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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

メリー苦しみます

作者: 野々村鴉蚣

 俺が少年院に入れられてから、気がつけば8ヶ月が過ぎようとしていた。時の流れというものは残酷だ。小学六年生の俺にとって、たった8ヶ月という短い時間でも、人生観を大きく変えるだけの年月だったことは間違いない。

 ここに入る前は、感情に身を委ねて暴力の限りを尽くす糞ガキだった俺だが、今となっては、コンクリートに囲まれたこの場所こそ最も居心地のいい場所だなんて言ってしまうほど、いい子ちゃんに成り果てている。自分で言うのもなんだが、完全に更生したらしい。

 と言うのも、毎日俺に説教を垂れる母親も、酒を飲んでは俺をぶつ父親も居ないからだ。平和そのもの。無論嫌な看守が居るには居るが、毎日顔を合わせるにしても、親のようにしつこく迫ってきたり、無駄に関わりに来たりはしない。ある程度距離があり、腹は立てど居心地は悪くないのだ。

 また、毎日三食きっちり食べることは出来るし、飽きない程度に労働もある。いや、労働は嫌いなのだが。しかしノルマを達成すれば中庭で遊ぶことも出来るし、定期的に巨大グラウンドでサッカーや野球なんかをすることもある。刑務所に入れられる前は友達と遊ぶなんて事もなかったため、素直に楽しいと感じることが多かった。

 もちろん、ここは監獄であるからして、ガラの悪いヤツらばかりだ。食事中やスポーツ中に何か問題が起これば、その場で即座に喧嘩が勃発する程には荒れている。しかし、俺も人の事は言えない。高ぶる感情に身を任せてしまう性格上、周りのやる事を大目に見る事だって出来る。俺も迷惑をかけるわけだし、お互い様だと思えるのだ。正直に言って、俺はここでの生活を通して心に余裕が出来たように思う。

 もちろん、ここは少年院。だからちゃんと勉強のできる学校も用意されており、馬鹿ばっかが募る監獄だからこそ、俺達は出所後しっかりと生きていくための勉強に明け暮れることも出来た。文句無しの空間だった。お陰で解けない問題が解けるようになる楽しさにすら気づけたのだ。

 ただ唯一退屈なのは、大好きなゲームで遊ぶことが出来ないという事だ。昔は学校にゲーム機を持ってきた奴から奪ったり、友達の家に遊びに行くついでに盗んだりして遊んでいた。パワプロにポケモンにスマブラ、全部携帯ゲーム機を持っていれば楽しめるものばかりだ。

 最近巷ではスマッシュブラザーズの新作が出ただとか、ポケモンのゲームがなんだとか騒がれているようで、齢11の俺はまだまだ遊びたい盛り。その退屈さだけが窮屈に感じていた。

 早くここから出してもらって、勉強にスポーツに友情に、生まれ変わったかのように人生を楽しみたい。そして沢山ゲームがしたい。そんな夢を見ながら、寝息を立てている時だった。


「これから点呼を始めます、Cブロックは全員、外に出てください」


 室内に取り付けられているスピーカーから校内放送のように掠れた音声が零れ、俺を夢の世界から叩き起した。

 この放送を耳にした瞬間、全身の筋肉が一気に活性化し目が開かれる。真冬の寒さなど気にも止めず、俺は自分に被さっている毛布を思いっきり蹴飛ばして起き上がった。そのまま勢いに任せた俺は、ロックが解除されているドアを開いて廊下に立つ。これが日課だ。朝の六時になれば看守が全部屋のオートロックを解除し、点呼を始める。それまでに部屋の前に立ってなきゃお仕置きされることとなるのだ。

 程なくして、他のドアから次々と子供たちが顔を出した。小学生から高校生くらいまで、年齢はバラバラだが、ここに居る全員が何かをやらかして連れてこられている。盗み、暴行、恐喝、薬物、酒タバコにいじめ。何をしてここにやって来たのかは分からないが、ろくな事をしていない事は想像がつく。俺もそうだからだ。

 とは言っても、この場にいる全員、今はただ冬の寒さに身を震わせながら眠気を必死に我慢するただこの子供だ。誰一人として違いは無い。橙色の囚人服を必死に手で擦ったりして、その摩擦熱でなんとか寒さを凌ぐ事しか出来ないただの子供である。


 俺を含めた全員が、寒さに震えながら廊下に整列していると、30号室と31号室のちょうど真正面にある階段から足音が聞こえてきた。

 コツ、コツ、コツ。と、革靴のような硬い靴で階段を登ってくる音だ。それを耳にした全員が、気を引き締め背筋を伸ばした。

 程なくして、青い制服に身を包み、腰から警棒を下げた大柄な男が現れた。看守である。


「はい、点呼を始めます。21番から、番号」


 部屋には番号が振られており、一つの階に20人が住んでいる。そしてここは二階の部屋となっており、21番から40番までが生活している。

 生活していると言っても、部屋の作りはそんなに良くない。人が寝るので精一杯な程度の広さしかないのだ。

 鉄製の扉には内側から閉めれるタイプのかんぬきと、看守が自由に操作できるオートロックが設置されており、外から中が覗けるように覗き窓が貼られている。また、手紙等を投入してもらう新聞受けがあるが、今までハガキの一枚も貰ったことは無い。

 室内にはベッドの他にトイレしかなく、トイレもただ地面に穴をあけ、巨大水路に直接用を足す程度の作りだ。お世辞にも清潔とはいえないし、たまにそこから腐臭がする。おそらく隣の部屋からの糞尿だろう。


 全員同じ条件で暮らしているのだから、文句は言えないが、やはりもう少しマシな生活がしたいと思うことはしばしばあった。


 等と考えている内に、俺の隣にいた男の子が24と叫ぶ。ここでの生活は、与えられた番号を使い行われる。食事をする時も学校で勉強する時も、看守や友達同士での会話も全て番号でだ。その理由は分からないが、本名を嫌っている俺からしたら、別に悪い話では無かった。


「25!」


 自分の番号を叫び隣を見ると、そこに立っていた少年も眠そうな表情で自分の番号を口にする。きっと今の俺も彼と同じくらい酷い表情を浮かべているのだろう。朝は苦手である。叶う事ならさっさと点呼を終わらせて二度寝したいものだ。長い間外に立たされたため、体が凍えて眠気が益々酷くなる。40番まで点呼を終えたら、今日は朝食を取らずに二度寝するとしよう。

