1 拝啓、街角より。
使用お題:【第105回フリーワンライより抜粋】 飛べない鳥 / 青空に恋した月
――僕が彼女と出会ったのは、地下室の薄暗い部屋の中だった。
奴隷が市場に売りに出される日まで一時的に収容される檻の中。
さながら明日にでも処刑される死刑囚のような面持ちで手元の干からびたからからのパンを見つめる。いったい焼きあげたのは何日前のことなのか、ところどころ青くなったそれはおよそ人間の食べるものではない。
そんなものを放り投げるように捨て置いて、不味い水だけを口にした。
そしてふと目を上げると、隣の檻に閉じ込められた女性と目が合った。
どうやら彼女も食事をする気はないらしく、僕のものより幾らかマシな羊の乳と干し肉を挟んだパンがそのままにされている。
売りに出される奴隷はこうしてランク別に分けられ高く売れそうなものはより良く金にするためにまともな食事を食べさせ健康管理を行う。
「食べないのかい?」
「……欲しければあげるわ」
そっけなく返ってくる声はしかし艷やかで、白い奴隷服(といっても布切れをつなぎ合わせたような質素なもの)や体が泥にまみれていてもなお美しいと思わせる風体の独特な雰囲気をもった女性だった。
「いいや、遠慮しておくよ。僕も食べる気にならないんだ」
しかし独特なのは雰囲気だけではない。
なぜなら彼女の細い背中には朽葉色の大きな一対の翼が生えているからだ。朽ちた落ち葉の、色を失ってなお深い繊細な色。
この世界には幾つもの人種が存在しているが、年々活発化する奴隷商に狩られる少数部族も少なくない。国が摘発しているがその手が追いつかないほど彼らはずる賢く地を這い回り、野犬のように牙をむき出してくる。
翼人は珍しい。彼女はさぞ高く売られるのだろう。
「……ソラが見たいわ」
彼女はぽつっと吐きこぼした。ため息とともに絶望が空間を漂っていく。
「ここは暗くて、狭くて、何もない。わたしの目には何も映らないの」
こちらを見るその瞳は、僕を見つけているだろうか。光を失った瞳孔は動かぬまま、ひたすらに壁の向こうを求めるようだった。
埃にまみれた長い髪がさらりと肩から流れ落ちる。
「僕も最後に空を見上げたのなんか、もういつのことだか覚えてられないよ」
隣の檻は沈黙を保っている。まあ、ただの独り言だったのかもしれない。それでもいいかと思ったのだが、もう少し貴女のことをわかりたいと思った。
なぜだか、そう思えた。
「でもね、ソラならここだよ」
瞳孔が、僕を捉える。平凡な人間の、僕。
「名前、ソラって言うんだ。……ははは、なんの慰めにもならなかったね」
くしゃっと顔を歪ませて、思わず苦笑い。救いのないこの空間で一体なんの希望があるというのか。どこに青空があるというのか。
罵倒されるのだろうと思った。
――ついと、頬に何かが伝う。彼女の白い顔は表情をかえないまま、ただ涙していた。
「そう、いい名前ね」
それが初めての、貴女の笑顔だった。
「改めて自己紹介。僕はソラ・ヘイヤック。北にある平原の民、オクバスの息子」
「ユエ。ただのユエ。誇り高きアムユーナ・イエハの娘……場所は、言えない」
そして僕らは、暗い檻の中でぽつりぽつりと幾らかの話をした。
広い草原で羊や馬を有し、豊富な畜産を資源とする騎馬民族は長い獣の耳を持つ獣人と土地を共有して使っている。定住する彼らに対して、僕たち平原の民は各地を点々とするのだ。
ユエと名乗った彼女は、東に位置する隠れ里の翼人なのだろうと思った。生い茂る木々と高い崖に囲まれた土地で静かに暮らしている翼人たちは奴隷商にとっては歩く金塊と同じだ。
血眼になって探し回った結果、幾つかの里の場所が露呈してしまったのだ。
翼人は例え拷問されても決して秘密は漏らさない。自らの命を賭してそれを守る、誇り高い一族だ。
しかしこうして捕まってしまった今、ユエがその場所を吐かなかったとしてもユエの人生は閉ざされてしまっただろう。自分も同じ立場とはいえ、これからのことを思うと胸が締め付けられる思いがした。
「おい、そこのお前! 外に出ろ!」
突然雷のような声が降りかかり、ユエの細い腕が掴まれた。
彼女は大きな翼をばっと逆立てたが、抵抗することを諦めたのか大人しく立ち上がり檻を出ていく。ソラが見たいと言った彼女の瞳が、ただ一瞬だけ僕を捕らえていった。
その後、彼女を見ることはなかった。
僕はどこぞの屋敷に使用人として買われ、特に貴族どもの狂気的な趣味に使われることもなく淡々と色のつかない日々を過ごした。
やがて国が僕らを売った奴隷商の一団を捕縛することに成功した。
いくらかの奴隷は放たれ、体裁を重んじる貴族の一部は奴隷を正式な使用人とし、もしくは開放した。
毎日のように見る青空を眺めながら彼女のことを思い出す。あれからどうなっただろうか。
空を乞うた月は、空に帰れただろうかと。