02.そらす
どんどんどん!
入り口を叩く激しい音で目が覚めた。どうやら、くしゃくしゃになったこのソファーベッドで寝ていたらしい。
窓辺からは薄いカーテンの隙間からほんのりと床を照らす夕日が差し込んでいて、もう夕方だってことに気づかされた。
起き上がり、あまりの夢見の悪さに頭痛がして片手で頭を押さえながら欠伸をしたところで、がちゃり、と閉めていたはずの鍵が開き、誰かが家ん中へ入ってくる音がして、アパートの長くはない廊下が軋む音を立てている。
とはいえ、あんなドアの叩き方をするやつは、一人しかいねえ。そいつには合鍵を渡してるから、それで開けてきたらしかった。
「勝手に人ん家に入ってくんな。つーか、壊れんだろ」
まだ見えねえ姿に、文句の一つも言ってやる。
「隣に住んでんだ、んなこた分かってる。それに、これくらいじゃ壊れねえよ」
「そうは見えねえ」
言い合いつつも、リビングの入り口にたどり着いた逆立った短い黒髪に黒目の男を、オレは見る。…人のことは言えねえかもしれねえが、目つきの悪いこいつは名を海斗という。そいつはグレーの薄手なシャツに上着を羽織り、ジーンズ姿でどこかへ出かける格好をしていて。
勝手にどかどか入ってくるなり、ソファーに座るオレを見下ろし、腕を組むと口を開いた。
「今日、デートか?」
無言のまま、携帯を見る。現在、夕方の五時前。
ここでこうして眠る一時間ほど前に『駅前の噴水で待ってる』とオレの恋人である彼女…彩希からのメールを受信してたから、頷いて返す。
「ああ」
「そりゃ残念。俺、アミんとこ行ってくっから。さくらと一緒に何か作ってくれるっつーし」
言葉の中にあった名前を聞いて、心臓がどきりと大きく鳴った。
ふうん、と興味なさげに相槌を打ち返しつつ、オレは頭に二人の女の顔を思い描く。
一人は、アミ。一言で表すなら、活発。そんな印象。
短い黒髪と、青い目。空手を習ってるだけあって、動きは俊敏。
どんな相手でも遠慮なしの意見を口にし、自分が正しいと思うことを貫く正義感に溢れた女。
海斗とは高校からの付き合いだが、こいつは他人を信用しない性格…まあ、これも人のことは言えねえが。そんなヤツが信用するほどの相手で。
海斗は普段、スキューバダイビングのインストラクターをしてんだが、海が好きっつー辺りの趣味が一致したようだ。いつの間にか、付き合っていた。
そして、もう一人。さくら。一言で言うなら、柔和。
背中にさらりと下ろした長い栗色の髪と、黒い目。
小さくて大人しそうなイメージだが、アミと海斗の二人が取っ組み合いの喧嘩しても仲裁に入れる度胸がある。何より、あの二人からかなり信頼されている。
アミなんかは一緒に住んでるだけあって、海斗よりさくらを取るほど、仲が良い。
特にさくらは料理が上手い。一度肉じゃがを食べさせてもらったが、想像以上に美味かったし、サイドにあったサラダのドレッシングも家から持ってきたっつー手作り。他にも味噌汁にきんぴらごぼう、茶碗蒸しまで作ったから素直にすげえと思ったほど。
ランチはともかく、普段は外食をほとんどしないってのも頷けた。
海斗はかなりメシ好きで、最近はよく食べに行っている。
だから、オレを誘うつもりだったんだと思うが…。
「報告しないでいい」
「あ? 美味いメシにありつけるから、誘おうと思って来たんだよ。一応、優しい気遣いだぜ? 感謝しろよ」
「…」
顔を顰めて言う海斗に、ただ無言を返す。
こいつとは高校からの付き合いで、しかもこういう性格だから、こっちも気を使わずに済むんだが。
普通に喋っているはずなのに、喧嘩を売られている気分になるのが不思議だ。