 そんな風にこれからのプランを組み立てている時だった。突然看守が大声を出したのだ。


「31番、おい。31番はどうした」


「確認します!」


 全員の目が一気にC-31号室へ集中する。確かに、そこだけ誰も立っていなかった。その部屋の隣に住む少年が、慌てた様子で31の部屋を開け、中へと入る。

 その後すぐに、必死の形相で少年が飛びだしてきた。


「はい! 31です!」


「お前、後で看守室に来い」


 看守の言葉を耳にした誰もが、同情の眼差しを31へ注ぐ。お仕置きが始まろうとしているのだ。不憫に思えて仕方がない。


「よし、点呼を続ける。次」


「32!」


 それから大して時間はかかることなく、点呼が終わって看守は階段のある方へ歩き出した。それを見て、俺達も各々自分の部屋へ戻って行く。中には食堂で朝食を食べようと、談笑しながら階段を降りる者も居る。

 たった一人、31番だけは俯いたまま直接看守室へと向かっていくのが見えた。彼は朝食を食べることも出来ぬままただただお咎めを受けるのだろう。場合によっては持ち物検査もあるかもしれない。不憫だ。

 一方で、俺は見かけていた夢の続きを楽しむために布団に潜り込んだ。朝の授業に遅れないよう、アラームだけはしっかりとかけておく。31番と同じ穴の狢になる気は無い。俺はここでしっかりと生活し、更生したというアピールと同時に中学受験を果たすのだ。それから、家から出来るだけ遠く離れた中学校に通いたい。ここでの生活を通して寮生活について学ぶ事も出来た。中学校は寮のある所にしよう。もうこれ以上親に苦しめられることも無く、一人で生き抜いてやる。


 そんな未来を妄想している内に、気がつけば夢の世界に落ちていた。深く深く、ベッドの内側に沈んでいくような感覚。重かった瞼が一つになり、ゴチャゴチャといろんな文字が渦巻いていた前頭葉が静かになる。

 程なくして、俺の意識は完全に消えた。



「ヤバい! 遅刻する!」


 慌てて目が覚めた時、俺は絶望した。と言うのも、既に太陽が空高く登ってしまった事を象徴するかのような部屋の明るさだったからだ。何故目覚まし時計は鳴らなかったんだとベッドの横に目をやると、何か硬いものに叩かれ潰された目覚まし時計が転がっていた。完全に破壊されている。そのせいで俺は目を覚ますことが出来なかったのだ。いや、それよりももっと大きな絶望があった。看守が、ドアを開けてニヤケ顔で俺を見つめていたのだ。


「おはよう25番。よく眠れたかな?」


 俺は突然の事で頭がいっぱいになり、口をただパクパクと動かす事しか出来ない。完全なパニック状態にあった。しかし、そんな言い訳が通じる相手ではない。


「看守が質問しているんだッ! 2秒以内に考えて口に出せぇッ!」


「は、はい! 目覚めました!」


「そんな事は分かっているんだよ無能が。お前の寝坊は今回で三回目だ。分かっているよな、ちゃんと俺はチェックをつけているんだぞ」


「はい、分かります」


 震える体を必死に押さえつけながら頷く俺の髪を、看守はむんずと捕まえて顔を近づけた。ニヤの着いた歯が悪臭を漂わせる。


「分かるか、そうか分かるのか。なら聞こう。今日を除いていつお前は遅刻した?」


 恐怖と痛みで頭がいっぱいだ。さらに答えられる質問ではない。いつ遅刻したかなんて把握しているはずがないのだ。分からない、そう答えるしかない。だが仮に分からないと言えば『自己管理すらできない愚か者』というレッテルを拳と一緒に貰うこととなるだろう。


「おいぃ、俺の話を聞いていたか25番。俺は聞いたよな。いつ遅刻したかって。それと2秒以内に答えろって。そんな事も出来ないのか、そんな簡単な事も」


「わ、分かりませんッ!」


「ちったァ自分で考えろ能無しがッ!」


 突如髪の毛を掴んでいた手が動き、俺の体は看守の力に振り回される形で壁に叩き付けられた。


「立て」


 痛みで動くことが出来ない。どうやら頭を打ってしまったらしく、軽い脳震盪を起こしていると実感出来た。呼吸が苦しく、目眩がする。


「立てって言ってんだよッ!」


 看守の拳が見事に溝内へ突き刺さり、嗚咽が零れた。空っぽだったはずの胃から、黄色だか緑だがよくわからない色の酸っぱい液体が吐き出される。


「今すぐそこを拭け」


 俺は何度か嗚咽を漏らしながらも、自分のシャツで涙と胃酸を拭き取った。そうしないと、次何されるか分かったものじゃないからだ。


「よし、それじゃあ着いてこい」


 看守の言葉に素直に従い、俺は部屋を出た。


「残念だったなぁ。今日しっかり学校に行っていれば、明日はクリスマス休みだったというのに」


 何故か嬉嬉としてそれを口にする看守の背中に中指を立てる。それしか、俺に抵抗する手段はなかった。


 そのまま俺は看守室に通され、畳に座って待つよう指示された。もうここまで来ればなるようになれだ。お咎めを受けるという名目で、今日の授業は休みになったらしい。という事は、また過剰労働でもさせられるのだろう。素手で全てのフロアのトイレを掃除しろだとか、誰も使っていない独房を磨けだとか、何を言われるか分かったもんじゃないが、その刑罰が明らかに厳しいものであろうことは安易に想像がつく。こうなるくらいなら眠気を我慢して学校へ行くべきだった。しかし、どんなに後悔しても過去を変えることは出来ない。どうして人間はタイムスリップが出来ないのだろう。もし出来るのなら、きっともっといい未来が作れるはずなのに。


「待たせたな25番。先程他の無能に説明していたところでな、少しお前を放置させるハメになった。すまない」


「いえ、こちらこそお手数をお掛けし申し訳ございません」


 看守が謝ればこちらはもっと深く頭を下げる。これは暗黙のルールとなっていた。看守は仕事という立ち位置があるため、ある程度丁寧にこなさなくてはならない。また、こうして子供の気持ちを理解しているフリをすることで、言うことを聞く素直な囚人を育成しているのだ。言わばアメとムチ。

 しかし、ここで看守が頭を下げたと喜んでいれば、次にくるムチが大きくなる。我々囚人達は、看守は何も悪くないのだと全面に押し出す必要があるのだ。


「俺が……いえ、私が不甲斐ないばかりに看守様に幾度となくご迷惑をおかけし、お時間まで取らせてしまいました。誠に申し訳ございません」


 目上の人間をおだて、目下の自分は平伏す。これは敬意だとかルールだとか、そんな次元の話ではない。防衛手段である。プロボクサーは常に拳を使い急所である顔と鳩尾を守っている。それと同じように、俺たち囚人も体制を低くする事で目上の人間から落とされる上下関係という名の暴力に予め防御を張っているのだ。


