09.なにもいらない
「あ、終った?」
「うん」
七月に入った月始めのある日の夜。まだ少し明るいけれど、携帯は七時を示している。
息をつきながら職場の裏口の戸を開けると、そこにはキャミソールにショートパンツを履いたアミがいた。
「今日は遅かったね」
「うんまあね。五時に予約してた子が、遅れてきちゃって」
「あらら」
ワケを聞いて、アミは苦笑いを浮かべる。
私の勤めている医院の診療時間は六時まで。でもそのあとから片付けとなるとどうしても三十分はかかるから、いつもは大体六時半くらいに帰れるようになる。
午後診療のほとんどは、矯正が多い。装置の調整だったり、歯磨きをしたり、かなり忙しくなってくるわけで。
気がつけば、六時半はとっくに過ぎていた。だから治療が終ったと同時に、慌しく片づけを開始して…さっきようやく終ったところ。
一時間近くは待たせた…それなのに。
「ごめんね、すごく待ったでしょ?」
「ヘーキよ! 真冬じゃないし、逆に涼しいくらいよ」
笑って片手を軽く左右に振った。
彼女はいつもこうやってバイトの合間や終わりに待ってくれている。
理由は…一応ある。……私に。
考えると全身が震えてしまうから、ただただ、優しいアミの気持ちと行為にひたすら今は甘えていて。
「あのね、海斗と食事に行こうってなったんだ。さくらも行こ?」
彼女には彼氏がいて、二人きりで出かけたいはずなのに、まず私を気遣ってくれて。
本当はこういう誘いも、断らなきゃいけないって思う。分かってる。
「…うん」
でも断れば、家まで送ってくれようとする。出かけるのに、そんなことしたら二度手間になることを思うと、それもやっぱり二人の迷惑になるわけで。
結局いつも私は、アミの気遣いに甘え続けている。
「おがみで待ち合わせなのよ」
私の職場から、待ち合わせ場所であり、行きつけであるカフェおがみへは、大体徒歩で十分程度。
駅前商店街の、一番端に、店はこじんまりと存在している。
そこへ歩き出しながら、アミがそう切り出した。
「そっか。すっかり、待ち合わせるところになっちゃったね」
「うん。でも、マスターが試作したパフェを食べさせてもらって、海斗のやつ、むちゃくちゃ嬉しかったって。だからむしろ、おがみでの待ち合わせはアイツ嬉しいと思う」
アミの彼氏、海斗は、パフェ好きという甘党で。
焼肉大好きの、肉好きでもあって。
あちこち、美味しい店を知っている。携帯には今まで食べてきたパフェの数々が写真で収められていて、時折思い出したようにアミへ美味しかったんだと言ってくるらしい。
見た目は全然そう見えないからこそ、余計意外で。
パフェと焼肉を前にしたときの海斗は、年上だけれど、とても可愛く見える。
「こんばんはー」
辿りついたカフェおがみの入り口を開けて、アミが明るい声で正面にあるカウンターにいるマスターへ笑いかけた。
そこでは相変わらずコップを丁寧に拭いているマスターがいる。
「ああ、こんばんは。今日もお疲れさま」
「マスターも。お疲れ様です」
「ちょっと待ち合わせなんだ。待ってる間、コーヒー二つね」
「はいはい」
出迎えられた柔らかい笑顔に、私はほっとして。アミと二人でカウンターに腰掛けた。
こぽこぽ、とコーヒーの淹れられる音がする。
漂ってくるのは、コーヒー独特の匂い。昔は苦手だったのに、今では寧ろ、好きなほう。
「そういえば、この前のホットサンド、メニューに追加されてたけど、評判はどうなの?」
コーヒーを淹れてくれているマスターへ、アミが気になってたんだとばかりに切り出した。
マスターはコーヒーの様子を見つつ、にこりと笑う。
「今のところ、上々ですよ」
「ほんと?! 意見したはいいけど、良くなかったらどうしようかと思ってたわ」
胸を撫で下ろしてアミは笑顔を浮かべる。
「美味しかったよね」
「ん!」
アミと頷きあい、目の前に差し出された淹れたてのコーヒーを私は手に取った。
カップから立ち上る湯気は鼻に届くと、苦い感じがして。
でもとても美味しそうだ。
「さくら、あたし、ちょっとトイレ行ってくる」
「うん」
立ち上がって、アミはポーチ片手にお手洗いのほうへと歩いていく。それを見送るつもりはなかったんだけど、「あれ?!」という声に私はアミを追いかける形で振り仰いだ。
そこには顔を顰めたコウ。トイレに行くはずだったアミに背を押されるようにして、こっちへ強制的に歩いて来させられた挙句、私の隣に座らせられた。
「あんた、ここでさくらと話しててよ!」
「…オマエな! 何…っ」
「いいじゃない、一人寂しくコーヒー飲んでるだけなんだしっ!」
笑いながらアミは改めてトイレへと向かう。
文句を言っているコウは不機嫌そうにぶつぶつと何か言っていたけれど、持ってきたコーヒーを口に流し込んだ。
「一人?」
心臓がどきりどきりと鳴っている。煩いくらいに。
知られちゃいけないから、必死に抑えて笑いかけたら。
「…悪ぃかよ」
ぶっきらぼうに返された答え。
…彼女と喧嘩でもしたのかな。……コウにとっては嫌なことかもしれないけど、…会えて私は…嬉しい。
でも、これ以上何か聞いたら、今度こそ口を聞いてくれなくなりそうな気がして、私もコーヒーのカップを両手で押さえた。
「………なあ」
喋りたくなさげなコウが急に切り出してきたから、私の心臓はまた大きく鳴って。
ちらりと彼を見る。横顔のコウは私ではなく、どこか遠くを見ていた。
「この前、じいさんを公園に案内しなかったか?」
「したよ。え、何で知ってるの?」
「…そのじいさん、おふくろの親父。オレにとっちゃ、じいさんなんだよ」
「え。え、…ええっ!?」
う、うそ。たまたま、間違えて話しかけたあの小川さんが?
…じゃ、じゃあ、孫の嫁に、とかって言うのに頷いちゃったのも、聞かれた?!
頬の温度が急激に上がっていくのが自分でよく分かるほど、私は真っ赤になったんだと思う。それに対して、コウがどう思ったかは分からないけど。
「案内してくれて、…サンキュ」
コウが普段見ないくらい優しく笑いながら、そう言ってくれた。
その顔を、すぐ間近で見て…心臓が止まるかと思ってしまって。
「う、うぅん! 外にたまたま出たときにしたってだけだし…っ!」
頬が焼けるように熱くて。とにかく恥ずかしくて。顔もまともに見られずに、下を向く。
コーヒーのカップを見つめながら私が頭を何度か振ったところで、コウがもう一度切り出してきた。
まるで、さっきのアミみたいに。
「…オマエさ、もし、仮にオレと…出かける約束してたとして、…よ」
仮にオレと、と言う言葉がもう本当に心臓に悪かった。どきどき、と胸が高鳴って、それがどんな意味を持っているんだとしても、ただそれだけが嬉しく思えて。
もう他に何もいらない。心底、思えた。
それは仮の話なんだとしても、…出かける約束をできる仲だということだから。
「ぅん…?」
声が震えそうになるのを必死に抑えて、私は続きを促す。
コウはひどく躊躇いがちで、どう切り出そうかと逡巡した挙句に、ぽつりと呟くようにこう切り出した。
「その約束しときながら、…墓参りに行くから行かねえって言ったら……どうする?」