従者から見た令嬢と塔2(フラン視点)
お嬢様は私の言葉に戸惑ったように、その愛らしい瞳をぱちくりとさせ瞬きを繰り返した。
彼女が戸惑う気持ちはとてもわかる。……私だって、言い出したくせに自分で戸惑っている。
情がこれ以上湧かないよう、私は自制をしなければならない立場なのに。
――私は、愚かにも彼女に触れたくなってしまったのだ。
「せお……おっ……うぐぅ!? げほっ、ぐっ……」
私が一人忸怩たる思いに浸っていると、お嬢様は動揺しすぎたのか突然激しくむせた。
……咳き込む姿はその辺のおっさんみたいだな……とにかく彼女は咳き込み、青くなり、赤くなり……公爵家のご令嬢らしからぬ挙動を見せる。
その姿を見ているうちに私の心は冷静になっていった。
――うん。これは多少か弱い、変態のおっさんだ。
私はおっさん……いや、お嬢様に背を向けると階段にしゃがみ込んだ。
「十秒だけ待つ。その間に乗らないのなら自力で上ってください」
「し……失礼しまぁあす!!」
少しはためらうかと思ったがお嬢様は即座に返事をし、私の背中にしがみついてきた。
――その瞬間、背中に弾力のある柔らかな感触が広がった。
……おっさんだ。これはおっさんだ。私は心の中でそう念じる。
しかし背後に感じる小山の弾力、そして嫋やかな体の感触。首筋をくすぐる柔らかな髪、ふわりと香る花の香り……感覚のすべてが背後にいるのは女性なのだと……お嬢様なのだと伝えてくる。
私は心を平静に保とうと、竜と対峙する時のことを考えた。無心に、そして冷静になるんだ。そうでないと隙を突かれ一瞬で死を迎える。
竜を倒すシミュレーションを頭の中で繰り広げ、私はなんとか穏やかな心を取り戻す。そしてお嬢様の足を抱えて立ち上がろうとスカート越しの足に触れた、その時。
「ひょぇ!? どうして足を触るの!?」
お嬢様がこちらがまるで不埒を働いたかのような悲鳴を上げるので、カッと頬が熱くなった。
こ……この人は……!! 人がせっかく冷静になったところに!
「触らないと持ち上げられないでしょうが! なにを寝ぼけたことを……」
妙なことをお嬢様が言うから、足に触れづらくなってしまうじゃないか。くそっ……!
「いやぁあ……お嫁に行けない……」
「貴女の嫁入り先はもう決まっているでしょうに」
「フランのところ?」
「バカが。ヒーニアス王子のところですよ」
「フランじゃないとやだぁああ」
お嬢様はなにやら背中で駄々をこね始めた。
このままでは埒が明かないと私は意を決しお嬢様の足を抱えて立ち上がる。
立ち上がる時の振動でお嬢様の体が揺れ、私の背に密着した。首筋に柔らかな唇と吐息が触れ……心臓がぎしりと妙な痛みを訴えた。
「……重い……」
「いやぁあ……」
お嬢様の体は無駄な塊がついている割に、羽根のように軽い。しかし腹立ちまぎれに私がそう呟くと、お嬢様は虫の鳴くような声を上げて……背中で意識を失った。
……これで運びやすくなったな。
私は深呼吸を数度する。
……そして背負っているものは柔らかで軽いただの『荷物』だと念じ、階段に足を踏み出した。
お嬢様が気を失い『荷物』と化してからは、私の歩みは至極順調に進んだ。私は騎士である。これくらいの重さのものは持っていないに等しいし、こんな階段なんでもない。
ハドルストーン家の者であればなおさらだ。
……意識さえしなければ、なんてことはない。
鼻歌でも歌い出したい気分で階段を上る。塔の中盤過ぎまで上ったくらいだろうか……背中でお嬢様の動く気配がし。
……なぜか、うなじを唇で数度食まれた。
な……なにをしてるんだこの人は……!!