「うん、まぁいいだろう。反省しているようだしな。頭を上げろ」


 案の定、看守は少し穏やかな口調でそう言った。俺は恐る恐る顔を上げ、看守の表情を伺う。


「顔を上げるのが早いんじゃないか、25番。お前本当は反省していないだろうッ!」


 しまった、やらかした。どこでどんな落とし穴が有るか分かったものじゃない。前回は同じ理由で怒られることを恐れ頭を上げなかった。しかし「いつまで頭を下げているんだ」とたれるハメになったのだ。今回は前回の反省を活かし即座に顔を上げたつもりだったのだが、どうやら失敗だったようだ。というか、正解が全く分からない。


「25番、お前に労働を言い渡す。今から明日の朝にかけて、24時間ずっと刑務所全ての雪掻きを命じる。なに、安心しろ。雪掻きが終わった時点で仕事は終わりにしてやる」


「そんな、たった一人で刑務所内全てですか!?」


「違う、もう一人いるだろ、31番が」


 可笑しそうに微笑む看守だったが、ちっとも笑えなかった。



 それから程なくして、俺はスコップ片手に中庭へと追い出された。一週間ほど前から雪が降り始め、中庭を含めたあらゆる遊び場の出入りが禁止されていた。そのため、ひと一人入る事の無かった中庭には、俺の背丈を遥かに超える雪が積もりに積もっていた。酷ければ看守よりも高い。


「やり方は分かるよな?」


 看守の言葉に、即座に頷く。分からないけれど、これ以上一緒に居たくなかったのだ。


「なら、中で31番が仕事をしている。お前も入ってやれ。終わったらフェンス横に着いてるベルを鳴らせ。終わらない限り鳴らすなよ」


 看守はそう言ってのけると、その場から立ち去った。きっと看守室で映画でも見ながらお菓子を食べるのだろう。誰かがインターホンかベルを鳴らさない限り、あの部屋から出ることは無い。腹が立つ男ではあるが、向こうも俺達とはあまり関わりたくない様子だ。それが皮肉な事に、不必要に係を持とうとする親よりはまだマシに感じるのだ。

 しかし、これだけの量の雪を子供二人で片付けるなんて可能なのだろうか。とは言っても、仕事を投げ出せば何をされるか分かったものじゃない。また、逃げようにも逃げられやしないのだ。フェンスを登って逃げることも出来ない。フェンスには何本か高圧電流が流れているものがあり、また不規則に赤外線センサーが取り付けてある。監視カメラが常に見張っており、居なくなれば遅かれ早かれ気づかれてしまう。

 結局のところ、俺は黙って労働に励む他道は無かった。


「や、やぁ25番。お前もやらかしたか」


 今朝全員に見守られる中看守室へ連れていかれた31号が俺に話しかけてきた。こうして直接話すのは初めてである。彼は中学二年生らしく、麻薬の使用で捕まったとの事だった。毎日友達から金をせびり、それを使って麻薬を購入、使用していたらしい。小学六年生の俺は、心の中で密かに「彼のようにはならないでおこう」と決めた。


「それにしても、二人でやっても終わりが見えないね」


 汗を流しながらそう語りかけてきた31番に、俺は適当に相槌をうつ。作業は子供二人でこなせるレベルを遥かに超えていた。積もりに積もった2mや3m位の雪を、スコップで崩してすくい上げ、雪を捨てるために用意されている水路に投げ入れる。水路の中は雪解け水や糞尿でいっぱいなのだろう。凄まじい音を立ててどこかへ流れているようだった。


「ねぇねぇ25番くん、君は何をやらかしたんだい?」


 凄く馴れ馴れしい31番は、雪の中にスコップを挿したまま俺に質問を投げかけた。大して興味もないだろうし、俺も言うつもりはサラサラなかった。とりあえず「何でだろうね」と誤魔化すつもりで笑い、作業の手を止めずに31番を見た。


「え、サボってないよ?」


 彼はキョトンとした表情で手を動かし、雪山に削りを入れる。それを眺めながら、嘘つきめと心の中で悪態ついた。


 それから程なくして、太陽が少し傾き始め、雪の色も橙色に染った頃、最後の雪を水路に投げ入れ、作業は終了した。

 後から後から延々と振り続ける雪は、ものの5分で地面を白く染めあげ覆い隠してしまう。北国で降雪量の多いこの街ではよく見かける光景だが、やはり作業したのにまだつもろうとする雪に対しては怒りが込上げる。


「んじゃ、押すよ」


 俺が雪を投げ入れたのを確認した31番は、返事も聞かずにベルを鳴らした。互いに疲弊し切っており、手にはたった一日で6個も豆が出来て、その全てが潰れてしまっていた。持ち手が血に染まるほどだ。


 早いところ合格を貰って、お風呂の時間内にお湯に浸かり暖かい布団で眠りたい。そんな願望があからさまに現れていた。

 ベルが鳴り終わるとほぼ同時に、廊下を歩きこちらへ向かってくる看守の姿が見えた。俺も31番も、先程までかいていた汗が完全に止まり、代わりに体温を奪い始めている。確か気化熱というやつだ。早いところ暖かい場所に行きたい、そう強く願っていた。


 しかし、現実とは不条理なものである。


「よし、それじゃあ次行くぞ」


 そう、まだ終わらないのである。看守が24時間働けと命令した理由を今になってやっと理解することが出来た。初めから24時間かけても終わることが無い量の仕事を用意していたのだ。

 絶望感を露わにする僕ら二人を、看守はちっとも悪びれる様子もなく手招きした。


「ほら、さっさと着いてこい」


 もう既に、俺達から抵抗する意思は無くなっていた。看守の言うことにただ従う。それだけの為に動くロボットだ。


「ほら、さっさと歩け」


 看守は何故だか嬉しそうに声を張り上げると、そのまま俺達を別の場所に案内し、先程と同じように鍵を閉めて閉じこめた。


「今度はここだ。水路は少し遠いが頑張ってくれ。水路はここを真っ直ぐ行った先のボール置き場にあるからな。任せたぞ」


 その場所は、運動場であった。最も巨大な運動施設で、この監獄に収容されている全ての子供と、ここで働く大人全員を集めたとしても、まだまだ余裕でスペースが確保出来るほどの広さだ。それをたった二人で綺麗にしろと、そんな無茶な事を言い出すのだ。


