理想と、現実(2)
「オペレーション・メビウス―――私たちはそう、呼んでる」
ユグドラシルの間。
世界樹と呼ばれ、『この』世界とは別に広がる、ありとあらゆる分岐可能性世界へとつながる『扉』。
それが鎮座する間は二年前、一度崩壊しかけた。 しかしその部屋そのもの、ひいてはユグドラシルを破壊することなど、例えオーディンであろうが、真の力を解き放ったレーヴァテインであろうが、絶対に不可能な事だ。
確かにそこにあるその樹は、しかし実在しない。 目に見えるだけであり、それはモノと呼べるものではなく、この世界の概念の枠を離れた神秘。
時を経ても変わらないその場所に、アイリスは立っていた。 アイリスの前を歩くオリカは、ユグドラシルの間―――白い砂漠に足を踏み入れる。
靴底から跳ね返る重さと感触。 一度だけ足を踏み入れただけの場所だというのに、それはどこか懐かしい。
確かに二年前、何も知らないままアイリスはこの場所を訪れた。 そして涙を流し、後悔し、全てを失って、ここに再び舞い戻った。
室内であるはずなのに、そこにはそよ風が吹いていた。 髪を通り抜けるさわやかな風の中、アイリスはユグドラシルを見上げて眉を潜める。
「リイド君が向かった先は、天国でもなければ地獄でもない。 ただこことは違う、『ここではない世界』。 そこで今も、きっとユピテルと戦ってる」
リイドとユピテルは同じ力を持つ、同等の存在だった。
元々天才的な力を持っていたリイドだったが、その上を行く力を持つユピテルに対し、拮抗できるほどの能力は有していなかった。
それを補い、ユピテルを押さえ込めるほどに成長したのは恐らく、スヴィア・レンブラムが画策した結果なのであろう。
スヴィアが用意したリイドが成長し、自ら答えを出すための道。 その途中にある困難や苦痛さえ、彼は予見していたのかもしれない。
スヴィア・レンブラムという人物が一体何を望み、何を残そうとし、何を行ったのか。 それはもう、誰にもわからない事なのかもしれない。
何はともあれリイドは成長し、ユピテルとは違う、別世界の自分とは違う答えを生み出したのだ。 そして、その答えに従い、この世界を去った。
あらゆる攻撃を無力化し、ダメージも瞬時に回復するオーディンとレーヴァテインは、普通に戦えば決着をつけられるような相手ではない。
後は、パイロットの問題。 操縦者二人のどちらかが根をあげない限り、戦いに決着はつかないだろう。
ユピテルの根本的な目的がどこにあったのかなど、明らかになっていない事は多い。 それでも彼の目的の一つに、この世界の消滅があるのは間違いないだろう。
スヴィアを追ってやってきたユピテル。 そしてスヴィアが守ろうとした世界を滅ぼそうとしたユピテル。 その執着心はどこか異常であり、執念、妄念のようなものだと思える。
だとすれば、時空を単体で移動したユピテルは、リイドを倒したならば確実に舞い戻り、この世界を滅ぼそうと努めるだろう。 だが、二年を経た今も尚、この世界は存続を遂げている。
「だから、まだ死んでないなら。 終わってないなら。 きっと、助ける手段はあるはずだよ」
胸が、痛んだ。
もし二年もの間、ずっとずっと休む事も無く、必死でリイドが戦って守り続けているのが今の世界だとしたら。
そんなのはありがた迷惑というものだろう。 そんな守られた世界で生きていても、楽しくない。 嬉しくない。 ただ辛いだけだ。
だからそれを打開する。 リイド・レンブラム無くしては成立しなかった平和を崩す事になりかねないと知っていても、アイリスはそれを壊したいのだ。
「リイド君の居る世界はどこなのかわからない。 数え切れない程存在する世界の数は、無限対数なんて言葉でさえ霞むくらい、本当に多い。 一秒経つごとにその世界は増えてて、またリイド君が遠くなる。 それに、このユグドラシルを『通過』出来る人間は殆ど居ない。 ヘヴンスゲートを人間が通過できないのと、おんなじことでね」
近年研究により、ヘヴンスゲートは小型のユグドラシルのようなものではないか、という見解が有力になっている。
つまり、『ここにある可能性』を『別の場所にある可能性』として書き換え、転移させる装置であると。
月と地球と。 その二つの『次元』を固定されているだけであり、やっていることはユグドラシルと大差はない。
その中に生身の人間が。 ただそれに入れば向こうにいける…なんて、その程度にしか理解していない人間が飛び込んだところで、分解されるだけされて再構成されることはない。
それと同じように、むやみに一般人がユグドラシルに触れたところで、分解されはしてもリイドやユピテルのように別世界に移動することなど叶わない。 それだけ彼らが異常な存在であったという事を、まずは認識する必要があるだろう。
扉を開く資格を持つものが倒れ、消え去った今、迎えに行くことが出来る人物そのものが、絶対的に不足しているのだ。
そして仮にユグドラシルを扱える人間が居たところで、リイドがどこにいるのかがわからなければ意味がない。 様々な次元を彷徨った挙句、戻ってこられないだけであろう。
それだけに誰もが絶望した。 もうリイドを助ける事は出来ないのだと、心の底から絶望した。 全てを奪い去られたかのように、呆然と。