「……落としますよ、お嬢様」
「寝ぼけてただけなの! わざとじゃないから落とさないで!」
お嬢様は私の背中でぎゃいぎゃいと叫ぶ。うるさいな、この人は……。
彼女はひとしきり騒ぎ終わると周囲をきょろきょろと見渡し、階層のかなり上へと進んでいることに驚いたようだった。
「……フラン、重いのにありがとう」
そして、小さな声で礼を口にした。
私が腹いせで言った一言を、お嬢様は気にしているらしい。
「……いいえ」
女性というのは体重をいたく気にするものだ。悪いことを言ってしまったな、と少し罪悪感を抱きながら黙々と階段を上っていると。
お嬢様が私の肩に回した手に力を込め、その体を密着させた。なにとは言わないが……柔らかなものがぴったりと背中に当たる。本当に、勘弁してくれ。
「苦しいのであまりしがみつかないでくれますか?」
「……はぁい……」
わざと苛立たしげにそう言うとお嬢様は案外あっさりと体を離してくれたので、ほっとする。この人には本当に、色々な自覚を持って欲しい……。
「……フラン。景色が見たいから……ここで下ろしてもらっても?」
窓のついている階上に差し掛かった時。お嬢様の声色が、真剣なものに変わった。
そっと地面にその華奢な体を下ろすと彼女はふらふらと窓へ近づいていく。
「お嬢様、あまり近づくと危ないですから」
声をかけてみるが彼女は、私などまるで存在しないかのように何も答えず。ぼうっと焦点の合わない瞳で景色の方を見ていた。
――お嬢様は、どうしてしまったんだ。
心配になり、もう一度声をかけようとした時。
「いやぁああああ!!」
絹を裂くような悲鳴を上げ、お嬢様はその身を震わせた。
決してふざけているわけではない。まるで今命を奪われたかのような魂を削るその叫びに、ぞくりと背筋に悪寒が走った。
「お嬢様、大丈夫ですか?!」
できるだけ優しく肩に触れ、こちらを向かせる。
私を目にしたお嬢様の瞳は……なぜか『私への』恐怖で揺れていた。
しかしそれは一瞬のことで。彼女は体全体ですがりつくように、私の胸へ飛び込み嗚咽を上げた。
泣きじゃくっているお嬢様の華奢な背中に恐る恐る手を回す。
その体をできるだけ優しく両腕で包むと……陽だまりのような温かさが、胸の中に落ちてきた。
お嬢様は長い赤の睫毛を震わせながら涙を零し、薄桃色の唇から声にならない声を漏らし続ける。
先ほどのお嬢様の様子は、尋常ではなかった。思い返すと昨日犬たちに襲われた時もそうだ。彼女は……なにか心に不安を抱えているように見える。
――貴女は……なにを恐れているのですか。
不安の理由を訊いてみたいけれど、それは彼女の内面に踏み込むということだ。
『従者』ごときがそんな分をわきまえないようなことは、してはならない。
私はお嬢様の背中をそっと撫でながら血が出そうなくらいに唇を噛みしめた。
「ねぇ……フラン」
涙声でお嬢様が私の名前を呼ぶ。
「なんですか、お嬢様」
「……フランは、どんな時でも私を守ってくれる……?」
お嬢様のその小さな囁きに私の心臓は痛みを伴ってどきりと跳ねた。
『あまりに彼女の行状が目に余る場合は……彼女を命の危険から救わずともよい、とのことだ。判断はお前に任せる』
エインワース公爵家に出立する前に、父に言われた言葉が脳裏をよぎる。
――お嬢様を見捨てる気持ちなんて今では欠片もない。
けれど状況によっては私は彼女を見捨てていたかもしれないのだ……その後ろめたさは確実に存在する。
後ろめたさのせいで一瞬返事が遅れてしまう。その間に聡く気づいたお嬢様が、涙に濡れた紅い瞳をこちらへ向けた。
私に見捨てられることを……心の底から恐れている。そんな彼女の表情に胸がチクリと痛む。
お嬢様の涙で塗れた頬に手を添えると、彼女は目を閉じて頬をすり寄せてくる。その様子を見ていると心の底に沈めた気持ちが込み上げ、その唇を塞ぎたくなってしまう。
……私はその衝動を必死で堪えた。
「……守りますから、この命に代えても」
私は国のための『護国騎士』であらねばならない。この命を捧げていいのは、国にだけだ。
それなのに私の唇は……勝手にそんな言葉を紡いでいた。
『将来の王妃』にではなく心からの『お嬢様』への誓い。
「約束、よ。フラン」
お嬢様が可憐な花のような微笑みを浮かべる。
国と、お嬢様と。いつか秤にかけるような日が来たら。
私は……どちらを選ぶのだろうか。
いつかフランがお嬢様と国との間で揺れる日もくるのかもしれませんね。