 しかし、断ることは出来ない。俺と31番は黙って頷くと、体の痛みを堪えながらスコップを手にした。あと一時間もすれば、陽は山の向こう側に消えることだろう。そうなれば気温はますます低下し、体温がどんどん奪われてゆくはずだ。凍傷は覚悟の上、酷ければ凍死するだろう。


 こんな事になるなら、もっといい子にしておくべきだった。そう反省こそすれど、もう、後悔しても遅い状況だった。


「とりあえず25番くん。頑張ろっか」


 ただのうるさい中学二年生とばかり思っていたが、この瞬間31番が僕に向けて発した言葉は、何故だか俺を奮い立たせるのに充分な言葉であった。

 しかし、流石はこの広さ。俺達がすぐに埋まってしまうだけの高さが、延々とグラウンド全体に広がっているのだろう。しかし目と鼻の先にある雪の壁しか見ることが出来なかった。


「とりあえずさ、水路までの道を確保しようよ」


 そう言ったのは31番だった。なぜだか頼りになる。やはり中学生になるということは、少し大人に成長するという事なのだろうか。小学六年生の俺は今、彼の事がとても大きな存在に見えた。


「でも、これだけ雪があるよ、どうやって道を作るの?」


 俺の問いかけに、31番は少し悩んでからポンと手を打つ。


「25番は軽いからあまり雪に沈まないよね。それを利用しよう」


「どういうこと?」


「お前が少しずつ雪を削って、俺がそれを遠くに放り投げる。とりあえずこれを繰り返せば雪の道は作れるよね」


 そんな体力が残っているかが心配だが、俺は可能性にかけて頷いた。


「そしたらさ、斜面を作って雪の上まで登ってみようかなと思うんだ」


「え? 新雪だから多分すぐ沈むよ?」


「だから、押し固めながら作るんだよ。こうやって!」


 そう言うと彼は、目の前に積もった雪を自分の背丈と同じくらいになるまで削ってから、突然その上にダイブした。


「ほら、下の方の雪は若干固いから、こうして乗るだけで道になる!」


 彼の言うとおり、彼がダイブした雪だけ氷のように固くなっている。しかし、日が落ちかかっている中体全身を雪に密着させるとなれば、かなりの体力を消耗する事となるだろう。そんなことを繰り返せば、いつ倒れるか分かったものじゃない。


「本当にやるの?」


 俺の不安と心配に満たされた声を、31番は掻き消すようにして笑った。


「あはは、もちろんやるよ。決まってるじゃん」


 それから俺達は、休むことなく作業を繰り返した。俺の頭の上の位置から雪を崩し、その雪を31番が遠くへ投げる。ある程度雪の数が減ったら、二人一緒にダイブして押し固める。その後俺が雪の上に立ち、斜面を作るように雪山を崩し、押し固める。以後それの繰り返し。


 もう何時間経過したのか分からない頃、月明かりに照らされた俺たち二人は、ようやく水路に到達することが出来た。ここまでの道のり、本当に長く感じた。あまりの寒さに耳が切れ、触ると顎にかけて鋭い痛みが走る。

 まつ毛は凍り、目を開けていられないほど痛い。鼻で呼吸はできず、手首から先は既に感覚が無い。足はまるで何時間も正座を続けた後みたいに、麻痺する感覚が続いている。


「やるじゃん、俺たち! な、25番」


 俺と同じくらい、いや、雪を放り投げる仕事もこなしていたから、きっと俺以上に体力を消耗しているであろう31番が、嬉しそうに笑う。どうしてこんなにもポジティブな人間が麻薬なんかに手を出したのだろう。そんな事しなければ、きっともっと人生上手くいったはずなのに。

 まぁ、そんな野暮な事は聞かない。誰しも黙っておきたい過去はあるものだ。そんな事、小学六年生の俺でも理解出来る。俺にだって、誰にも言いたくない過去はある。


「それじゃあ、これから雪掻き始めようか」


 俺はそう31番に語りかけると、スコップを手にした。ふらつく身体を必死に抑えながら、俺も無理して彼のように微笑んでみせる。31番ばかりに格好付けさせられない。俺だって男らしいところを見せてやる、そんな気分だった。

 しかし、31番の返事は思っていたものと全く違うものだった。


「いいや、もう仕事はやらねぇよ」


「え?」


 31番は手にしていたスコップを力なく投げ捨てると、その場に初めて蹲った。


「だってもう限界だもん。これ以上力入らねぇ。逆に25番、お前は雪掻けるのか? そんな体力残っているのか?」


 その言葉に、俺は素直に首を振る。縦ではない。横に振るのだ。不可能だという合図。


「そうだろ。俺もお前も疲れた。これ以上は無理。そういう事で、終わりにしようぜ」


「でも、ここで休んでいたら監視カメラに映っちゃわない?」


 俺が恐る恐る顔を上げると、すぐさま監視カメラと目が合った。そう、看守がカメラの映像を見てしまえば、すぐさまさぼっている事がバレてしまうのだ。しかし、31番の返事は思っているものと違った。


「ここから逃げるんだよ」


「……え?」


 聞き間違いだろうか、そんな風に聞き返す俺の肩に、彼は手をかけて耳打ちする。


「だから、ここから逃げるんだよ。そして風呂に入ってベッドで寝るのさ」


「でもそんな事したらますます怒られるんじゃ」


「違う違う、看守にもし『どうやって逃げたんだ』とか聞かれたら、こう言ってやるんだよ。『他のフロアの看守が部屋に入れてくれた』ってな!」


 自信満々に話す彼とは相対し、俺は理解不能とばかりに首を捻る。その反応を見て31番は「まじかよ」と笑いながら続けた。


「いいか、明らかにこれは子供二人でやる仕事の量じゃない」


「うん、それは確かに。そう思う」


「さらにだ。夜の点呼も恐らく終わって、就寝時間が始まったであろうこの時間にだ、真冬のこの寒さの中、子供を外に出しっぱなし、どう思う?」


「どうって……」


 どうと言われても、看守ならやりかねないとしか出てこない。そんな俺に、31番は答えを示した。


「いくら俺らが犯罪者でも、死刑囚じゃねぇんだ。こんな場所にいたら死んじまう。そんな事をさせているとバレれば、あの看守だってお偉いさんからお咎めがあるはずだ」


 確かにそうだ。明らかな独裁制、これで仮に俺達が死ぬこととなれば、看守の責任になる。


「でも、ここで俺らが死んだとしても、看守は証拠を隠滅して『二人が脱獄しようとして死んだ』って言うことも出来る」


「確かに」


「だから死んでも看守にダメージは無い。むしろ看守を追い詰められるのは看守以外の看守、他のフロアの看守に助けて貰ったと言えば、看守は慌てるはずだ。自分が今までやってきた悪事が明るみに出るかもしれないってな」


