に引き取られたという、レイン・エインワース様のことだろう。
平民出身の者が突然家族に、なんて高位貴族のご令嬢なら拒絶反応が出てもおかしくないのに。マーガレット様のこの口調だと、分け隔てない以上の関係性を築いているように思える。
……この方は、女神なんだろうか。
高位貴族は鼻持ちならない連中ばかりだと思っていた。それは偏見だったのだな、と僕は内心反省してしまう。少なくともこの人は身分も容姿も鼻にかけず、内面も清らかだ。
これが将来王妃になる方の並外れた品格というやつなのだろうか。
マーガレット様は僕が落ち着いたのを見ると微笑みながら自分の長椅子へと戻り、彼女の『悩み』のことを話し始めた。
……その内容は、僕には予想外のものだった。
「学園を卒業するまでの間に、私は自分の力で人がまだ成し得ていないことをやりたいの。けれどどの分野も、先駆者がもういらっしゃるわけじゃない。それで悩んでいて」
「公爵家のご令嬢が……人の成し得ていないことを、ですか」
「……私の夢のために、必要なことなのよ」
そう言って彼女は優美に微笑んだ。
美貌も、地位も、財産も、清らかな心も、美しい婚約者も。この世の人々が羨望するものをすべて持っているマーガレット様。
その上彼女は夢中になって追える『夢』まで持っているのか。
……そんな彼女が僕は羨ましく思えた。
――しかし、これはチャンスなのかもしれない。
カーペンター男爵家の財政は常に逼迫しており、明日『学費が払えなくなった』と言われてもおかしくない。
将来、家族を養う職に就くためには最終的な学歴も重要だ。そのためには石に齧りついてでもこの学園に残らなければならない。
僕の能力をマーガレット様が『買って』くれるなら。金銭的な負担が少しは減るし、マーガレット様の元で功績を立てればきっと仕官への道も近づく。
……この清らかな人を利用しようだなんて、自分が薄汚い人間になってしまったようで内心とても落ち込むけれど。
「……もしかしたら、お力になれるかもしれません」
「本当に!?」
マーガレット様のお顔がぱっと明るく輝く。それを見て僕は激しい罪悪感を覚えた。
彼女の純白の笑顔に自分の醜い部分を自覚させられ、心がじくじくと膿んだように痛くて。僕は思わず顔を歪めた。
「だけど、その……。非常に言いづらいのですけど、条件を……付けてもよいでしょうか?」
口から出た声は酷く震えていた。僕の言葉にフランさんがなにか言いたげな顔をしたけれど、マーガレット様はそれを手で制した。
「お力になります。だから、ぼ……僕を、買ってくれませんか? マーガレット様……」
マーガレット様の美しい瞳が丸くなり、薄桃色の唇がぽかりと開いた。
……なにか紛らわしい言い方になってしまったかもしれない。
なんて恥ずかしいんだ! 僕自身が売り物になんてなるはずがないのに。早く訂正しないと……。
「いや、その、あの、僕自身にじゃなくて! 僕の能力に対価を、ください。……お恥ずかしい話なのですが、カーペンター男爵家はとても貧しくて。このままでは学費をいつまで払えるかも……怪しいんです」
話すうちに語尾はどんどん小さくなっていく。改めて言葉にすると、恥ずかしく浅ましいお願いをしていることがよくわかる。
だけど僕には金銭を得る手段は限られており、なりふりなんて構ってはいられない。
それに『力になれるかも』というのは嘘じゃない。僕は万単位の蔵書を脳内に持ち、日々それは増えていく。いずれはこの図書館のすべての本を記憶し脳内に入れるつもりだ。
発想力に乏しい僕自身がこの知識を使って閃きを与えることは難しいけれど、僕の知識を利用して彼女が発想を得るための手伝いならいくらでもできるだろう。
「どんな能力をお持ちかわからないと、対価の支払いようもないでしょう」
冷たい声音で会話に斬り込んできたのは、フランさんだった。
僕はごくりと唾を飲み込む。ここできちんと……僕ができることを見せないと。
「グーグレ先生だ!」
