01. ひとり
ざわざわと明るい喧騒の絶えない小さなカフェ。この浅葱町の駅前にある「おがみ」という名のそこで、私は親友と遅めのランチをしていた。
今日のランチは、このカフェで今商品化を考えているという、手のひらサイズのホットサンド。中に挟まれた二種類のとろけるチーズと生ハム、レタスが美味しい特製ソースと絡んで口の中いっぱいに広がるものと、何枚もの肉を重ねて、しかもその中にシソの葉を挟んだものの二種類。
「おいしー!」
隣で私と同じホットサンドを食べていた親友が声を弾ませて、短く切った黒髪を揺らすと、「ね! さくら」と私へ話し掛けてきた。
同じように食べていた私も、笑いながら頷く。
「うん。マスター、これ、すごく美味しいです」
「そうですか、それは良かった。これをメニューとしても良さそうですか?」
「うん! あ、でも、マスタードを好みで入れられるようにすると良いかも。ほら、辛いのが好きな人っているでしょ?」
「そうですねぇ…その方向で試してみましょうか。ありがとうございます」
カウンターで並んでいた私と親友の二人は、正面でコップを丁寧に拭いているカフェの主人からの丁寧なお礼に、顔を見合わせて目を細める。
白髪と髭が少し。黒縁の丸メガネの奥にある柔らかい笑顔と、このマスターの淹れたコーヒーが好きで、私と親友はこの駅前に越してきてからほぼ毎日、足を運ぶようになった。
店内は二十人ほどの客が入れるほどのスペースで、全体的にベージュと赤茶の色合い。雰囲気としては和風ぽい造り。
結構、客も多くて繁盛しているから忙しいだろうに、マスターはすっかり常連客となった私たちに、こうして試作品を食べさせてくれては意見を聞いてくれることもある。
もちろんお代は払うし、いつも美味しいから料理好きの私にはとても勉強になるしで、お互いに良いことだらけなこの小さな試食会。
私たちは二人とも、コーヒーだけじゃなく、こんな企画をするマスターの人柄もすっかり大好きになっていた。
「マスター、お勘定ー」
「はいはい」
店の入り口近くにあるレジへ向かった客に呼ばれて、マスターが私たちの前から移動していく。
その背を見送りながら、私は残りのホットサンドを頬張った。
春先からようやく暖かさが広がりだして、梅雨がそろそろ近づく六月初めの土曜日。今日は青空が広がって、清々しいほど天気が良い。所謂、お出かけ日和、という空模様。
でも、私はこのまま家へ帰るだけ。家には掃除、洗濯が待ってるし。
正直、とても疲れているから。
「仕事は慣れましたか?」
「あ、はい。少し…」
レジから戻ってきたマスターに尋ねられて、私はまだほんのり湯気の上がるコーヒーカップを持ったままで苦笑する。
今年の四月から、駅前にある歯医者で働いている、新人の歯科衛生士でもある私は、お昼の一時まで仕事をしてきて、二時になってようやくこうしてお昼ご飯を食べられるようになるほど、忙しい。
勉強はしてきたし、国家試験だって受かった。でも、勉強と実践では、随分と違う。
出来ると思っていたことが思うようにできない。それはたぶん、どんな仕事だって初めのうちはそうなんだと思うけど。
「でもまだ、周りについていくので、精一杯です」
「初めはみんな、そうですよ」
にっこり、マスターが笑顔で言ってくれる。
親友と二人で学校へ通うために駅前のマンションへ越してきて、もう二年と少し。あまり遠くはないけれど、夜道を一人で帰るのは危険だからということで、私たちは二人で実家から離れて暮らしている。
だから、マスターのこんな言葉にはとてもホっとするわけで。
まるで肩の力が抜けるよう。
そのときだった。
ベージュのテーブルで着メロが鳴って、親友がコーヒーカップの横に置いていた青の携帯を開く。
「アイツだ。出るね」
「うん」
頷いたとき、マスターもまた新しい客の注文を取りにここから移動していて、無言のままで、私はコーヒーを口に運んだ。