 ここまで来て、やっと俺は31番の狙いが分かった。


「存在しない人間を作って、それで看守を揺するのか!」


「正解!」


 だが、それをやるには一つ大きな問題がある。


「アイディアについては分かったよ、でも、そもそも俺達はどうやってここからお風呂場まで行くのさ」


 先程も考えたように、フェンスは超えられないような仕掛けがある。雪を積み上げて屋根に登り男子寮まで屋根伝いで行くことは出来るかもしれないが、もう雪を積み上げるだけの体力は無い。ブザーを鳴らせば看守が来るが、それでは意味が無いし、何よりグダグダとやっていればカメラ越しにバレてしまうだろう。そんな俺の質問に、31番は嬉しそうに親指を立てた。


「あるんだよ、秘密の抜け道が」


 全く想像もしていなかった言葉に、思わず目を丸くする俺。それを見て彼はますます嬉しそうにする。本当に根が明るくて陽気な人だ。どうして今まで話しかけようと思わなかったのか、自分の事が不思議でならない。


「それで、秘密の抜け道って?」


「実は俺、脱獄しようと思っててな、それで夜な夜な部屋を抜け出したりしてたわけよ」


 だから朝起きれなかったり、他の人と会話をしようとしなかったのか。誰かに脱獄計画がバレれば、そこから看守の耳に入りお釈迦になるだけでなく、何らかの罰を受けるハメになるから。明るい性格に加え策士の一面、彼が味方についてくれるだけで充分の戦力だ。


「分かった。理解したよ。俺はこの事を絶対に口外しないし、何より俺達は他のフロアの看守に助けられるんだ。脱獄ルートなんか知りっこない。それで、その場所は?」


 目を輝かせて31番を見つめる俺に、彼はキョトンとしたまま俺を見つめ返した。


「お前本当にわからねぇの?」


「え?」


「なんのためにここまで来たと思っているんだよ」


 その言葉を聞いて初めて、俺は合点がいった。


「まさか」


 俺の目線を追いながら、31番は親指を立てる。


「そのまさか」


「嘘でしょっ!?」


 彼は俺に親指を立てながら一歩後ろに下がって笑った。


「ガチだよ。ほら、着いてこい!」


 そのまま水路に充ちた濁流へ足を伸ばし、飛び込んだのだ。


「嘘だろ、こんなに寒いのに……ってかこれうんこ流れるやつじゃないのかよ!」


 俺も即座に飛び込む。その途中、ふと後ろに目をやると、何だか黒くて小太りの人影が歩いているのが見えた。

 この時間に、何故だろう。というか誰だろう。訪問者とも思えないし、どこのフロアの看守も体を鍛えていて引き締まっているから違うだろう。誰なのか気になるが、しっかりと確認するよりも早く、俺の体は濁流に飲まれた。



「しっかりしろ25番!」


 俺が慌てて周囲を確認した時、俺はまだ濁流の中に居た。飛び込んでから即座に全身を襲ったのは強烈な寒さだった。凍てつく水に全身が強ばり、荒れ狂う波のせいで完全に視界がシャットアウトされていた。しかし、左手を31番に捕まれ、流されないように支えてもらった状態だった。


「31番!」


 よく見れば彼は水路の壁に付けられているフックに手足を引っ掛けた体勢でそこにいた。


「いいからお前も何かに掴まれ! 流されるぞ!」


 その言葉を耳に、慌てて俺も手すりに飛びつく。よく見れば、水路の両壁には一定の感覚で杭が打たれていた。


「ここの水路、多分止められないから修理や掃除用のしっかりとした足場が作られているんだろうな」


 俺の疑問を聞くより前に31番は解説をしてくれた。それに対しなるほどと口にする俺を、彼は引きあげながら続ける。


「あとは簡単だ。俺ちゃんと道を覚えてるからさ。男子更衣室の床下に繋がる蓋が空いてるんだよ。そこ行くぞ」


 頼もしい先輩に付き従う形で、俺達は移動を開始した。すぐ足元では不規則な水の流れる音がして、何度か飛び跳ねた水が足首を冷やした。

 体はびしょ濡れで芯まで冷え、髪の毛は少しずつ凍おり初めている。もう両手全体に広がっていた痛みも、いつの間にやら完全に麻痺して何も感じなくなっていた。


「もう少しだから、頑張れ」


 きっと31番も同じ状況なのだろう。言葉から完全に余裕は消え去り、声の震えがはっきりと聞き取れた。


「頑張ろう、31番!」


 僕も負けじとエールを飛ばす。彼がもう少しというのならもう少しなのだろう。体力を振り絞りながら横に移動し続けていると、突然31番がピタリと止まり天井に手を当てた。


「開けるぞ」


 どうやら目的地に到着したらしい。ゆっくりと頷くと、彼はなんの躊躇いもなく天井に着いた蓋を押し開けた。子供一人がギリギリ通れるくらいの小さい穴だ。そこから必死に這い出した後、彼は俺に手を差し伸べる。


「誰も居ないから安心して来い」


 俺は全身に力を込め直し、必死に体を上へお仕上げた。そんな俺の右腕を、上にいる31番が引っ張ってくれる。そのお陰もあって、何とか更衣室の床に這い上がる事が出来た。


「もう、しんどい」


 俺の呼吸と同じくらいの速さで、31番が口を開く。


「風呂、入るぞ」


 もう返事をする体力もなかった。俺達は壁にかかっているお湯の電力スイッチを付け、シャワーを捻る。最初に出てきた水の方が今の俺たちより暖かいという皮肉からか、最初からお湯がでたものと勘違いして「あったけー」だとか「生き返るー」なんて口にしていた。だんだん熱くなるお湯に、自分の体がどれほど冷え込んでいたのか思い知らされてから、俺たち二人は黙ってお風呂を楽しんだ。もう純粋に疲れの方が勝っていたのだ。


