05.探し物
「じゃあ、そこのパン屋に行ってきます」
病院の一室である従業員用の部屋のロッカーから財布を取り出して、私は昼食の準備を始めていた同僚の一人に話しかける。
すると、私が抱えている"ある事情"を知っている彼女が心配そうな顔を浮かべて、聞き返してきた。
「平気?」
「大丈夫ですよ」
すぐそこですし、と笑って。
私はぱたぱたと手を振って、同僚をその場に残して裏口から買い物へと出かけた。
私が勤めているところは、駅前にある個人経営のこじんまりとした歯科医院。
同僚は二人いて、今話していたのはドクターの助手をしている私より十は年上の人。そのぶん臨床経験は豊富だから、色々と教えてもらうことが多い。
もう一人は受付をしていて、私より三つほど年上で去年結婚したと聞いた綺麗な人。保険点数を学校で例えば習っても、更新が必ずあるから私は時々忘れてしまうけど、やっぱり専門で覚えているだけあって色々と教えてくれる。
どちらも私にとっては頼りになる先輩。
そして駅前という環境だからか、やって来る患者さんの数は年配の人から小さな子供まで幅広くて、とても多い。新人の私にとって、勉強には良いのかもしれないけれど、…気の休まる暇はない、というのが正直なところ。
勤めているこの病院が診療科目としてあげているのが、矯正。歯並びを整えること。だからどちらかというと、子供のほうが多い。
ただ、一番矯正が必要になっている年代は十代だから、午前中は学校。必然的に年配の患者さんが午前は多くなっていて。
最初、パン屋へと向かう途中で見つけた背中が、午前中に来院した患者さんの後姿によく似ていたから。
私は思わず駆け寄りながら声を掛けてきた。
「小川さん!」
「はい?」
でも振り返ったのは、見知らぬ年配の人。私の知っている小川さんとは白髪の後姿がほんの少し似ているだけで、あとは全然の別人で。
「す、すみませんっ…! 人違いを…!」
反射的に、知らない人と判断した私は頭を下げていた。
けれど。
「いやいや、わしもな、"小川さん"なのよ」
ほんの少しだけしゃがれた声で、その小川さんは笑って。
よく見ると大きな荷物一つと財布が入ってると思われる小さなカバン一つ抱えていて、そのカバンから一枚の紙を取り出した。
「これも縁かね。この場所に行きたいんじゃが、どう行けば良いか教えてくれないかい?」
「えと…」
しわの入った指で差し出された紙を、私は覗き込む。
しゃがれた声のこの小川さんは、白髪だけれど、あまり年を感じさせない顔立ち。しわもあるのに、瞳は生き生きとしている。
「ここだと、この道路を真っ直ぐ進んで、……」
「ん?」
車道を走っていく車を見ながら、指を真っ直ぐに向けて説明しようとして、私は言葉を止めた。
説明しにくい場所だったからだ。
真っ直ぐ行けばいいと思う。でも、この小川さんの行きたい場所は公園で。目印、というものがない。公園の入り口が建物と建物の間だから、見逃す可能性もある。
いきなり言葉を止めた私を、小川さんが「娘さん?」と窺ってきたから、苦笑して見せる。
「目印がないから、ちょっと説明が難しくて」
「おや、そうなのかい。だから、見つからないんだねえ」
小川さんはうんうんと何か納得するように頷く。
どうやら、随分と捜し歩いているみたいで。
「だから、近くまで案内しますね」
「おや、良いんだよ。娘さん、その格好からしてまだ仕事中じゃないのかい? わしは大丈夫」
「いえ、あとから案内すれば良かった、って後悔したくないし、それに、今お昼休みで時間はあるんです」
微笑んで、私は小川さんの持つ荷物の大きいほうを「持ちますね」と一言断ってから手にする。それは見た目に忠実で結構重たい。
「ああ、ラクになったよ。ありがとうねえ」
「いえ」
ほ、っと安堵の表情を見せてくれたから、私もつい釣られて安堵する。
そうして、ほんの少しだけこの患者さんによく似た小川さんと歩くことになったのだけど。
「お孫さんに会いに来られたんですね!」
「そうそう。すっかり可愛げのないヤツになったんだが、やっぱり孫は良いもんだよ」
「早く会えるといいですね」
「娘さんのおかげさね」
この小川さんは、この浅葱町から随分と遠い山の奥に住んでいたみたいで、わざわざ大学に進学した孫へ会いに来たらしい。
電車とバスを乗り継いで、それから一時間ほど歩いたところに、家があって。
そこから通うにはあまりに大変だから、一人孫をこの町へ出したんだって笑顔で教えてくれた。
「そろそろ、孫も嫁さんくらい見つけたんじゃないかってな、思っているんじゃが、どうなんだろうねえ」
「どうなんでしょう? 居ると良いですね」
心配というより、期待に満ちた目を浮かべている小川さん。でも、この人の孫を知らないから、私はただ笑ってそれだけ言うと。
いきなり私の手を握り締めて、熱弁しだした。
「娘さん、孫の嫁にならんかね? あんたみたいな気立ての良い子が孫には合うと思うんじゃが!」
「え、えぇ…と」
…困った。
この小川さんは、少ししか話をしていないけれど、良い人で。
とても孫思いだって分かった。
でもだからといって、簡単に良いですよと言えるようなことじゃない。
まあそれに。
本気で言ってるとも思えない。
「そうですね、気に入ってもらえたら、よろしくお願いします」
笑いながら返すと、小川さんも「ああ、もちろん」なんて笑ってる。
冗談だったんだ、と心の中で安堵していたら、ようやく目当ての公園近くにたどり着いた。
「あ、小川さん。あそこです」
指差して、公園の入り口を伝える。
公園は結構広い。色んな遊具があって、子供が出入りしているのをたまに見かけるから。
でも、本当に見つけづらい。建物と建物の間にある入り口は公園に植林されて伸びた木々に、今ではすっかり隠れている。気にせず歩いていたら、ヘタするとここに公園があることさえ知らずに生活していることだってあるほど。
「おや。ありがとうよ」
にこりと小川さんは笑って、私から荷物を受け取ると。
「このあとも仕事と言っていたねえ、頑張るんだよ。娘さんや」
「あ、ありがとうございます」
まるで「おがみ」のマスターみたいに暖かい笑顔で言ってもらえて、私が頭を下げると。
小川さんも、深々、頭を下げて公園へと入っていった。
そんな小川さんを私は見送って、携帯を見る。時間は医院を出てからちょうど七分ほどを過ぎた頃。
私はふうと息をついて、小走りで今来た道を戻ることにした。
きっと、同僚の二人はご飯も食べずに私の帰りを待っているし。
それに。
「…」
まるで刺すような痛い視線を感じて、背後を振向きたい衝動に駆られた。
でも出来なくて、手を握り締める。
怖い、というと失礼かもしれない。でも、やっぱり、…怖い。
どうして、こんなことになったんだろう。
昔はもっと、…――――。
「……っ」
考えたところで答えなんて分かるわけもなくて。
ただ無言で、私は震える足で人の合間を急いですり抜けた。
理由が分かっている寒気を全身に感じながら。