親友である彼女は、牧瀬 愛美という。今度八月の誕生日がきたら、二十一歳になる。
黒髪は短くショート。髪先が少しだけ跳ねていて、その癖っ毛が特徴。…そして「愛」と「美」という漢字で成り立つ自分の名は苦手らしい。元々は明るいグレーの瞳だけど、最近カラーコンタクトにハマっているらしくて、今は青い目。
明るくてはっきりと物を言う性格だから、気が合う。一緒に暮らしていても苦にならない。楽しくて。
きっと似た者同士だからなのかもしれない。
アミは今年の春、短大を卒業したけど、就職はしてない。最近はバイト三昧だ。
不況で就職先はなかなか見つからない。でもそれ以上に、彼女、アミにはやりたいことがまだ見つかってない。
バイトしながら、目下やりたいこと探しの真っ最中。
そんなアミの彼氏が長島 海斗。今の電話の相手だと思う人。長身で目つきも鋭くて、見た目は柄が悪いという印象。
でも、そんな見た目に反して、食べ物が大好きで、特にパフェと焼肉が好物で。パフェに至っては、今まで食べたものを写メで写して記録してるから筋金入り。
そして、スキューバダイビングのインストラクターもしている。今年の二月、国家試験の前、あまりに煮詰まっている私を気分転換させようとアミが連れていってくれたダイビング教室で出会った。
最初こそ取っ付きにくかったけど、段々と、年齢も近い二十二だったからか話も合って。しかも実は同じ町に住んでるってことも分かって。
友達として付き合い始めて。
三月、私の試験合格のお祝いのときに、海斗が彼の親友を連れてきた。
そこで初めて会ったのが、久木 コウ(ひさき コウ)。
海斗だって長身だけど、彼と並んでも小さく感じない背丈。目つきも鋭いし、何より無表情。二人から睨まれたら、男の人だってかなり怖いはずだ。
そんな彼は陽の入り加減で目の色がオレンジに見える、不思議な人。
「…」
楽しそうに電話をしているアミの横で、私は彼女に聞こえないように、ふうと小さくため息を吐いた。
初めは、無口で無表情だからちょっと怖い人だった。どういう人なのか全然掴めなくて。
でも、海斗と話しているときの彼は喧嘩口調ではあるものの穏やかで何より楽しそうで、優しい人なんだと気が付いて。
たまに会ったとき挨拶をするうちに、気を許してくれたのか、普段の無表情が崩れてくれた。軽口も少しだけなら言ってくれるようになった。
それがとても嬉しくて。本当に、嬉しくて。
少しは友達になれたかなとひとり浮かれていた、小雨の降る四月の終わり。
たまたま仕事帰りに見かけてしまった。
一つの傘を差して、二人仲良く並んで歩く姿。
一人はコウ。もう一人は……たぶん、彼女。
心臓がずきりと痛んで、…ようやく私は彼が好きになっていたんだと分かった。
気づいたところでどうしようもないのに。
だって彼には彼女がいるから。
私よりもずっとずっと…小さくて可愛い人。
好きだと言ったところで、彼が私に振向くはずもない。
「…」
僅かにカップに残っているコーヒーをじっと見つめて、そこに映る自分を見る。
見て分かるほどその表情は沈んでいる。隣にいるアミは、幼稚園の頃からずっと隣に住んでいた幼馴染でもあるから、私の気持ちなんかすぐに見抜いてしまう。
だから…笑わなきゃ。
胸の奥が苦しいなんて、気のせい。
泣きたいなんて、気のせいだから。
「さくら、食べ終わった?」
「あ、うん」
「じゃあ、一回家に帰ろう。五時に待ち合わせたから、掃除、洗濯! 急いでしなきゃね!」
「だね」
アミの言葉に私は頷く。笑いながら。
今日は家へ帰ったら、仕事をしていると出来ずに放置したままの掃除、洗濯をして。
それから…。
「…」
彼氏のいない私はアミが出かけてしまえば、ひとりぼっちだけど。
元気の出るご飯を作って食べよう。面白いテレビでもあるかもしれない。
読んでない本だってあるし、好きな音楽でも聞いて過ごせば良い。
アミが帰るまで。
ひとりで平気。
私は大丈夫。強いから。