 それから、忘れ物置き場に置かれている誰かの乾いた囚人服を勝手に拝借してからとある事に気がつく。


「ねぇ31番、そもそもどうやって部屋に入るの? オートロックかかってるんじゃ」


「あー、そうだな。看守室に行ってロック解除のボタンを押さなきゃ」


「やっぱり……?」


 苦笑いを浮かべる俺に、31番は胸を張る。


「なら俺一人で行ってくるぜ」


「いやいやいや、見張り役も必要でしょ、俺も行くよ」


 これ以上彼に迷惑をかけるのは申し訳ない。なにか力になりたい。それに何より、一人で取り残されるのは辛い。


「そうか? なら、二人で行くか」


 どこか嬉しそうに頷いた彼の後を追うようにして、俺たち二人は大浴場から抜け出し、看守室に向けて抜き足差し足忍び足で向かった。


「まずは看守がどこに居るのか知る必要があるからな。ブザーをならそうと思う」


 31番はそう言うと、看守室入口に立った。鉄製のドアの横に、インターホンが設置されている。これを押せば看守が出てくるはずだ。

 ちょうどその向かい側には掃除道具用のロッカーが設置されている。俺はそのうちの一つに隠れ、31もインターホンを押すと同時にロッカーの中に逃げ込む作戦だ。


「んじゃ、押すぞ」


 31の言葉にgoの合図を出そうとした瞬間、看守室とは別の方向から何か物音を耳にした。


「ヤバい、31番、看守は廊下に出てる!今すぐ隠れて!」


「マジで!? こっちに来る?」


「たぶん、音が近づいてる!」


 俺の慌てた様子から、本当のことであると察してくれたのだろう。31番は即座に俺が隠れているロッカーの隣に入り込んだ。さて、あとは看守が過ぎ去るか部屋の中に入るのを待つだけだ。


 ──キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ…………。


 ゴム長靴でも履いているのだろうか、なにかゴムのようなものが擦れる時に出る独特の音が定期的に鳴り響き、着実に近づいてきている。


 ──キュッ…………キュッ…………キュッ…………キュッ……キュッ……キュッ……。


 足音はゆっくりと、本当にゆっくりとロッカーの前に差し掛かった。そこでピタリと音が止む。

 頼む、そのまま通り去ってくれ。もしそれが叶わないにしても、看守室に入るとかしてくれ。そう願わずにはいられない。

 突然こちらを向いてロッカーを開けるんじゃないか、そう思うと鼓動が早まるのを感じた。体が危険を察知し、直ぐに逃げられるようにと全身に血液を回す。冷や汗が滲み出て、呼吸も荒くなる。どうしよう、このまま心音や呼吸音が向こう側に聞こえてしまいそうで怖い。


 誤って声を漏らしてしまわぬように、自分の口元を両手で必死に抑えて目を閉じた。潰れた血豆の匂いが呼吸をする度胸いっぱいに広がる。血の匂いで、汗の匂いで、俺の居場所がバレてしまわないか心配でならない。


 ──ガチャ。


 突然、俺の隣のロッカーが開けられた。そこに何か置く音がする。箒やちりとりではない。なにかもっと、柔らかくてヌメヌメしているような音だ。ネチャネチャとした音がロッカー内で響き渡って耳元まで伝わってくる。


「メリー……クリスマス」


 掠れるような声で、そいつはそう言った。看守の声ではなかった。もっとしゃがれた、年老いた声だった。


 ──キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……。


 それから程なくして、再びそいつは歩き出した。どこへ向かったのかは分からないが、暫く声を押し殺して待っていると、一切物音がしなくなった。どうやらどこかへ消えたらしい。


 恐る恐るロッカーを開けてみると、31番も同じことを考えたのか少しだけ顔を出していた。


「……行ったよな」


 31番の質問に、曖昧ながらも首を縦に振る。少なくとも足音は遠ざかっていった。


「なんだったんだろうね、メリークリスマスとか言ってたけど」


 俺の疑問に対し、31番は眉をひそめながらロッカーから出てきた。


「さぁね、少なくとも聞いた事ある声では無かったな。それこそ本当にほかのフロアの看守とかじゃねぇかな」


「そうかな、いや、そうだよね」


 そもそも監獄に部外者が侵入できるはずがないのだから、関係者に決まっているのだが。


「それよりあいつは何をこっちに入れたんだ、確かこのロッカーは看守の掃除用具入れだよな。何がメリークリスマスなんだよ」


 少し苛立った様子で、31番はそのロッカーを開いた。それからすぐに、彼の表情が変化する。

 最初は訝しげにものを見極めようと、目を細くした。それから何かに気づいたのか、大きく目を見開き、今は完全に青ざめた表情でそれを見つめていた。


「なになに、何が入ってたんだよ」


 そんな反応をされたら見たくなっても仕方はないと思う。是非とも見せて欲しいと、覗き込もうとした俺に、31番は慌てて怒鳴った。


「見るなッ!」


 これまでで一番大きな叫び声だった。彼は叫ぶと同時にロッカーを強く占め、俺の両肩に手を乗せしっかりと目を見つめて口を開いた。


「何があっても、絶対に見るな」


 その必至すぎる形相に、俺は思わず首を縦に振る。とてもじゃないが、好奇心に身を任せロッカーを開けることも、何が入っていたのか問うこともできる雰囲気ではなかった。


「それで、何を見るなって?」


 俺と31番は、その言葉でゆっくりと声のした方を向く。31番の大声とロッカーを強く閉めた音が決め手だったのだろう。そこには看守が腕組をしたまま立っていた。


「おいお前ら、仕事はどうした。それよりどうやってここに入った」


「あっ、えっと」


 あまりに急すぎる出来事で、折角用意した言い訳のフレーズが出てこない。なんと言えば看守を揺することが出来たのか、ダメだ思い出すことが出来ない。助け船をくれと言いたげに隣に目をやるが、31番は未だに表情を青くしたまま固まってしまっていた。


