5 空は青いか
使用お題:『頬を腫らしたお兄ちゃんと醜悪な狼の、オチのない話』
僕が生まれたとき、母は失望の眼差しでその異物を見たことだろう。
獣族の中ではより獣の姿に近い者が優性とされている。
獣族は二本足で立ち歩くが、その体は体毛で覆われ立派な牙や鉤爪、人間の何十倍とある嗅覚や聴覚を持っている。
逆に言えば、人間に近い姿で生まれ落ちた者は劣性となるのだ。
彼らは一族を追われ天涯孤独の身で生きるのがままある。
追われる理由は大方言うまでもない。
故に僕が自ら家を出ると宣言した時、両親が安堵の表情を浮かべたこともまた仕方のないことだったのだ。
僕は劣性種の中ではまだマシな方で、親族から迫害を受けることはなかった。
なかったが、周囲の目を気にしてあまり外へ出されることはなかったし、どこかよそよそしくて超えられない一線を引かれているのがありありと分かってしまった。
「水汲み、薪割り、食料の調達……こんなもんか。この生活にも大分慣れてきたな」
一人での暮らしも始めてみれば悪くないものだった。
周囲の目を気にしなくてもいいし、自由に生きられる。
息の詰まるような家にいるよりかはずっと気が楽だった。
小さな林の近くにテントを張り、少ない荷物を整理すれば居住区は完成だ。
簡単な狩猟道具、調理器具兼万能ナイフに数枚の毛布と毛皮。
この生活のスタイルはどちらかといえば獣族ではあまり好まれない。
北の平原は、人間の騎馬民族と土地を共有している。
家畜に与える牧草を求めて転々とする彼らとは違い、獣族は定住するので村を作る。
獣の種類と一族で細かに分かれるのでひとつの村の規模はやや小さいが、そこへ騎馬民族がやってきて宿や店を利用する。代わりに物資を他の村へ運んでもらい営みを循環させている。
自給自足するだけなら良いかもしれないがこのままでは生活に困ってしまうのも事実だろう。
劣等種だけで徒党を組んで縄張りを作っているところもあるし、そこへ行くのもひとつの手ではある。
やっと手に入れた自分だけの場所。
求めていたもののはずだったが、あの家にいた頃のような違和感がつきまとっているのを感じざるを得なかった。
僕が本当に欲しいものは、一体何だと言うのだろう。
ため息をひとつ。
近頃の趣味となりつつある木彫りのナイフを取り出すと、切り株から掘り出した椅子に腰掛けてちまちまと木を削る。
カリカリと小気味良い音が耳によく馴染んだ。
狼の耳と尻尾は持っているがこの体の構造は人間に限りなく近い。
体毛は無く、肌は人間の青白さがある。
辛うじて獣である特徴と一族の色を受け継いだ程度なのだ。
それでも成獣した彼らに劣るものの野生特有の身体能力や生きる術は等しく、生まれながらに持っているのだろう。
敏感な僕の耳は草を踏む足の音を正確に聞き分ける。
「よう、ゾゾ。元気にやってるか?」
木を削り出して細工物を見繕っていると、背後から声がかけられた。
「スィ兄さん。また父さんの手伝い抜けてきたの?」
「退屈なんだもんよ。口を開けば規律だなんだと……やってられるか」
支柱に寄りかかるようにして立っていたのは、長男のスィギテクだった。
濃紺の体毛に機敏な耳と大きな尻尾、鋭い目をした立派な成狼だ。
その巨漢は大岩を持ち上げ鍛えられた肉体は野を駆ける斑大猫にも劣らぬ俊足を見せる。
僕はそんな自慢のスィ兄が大好きで小さい頃はよく遊んでもらった。
しかし将来跡継ぎとなる息子が出来損ないと接しているのがお気に召さなかったのか、やがて両親は兄弟から僕を遠ざけるようにして暗い部屋へと押し込めるようになった。
それでもスィ兄は、親の目を盗んでは会いに来てくれた。
家を出た今もこうして定期的に顔を見せに来てくれる。
そんな兄を心から敬愛していた。
「仕方ないよ、皆スィ兄に期待してるんだ。次のウフル首長だからね」
嬉しい来客の為、片付けようとしていた細工物を横からひょいと拾い上げたスィギテクは両目をきゅっと絞ってまじまじと観察をはじめた。
「ゾゾは相変わらずこういうの得意だよなぁ。俺はすぐ飽きるしなんかこう……細々してると、頭こんがらがってくるんだよな」
見比べるまでもなく兄の手とは似ても似つかない人間らしい指先。
自らの身体を映すまいと、伸ばした前髪に視界を閉ざし大げさに笑ってみせた。
「そりゃあね、スィ兄の短い指に比べたら僕は自由に動かせるから。ほらね」
ぐにゃりぐにゃりと関節を曲げてみせると、うえぇと気持ち悪そうに顔をそむけられた。
冗談だぞとすぐに表情を明るくさせると大げさな態度でテントの中をぐるぐると歩き始める。
「そうだ、お前の腕があれば細工物を沢山作って店が開けるじゃねえか。こいつはいい考えだ。細工物だけじゃなくても、細かい仕事は何だって必要になるし。そしたらお前はひっぱりだこだぜ」
嬉しそうに語ってくれる兄の姿が眩しくて、ああ、そんな店を開くのも悪くはないなと思ってしまうのだ。
しかし長年の歴史の中疎まれ続けてきた出来損ないの自分たちが受け入れられる日は果たしてくるのだろうか。
「そうなったら、父さんも母さんも、僕を認めてくれるかな……」
スィギテクは迷うこと無く力強い手を背中にあてがった。
もちろんだと、お前は自慢の弟なんだと、偽りのない言葉がいつもゾゾに勇気を与えてくれる。
もう一度周りを見渡してみた。
小さな居場所は、小さな荷物だけで事足りる。
必死に守ろうとしているこの場所は、何と狭いのだろう。
言いようの無かった違和感は答えと共に胸の中にストンと落ちた気がした。
「ありがとう、スィ兄さん。でもそろそろ戻らないと、またこっ酷く叱られちゃうよ?」
それを聞くや困ったような顔を浮かべ、バツが悪そうにボリボリと頭を掻くと観念したように肩を竦めた。
何度も見てきた兄の大きな背。
「それは勘弁な。……じゃあ、また来るから。またな」
「うん、また」
スィギテクが去っていくと、元の静寂が戻ってきた。
そしていつものように切り株に腰掛け、カリカリと木を削る。
代わり映えのしない毎日を、未来を考えて。
ゾゾは白い天幕で目隠しされた空を仰ぐと木彫りを放り投げ大の字で寝そべった。
「……狭いな」
ぽつりとひとつ。
これはまだ、出来損ないの狼の小さな世界の話。