一通り僕ができることを説明しすると……マーガレット様はキラキラとした目を向け、とても楽しそうに言った。
ぐーぐれ先生とはなんだろう。ご様子を見るにそれは悪い者ではなさそうだけれど……。
「……ぐーぐれ先生……?」
「またお嬢様は変なことを……」
フランさんは糸目をさらに細くして呆れたようにマーガレット様を睨めつけた。この人は本当に、彼女に遠慮がないらしい。
「私がこの世で一番尊敬している先生の名前よ! アベル様、すごい才能をお持ちなのね。記憶している映像を絵にできたりもするのかしら?!」
「えっと……それなりにでしたら」
それなり、なんて言ったが小さな頃から絵は得意だ。
僕が今朝見た鳥の絵を描くとマーガレット様の瞳はさらに輝いた。
「すごい……! 上手ね!」
感嘆の息を吐きながら彼女は僕の方へと詰め寄ってくる。
頬を上気させながら屈託のない笑顔を浮かべる絶世の美貌が視界に広がり、僕の頬は熱くなった。
……家族以外の他人にこの『力』のことを褒められたのは初めてだ。
髪の隙間からマーガレット様の顔を見ると、その表情は心の底から嬉しそうで……僕は困惑してしまった。彼女はお世辞などではなくこの『力』が気に入ってくれたらしい。
人に認められるのは……こんなに嬉しいんだな。
じわり、と心に湧く喜びに僕の顔にも思わず笑みが浮かんでしまう。……認めてくれたのがマーガレット様だから、なおさら嬉しいのかもしれない。
この美しくて高貴で清らかな人の役に……僕でも立てるんだ。
……金銭を要求してしまった自分の浅ましさが今さらながら恥ずかしくなる。
無償でも貴女のお役に立ちたいです、と今からでも言えればいいのに。
だけど僕の環境はそれを許してくれない。
「……マーガレット様の、おお、お役に立てそうですか?」
「もちろんよ! いくらで貴方を買えばいいの?」
「あ、あの……本当に恐縮なのですが……」
僕は怖々と自分の希望額を提示した。学園にいる三年間、週二~三回、一回につき三時間お手伝いをする前提で額を算出してみたのだけれど。
自分自身の『能力』に金額をつけるのなんて初めてでこれが適正な額なのかもわからない。
高いと言われてしまったら、値段を下げて再交渉しよう。そう考えていたら……。
「一桁増やすわ。この才能に金額が見合わなすぎるもの」
「えええええ!? も……もらいすぎですよ、それは……!!」
マーガレット様があっさりとそう言うので、僕は驚愕した。
……そんなに頂いたら、一年間……いや、二年間の学費は賄えてしまうじゃないか。
僕の『能力』にはそこまでの価値はない。だからそんなにもらうわけにはいかない……!
「いいえ、貴方の提示額では少なすぎよ。あとでお金はフランに届けてもらうから」
彼女は優美な笑顔を浮かべてそう言うと首を少し傾げて悪戯っぽく微笑んだ。
その額の学費が浮けば、僕は不安を感じることなく将来の正しい道について考えられる。実家も負担が減り、弟妹たちも僕の学費のせいで切り詰めることがない、じゅうぶんな生活ができるだろう。
それがどれだけ僕の救いになるか。
……この人は、本当に女神なのかもしれない。
絶対にこの恩は返さなくては。僕の力で……この人の『夢』のお手伝いをしよう。
そう決めた僕は少し調子に乗ってしまったらしく。
『過ぎた情報をマーガレット様に与えない』という大きな釘をフランさんに刺されてしまったのだった。
『肉屋へのお使いレベルの行為で立てられる功績』なんてどこに転がってるんだろう。もっと知識を蓄えて情報を精査しないと。
……それにしても公爵家のご令嬢とあんなに気やすくしているフランさんは、本当に何者なんだろうな……。
久しぶりの更新になりまして申し訳ありません!
ブクマ、レビューやご感想本当にありがとうございます!
アベル君は「時給1200円の週3勤務」くらいの感じで額を提示したら、
「時給12000円の週3勤務」にされてしまった感じです。お嬢様はモブに払う金銭に糸目をつけない。