「話は中で聞く。とりあえず入れ」


 看守はそう口すると、有無を言わさず俺たち二人の胸ぐらを掴み、部屋の中へ投げ入れてからドアを閉めた。


「もう一回聞こうか。お前らどうやってあそこから抜け出した。場合によっては痛いじゃ済まないと思えよ」


 彼はそう言いながら、壁に立てかけてあった金属バットを手に取って素振りを始めた。


「ほら、早く言えよッ!」


 余程頭にきているのだろう、俺は慌てて口を開いた。


「ほ、ほかのフロアの看守に入れさせてもらいました!」


 ハッキリと、さもそれが事実であるかのように毅然とした態度で告げる俺に対し、今度は看守が青ざめる番だった。


「う、嘘だろ、いや、そんなハズは」


 同時に看守室の電話がけたたましい音を立てて鳴り響いた。


「はい、はいもしもし!」


 バットを投げ捨てて慌てて受話器に耳を当てる彼の表情は、明らかに緊張しているものだった。


「あ、はい。もちろんです。明日のクリスマスパーティーのために、はい、ちゃんと雪かきはしておきました。はい、間違いございません。いやぁ、かなりキツい労働でしたよ」


 そんな事を、頭を何度も下げながら話し続けている。そのお陰で大体のことは理解出来た。どうやら俺達は看守の仕事を丸投げされていたらしい。


「はい、ありがとうございます、失礼します」


 程なくして通話が終了し、改めて落ち着いた様子で受話器を置いた彼はこちらを睨みつけた。


「嘘だろ」


「へ?」


「他のフロアの看守に出してもらったというのは嘘だろ。今の通話で確信したぞ。あ、そうだ逆に聞いてみようかな。誰に助けて貰ったんだ」


 看守が優位になるのはあっという間の出来事だった。安心しきった表情でそう疑問を投げかける大人を相手に、どうすべきなのか俺には分からなかった。謝ることしか知らなかったからだ。言葉の上で戦う技術を俺は持たない。


 ──ピンポーン。


 突如、部屋いっぱいにインターホンの音が響き渡った。


「あ? 誰だよこんな時間に。子供たちじゃあるまいし。どこのフロアの奴だ、全く」


 面倒くさそうに立ち上がる看守を見つめながら、明らかに31番が恐怖するのが分かった。


「25番、隠れろ」


 31番はそれしか言わなかった。それだけを口にすると、慌てて看守室のごった返したガラクタの中に飛び込んだ。

 確かに看守は今ドアの方を向いていて、隠れられはするが。何をそんなに怯えているのか、好奇心が沸き立つ。しかしそれを堪えて31番に従い隠れた。

 それと同時に、ドアの開く音がする。


「は、なんだお前?」


 拍子抜けた看守の言葉に被せるように、謎の訪問者は言葉を放つ。


「まだ起きてる悪い子見つけた。フォッフォッフォ。メリークリスマス!」


 次の瞬間、パチンと何かが弾け飛ぶような音がした。

 いや、俺の位置からハッキリと見えた。ドアの方に向かって行ったはずの看守の頭が、こちらまで飛んできたのだ。

 目をグルグルと動かしながら転がってきた頭は、最初ゴロゴロと転がる。その表情から、看守は何が起こったのか理解出来ていない様子だった。それから直ぐに、彼の頭は段々と形を変え、レゴブロックのように粉々になってしまった。それから見えない何かの力がレゴブロックを掻き集め、容器に入れ、梱包され、プレゼントのような姿に変わる。


 ──クチャクチャ、ニチャチャニチャチャ。


 玄関の方から何か柔らかくてヌメヌメしたものを掻き集めるような音がする。しかし、それを覗く勇気はなかった。

 先程俺の前まで転がってきていたプレゼントボックスも、ズズズズズと畳に擦れながらドアの方へ向かって行く。何が起きてるか分からず、ただ唖然としている中、そいつは看守室のドアを閉めてどこかへ歩いて行った。


「………………」


「………………」


 二人とも、一言も口を開くことは出来なかった。それからしばらく時間が経過して、ゆっくりと31番が口を開いた。


「俺、見たんだ。ロッカーの中に……」


 彼はゴクリと生唾を飲み干すと、乾燥した唇を舐めてからゆっくりと口を開く。


「内臓が、心臓とか、グチュグチュした内臓が入っていたんだ」


 それから彼はまるで豹変したかのように俺の肩を揺さぶり、必死に押し殺した声で涙ながらに語りかけてくる。


「あいつはヤバい、マジでヤバいって。殺される、殺されちまう。早く逃げよう、早く逃げよう。自分の部屋に、部屋に逃げようッ!」


 彼は俺の返事も聞かずに看守の部屋を探し回り、オートロック解除のボタンを見つけて即座に押した。


「行こう、もう今すぐ行こう!」


 彼の言葉に、俺は懸命に頷くと二人揃って看守室から飛び出した。

 周囲を見渡すも、気配はしない。行くなら今がチャンスだろう。


「行くぞッ!」


 31番の言葉を合図に、俺たち二人はほとんど無い体力を振り絞って男子寮の方へ駆け出した。ガラス張りのドアを開いて渡り廊下を進み、階段を上がれば自分の部屋があるはずだ。

 そのまま突き進み、渡り廊下の先に階段が見えた瞬間だった。


 ──キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……。


 階段の方から、足音が聞こえた。


 もう二人とも何も話すことは出来なかった。ただゆっくりと顔を見合わせ、来た道を戻るしかない。必死に走りながら来た道を戻り、それでもなお近づく足音に震えた。


「ロッカーだ!」


 結局看守室前のロッカーに隠れることにした俺達は、慌ててロッカーを開ける。


「しまっ……」


 俺はあまりにも慌てすぎたために、開けるなと言われていたロッカーを開けてしまった。しかし、そこには31番が言うような内臓らしきものは置かれていない。


 だが、なんだかそこに隠れるのは気味が悪かったので、そっと閉じると最初に隠れた方と同じロッカーに隠れた。

 見れば、もう31番は隠れ終えた後のようだ。しかし、余程恐怖しているのだろう、彼の荒ぶる呼吸音がハッキリと俺にも聞こえていた。


 遠くから足音が近づいてくる気がする、どこから現れるかは分からないが、着実に近づいている気がする。得体の知れない何かが看守を殺した。確かに看守のことは嫌いだったが、喜べない。俺達も狙われている、そう確信できるからだ。そう思えば、俺の呼吸もまた激しくなる。静かにしなくては、俺も31番も静かにしなくてはならない。さもなくばこの荒ぶる呼吸があいつに聞かれ、ロッカーを開けられてしまうかもしれない。


 そんな目に見えない恐怖に震えていると、突然ロッカーの向かい側に位置する看守室のドアがガチャリと音を立てて開いた。

 それから程なくして、「フォッフォッフォ」と不気味な笑い声と共に足音がする。


 ──キュッ…………キュッ…………キュッ……。


 目の前に居る!