まあ、こんなんだから、コイツは高校の頃ずっと、誰彼ケンカを吹っかけられてそれを一つも逃さず買ってたわけだが。
そしてオレも大概それに巻き込まれていたんだが。
「いらねえ」
「あーそうかよ」
ソファーに寝転びながら言うオレに、海斗が息をつき、そう言って。
来たときと同様に、どかどか足音を立てて家から出て行った。
うるさいやつがいなくなるだけで、途端に静まる室内。寝転がれば、車の走る音と、近所に住む子供のはしゃぐ声くらいしか響かない。
「…」
ごろり、と身体の向きを変えて、オレは天井からカウンター越しに見える対面式のキッチンへと目を向けた。
小さなアパートだが、一応こじんまりとしたキッチンもある。1LDKのこのアパートには隣にもう一つ洋室はあるんだが、ほとんど荷物部屋にしちまったから、このリビングにソファーベッドを置いてオレの寝室としての役割も兼ねている。
男の一人暮らしだから、特にキッチンは活躍してねえが、…一度食べた肉じゃがはここで作られた。
材料の買出しに付き合ったときには、イモが安いだの野菜が高いだのと年下の癖に所帯じみた女だと思ったんだが。
その手から作られる料理は全部をその日のうちに食べてしまうのが勿体無いと思うほどに、美味くて。
片付けを手伝ったとき、『美味しかった?』そう、不安げに聞かれ。
素直に『ああ…』と頷いた。
その直後に見た満面の笑顔。今も思い出せる。
「……」
はあ、と息を吐き出し、目をきつく閉じて、オレは一人呟く。
携帯を握り締めながら。
「なんで、…気になんだよ」
オレには、今年の初めから付き合いだした女、彩希がいて。
そいつが好き……なはずなんだ。
確かに告白は彩希からだったが、それでも嫌いだったら付き合う気にもならねえんだから、…好きなはずなんだよ。
…なのに。
『…っわ! 何?』
『歯医者のお姉ちゃんだー!』
『あ、沙穂ちゃん。お母さんとお買い物?』
『うん!!』
たまたま外で四人集ったときのこと。
駅前にある商店街を歩いていると、さくらの背後から飛んで抱きついた子供がいた。
そいつはさくらが勤めてる歯医者の患者だったようで、無邪気な笑顔で擦り寄ってきて腕を引く。
背後にいた母親と簡単な挨拶を交わしたあと、さくらは子供と目線を合わせるため、しゃがんで。そこに浮かんで見える横顔がひどく優しかった。
少しだけ話をしたあと、手を振って別れたあと。
再び歩き出した際に海斗から質問が投げかけられた。
『さくらってさ、子供好きなのかよ?』
『大好き!』
オレと同じくさくらの様子を見ていた海斗のそれに臆面なくそう言ってのけるコイツがすごいと思って、それから一目置くようになって。
気づけば、気になっている。
気づけば、近くに居ると目で追っている。
声を、聞き分けてしまう。どれだけ煩い場所にいても。
オレには…付き合ってるやつがいるってのに。
"誘おうと思って来たんだよ"
海斗の言葉が頭に響く。
行けるもんなら、行きてえ。メールは無視して。一瞬だが、確かにそう思った。
「…」
起き上がり、無言のままで、オレは出かける支度を始める。
約束の時間までもうちょい。今出発すれば、五分前には待ち合わせ場所である駅前の噴水に着くはずだ。
今の彼女に文句があるわけでも、デートすんのが嫌ってわけでもねえ。
ただ、……友達なはずのさくらが…オレは何でこんなにも気になんのか。
…それが全く分からねえ。
分からないから、…そんな気持ちから目を逸らすしか今のオレには出来そうもない。
かちゃり。鍵を閉めて、オレは家から外へ出て、待ち合わせ場所を目指し歩き出した。