 ハッキリと理解出来た。今、そいつは目の前に居る。しかもロッカーの前を行ったり来たりしている。呼吸音か、それとも汗の匂いか、やつは何かを感じ取ってロッカーの前をウロウロしている。俺と31番を探しているのだ。出来るだけ、出来るだけ静かに、息を殺し目を瞑って願った。頼む、どこかへ行ってくれ。


 なぜ渡り廊下の方から突然看守室へとワープできたのかは分からない。しかし、そんな芸当が出来るのだとすれば、見つからないように隠れ続けるのはとても難しいだろ。そいつはわざとらしく俺と31番の居るロッカーの前を行ったり来たりし続けた。


 ──キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……。


 頭が痛くなるほど延々と繰り返される足音。

 それが突然、俺の前でピタリと止まった。


 何故だ、なぜ動かない。怖くて俺は身動きが取れない。必死に息を殺して、バクバクと音を立てる心臓に黙れ黙れと言い続ける。

 またしても冷や汗がダラダラと溢れ、目の前が緊張のせいかグルグルと回り始めた。


 頼む、どこか行ってくれ。


 そう願った瞬間だった。


 ──バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ! バタンッ!


 隣のロッカーを突然開け閉めしだしたのだ。

 しかもその間隔はどんどん狭くなっていく。


 ──バタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタンバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタ。


 繰り返される音に思わず叫び出したくなるのを必死に堪えた。


 それから暫くして、音は途絶えた。


「寝ているいい子か、メリークリスマス」


 そいつはそう口にすると、女子寮のある方へ歩き出した。足音がだんだん小さくなり、最後は完全に消えた。






「大丈夫か……? 25番」


 最初に静寂を破ったのは31番だった。俺は恐怖のあまり言葉を失い、ロッカーから出ることでしか返事ができなかった。


「よかった、無事みたいだな。んじゃ、あいつが女子寮に行っている間に俺達も行くぞ」


 彼の言葉に、俺は頷くと男子寮に向けて歩き出した。走ってはならない。足音を立てればあいつに気づかれてしまうかもしれないからだ。それに、仮に近づいてきているとすれば、そいつの長靴が出す足音を聞く必要がある。だから、大事な事は決して音を立てず、慎重に渡り廊下を歩ききることであった。


「行けるぞ、行けるぞ25番」


 俺の前を行く31番が嬉しそうに声を上げる。無論小声でだ。俺も必死にヘドバンで答えた。もうすぐで部屋に帰れる。そう思うと嬉しさで胸いっぱいである。


 ──キュッ……。


 そう感じたもつかの間、突如背後から、しかも俺のすぐ後ろから長靴の音がした。


「走れッ!」


 31番が叫ぶより早く俺は駆け出していた。振り返ることは無い。見てはいけない、そんな気がしたからだ。

 必死に、それこそ無我夢中で渡り廊下を駆け抜け、階段を上る。一体どこから現れたのか全く検討もつかないが、今はそんな事関係ない。逃げるだけ、ただ逃げるだけだ。


 背後から一定の感覚で長靴が擦れる音がする。追ってきている。確実に追いかけてきている。だが振り返る勇気はない。


 階段を登り終え、すぐ目の前にある31号室を、31番が勢いよく開けてこちらを振り向いた。


「まず俺の部屋に隠れろ!」


 だが、俺はそれに対し返事ができなかった。



 というのも、彼が開いたドアの向こう側に、居たからだ。


 サンタクロースが。



 いや、サンタクロースのような何かが。


 真っ赤な、それこそ血のように真っ赤で滑りをもつ衣装に身を包んだ、小太りの何者かが。彼の服が、月明かりに照らされて赤黒く光沢を持つ。

 顔は暗闇に包まれており全くわからない。ただ、真っ暗闇の中から真っ白の眼球が覗き、ハッキリと31を見下ろしていた。


 恐怖に固まった俺の視線から、異変を察した31番は恐る恐る振り返る。しかし、彼の目がそいつを捉えるより先に、彼はそいつに触れられてしまった。


 まるでゴムが弾け飛ぶような強い破裂音と共に、彼の体が四方に散る。

 唯一彼が立っていた場所に残されたのは、未だに動き続けている内臓だけであった。彼の心臓は何が起きたのか理解が出来ないといった様子で痙攣を繰り返している。


「フォッフォッフォ。メリークリスマス」


 そいつはそう口にし笑ってみせた。まるで見せしめのように。また、散らばった31番の体がみるみるうちにゲームや野球のボールなどおもちゃに変化し、梱包されていく。そして看守室で見た光景と同じように、独りでにズルズルと動きそいつの元へ集まって行った。


 もう見ていられなかった。


 俺は全速力でその光景を振り切り、25号室のドアを開ける。


 まずは中の安全確認。誰も居ない。それを確認してからドアを閉めてかんぬきをかける。もう絶対に誰も入ってこれないようにし、毛布を被って布団にくるまった。


 恐怖のせいか、それとも冬のせいか、震えが止まらない。


 あの化け物はなんなんだ、そんなことを考えていると、また嫌な音がした。


 ──キュッ……キュッ……キュッ……キュッ……。


 俺の部屋の前で足音が止まり、それから……。



 ──ズルズルズルズル……。べちゃっ。


 新聞受けから何かが入れられ、そして部屋の中に落ちた。


 好奇心に勝つことは出来ない。俺は完全に恐怖しているにもかかわらず、ゆっくりとドアの方に目をやった。

 暗くてハッキリとは分からないが、それが内蔵の塊であることは理解出来た。

 内蔵の塊は、ブクブクと膨らみ、蠢き、絡まり合いながらどんどん大きくなり、まるでサンタクロースのような姿へ変化していく。


 ということは、先程のあいつの赤い衣装は内臓だったということなのだろうか。

 内臓がアイツらになるということか。つまり、二度目のロッカー前に現れたあいつは、瞬間移動やワープではなく元々看守だった存在なのだ。


 そして今目の前に居るのは……。


「31番、ごめんッ」


 俺は必死に目を閉じた。できる限り呼吸を一定にさせ、寝ているふりをした。


「フォッフォッフォ、メリークリスマス。夜遅くまで起きてる悪い子はどこだァ?」


 絶対に反応してなるものか。


 そう決めて瞼すら動かさず寝たふりを続けた。





 残されたのは静寂だ。永遠かと思うくらい長く続く静寂。何も聞こえない。もしかしたら変な夢を見たのかもしれない。しかし、心臓は早鐘の如く打ち付け、眠ることなどできなかった。


 もうかなり時間が経過した。そろそろ朝日が昇る頃だろう。やっと平和が訪れたか。


 そう思い、俺はゆっくりと目を開いた。





 二つの目玉と、蠢く腸がすぐ目の前にあった。そいつは目玉をグチュグチュと動かし、笑う。


「メリークリスマス」

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