「でも、その手段というのは? それが出来ないから、私たちは…」
「その手段をずっと探して、私は二年間、必死にやってきた」
項垂れるアイリスに笑いかけるオリカ。 アイリスの肩を叩き、頭をくしゃくしゃと撫でる。
「そのための鍵が、アイリスちゃん…君なんだよ?」
「私、ですか…? でも私、別に何も…」
「オペレーション・メビウス…リイド君のサルベージ作戦は、君なしじゃ成立しないの。 リイド君と、直接『約束』を交わした、アイリスちゃんにしか出来ないことがある」
「………やく、そく?」
ゆっくりと、しかし力強く頷くオリカ。
そうしてユグドラシルを見上げ、静かに告げた。
「リイド君を迎えに行くのは私たちじゃなくて―――アイリスちゃん、君なんだよ」
⇒理想と、現実と(2)
「お久しぶりです、姉さん」
形式上だけの、イリア・アークライトの十字架の前に私は立っていた。
国際サミットはまだ開催中だというのに、護衛の私が何故こんなところになっているのかと、我ながら疑問に思う。
姉さんの身体はもうどこにもなくて、その背中に追いついてしまった私がいて。 意味のないことだと判っていながら、女々しくここに立っている。
風が吹いた。 サミット開催で浮かれる町の喧騒も、ここにはわずかしか届かない。
手にした真紅の薔薇の花束は、きっと姉さんに似合うだろう。 けれどもそれを添える資格が私にあるのだろうか。
逃げた、だけだ。 私がこの二年間でやった事。 それだけじゃないか。 なんにもしてない。 なんにも。
オリカさんはあんなにも一生懸命、あんな絶望の中で諦めず、先輩を助ける手段を模索していたっていうのに。
私がした事はなんだろう。 何一つ先輩の為になんかなっていないじゃないか。 何にも役に立ってない。 これじゃあもう本当に…。
「最悪だな、私」
逃げただけ。 逃げただけ。 他には何もしてない。
そうだ。 踏みとどまって、あの暗闇の中努力する道だってあった。 それは確かに辛く悲しく、砂漠の中の宝石を捜すくらい途方も無い事だったかもしれない。
それでも、選んで。 努力して。 そういう風に戦う道はあったはずなのに。 私はその可能性から逃げ出した、臆病者だ。
「最悪だ……」
繰り返す言葉。 昔は何度も、先輩に向かってはいたこの言葉の重さを、今になって感じる。
彼は。 こんな重たい言葉を私に吐きかけられ。 泣き出したくて逃げ出したくて仕方が無い時でも、ちゃんと私を守りに戻ってきた。
それだけ強かったのだ。 完璧な人間などいない、過ちを犯す事もあるだろう。 それでも彼は諦めず、戦った。
私はどうだ。 ただ先輩がもう助けられないかもしれないという理由だけで、そこから逃げ出し努力する事を諦めた。
約束だって言ってくれたのに。 そんな大事な事を、信じてあげることが出来なかった。
後悔しか残らないこの世界の中、果たして私が、先輩を迎えに行くだけの資格を持つのだろうか。
戦い抜き、命を落とし、それでも大事なものだけは守り抜こうとした姉さんの前に、のこのこ顔を出す資格があるのだろうか。
ああ、そうだ。 私は怯えて逃げ出したんだ。
ジェネシスのみんなと顔を合わせるのがたまらなく怖いんだ。 逃げ出したくせにって、罵倒されるのがたまらなく、たまらなく…恐ろしいんだ。
二年前、あんなに容赦なく私は先輩にそれをしたくせに。 自分の番になって、ようやくそれがどれだけ辛いことだか理解した。
手にした花束を投げ捨てる。 紅い花は風に吹かれてはらはらと舞い散り、私は静かに踵を返す。
その視線の先、ポケットに手を突っ込み、煙草をふかしているベルグの姿があるなんて、思いもよらなかったから。
「よう。 何してんだ、こんなところで一人でよ」
「ベル、グ……」
ベルグはジェネシスの制服を纏っていた。 この二年間で変化があったのは、私たちだけというわけではないらしい。
いや、当然の事だ。 彼は私の目の前に立つと、懐かしい鋭い笑顔で私の頭を軽く叩いた。
「シケた面してんじゃねえよ。 姉貴の墓の前くらい、笑ってろ」
「……ベルグ…ベルグ、ベルグ〜〜〜ッ!!」
と、何故かベルグに飛びついている私がいた。
「私っ…私は…っ!」
「あ〜……。 気持ちはわかるが、ちっと離れてくれないか? 一応、人目ってもんがある」
我に返り、ベルグから離れる。 その大きな姿の影に隠れ、今まで見えていなかった場所に―――二つ、同じ顔が並んでいた。
片方はわかる。 銀色の。 美しい髪を靡かせる少女―――。 二年前とくらべだいぶ背も伸び、とても綺麗な人に成長していた。
あの頃と変わらない、穏やかな金色の眼差し。 エアリオ・ウイリオ先輩は、私の前に立つとベルグのほうに首を傾げた。
「知り合いか? ベルグ」
その言葉に、思わず鈍器で頭を叩かれたような衝撃を受ける。
そんなことは、当たり前なのに。 彼女は二年前、記憶を失い……そのまま、私たちは殆ど言葉を交わすこともないまま、別れたのだから。
なんと声をかけたらばいいのかわからなくて口を閉じる。 そしてエアリオが、ジェネシスの制服を着ているというのは―――どういうことなのか。
「ああ。 ちと、話すことがある。 先に墓参り済ませておけ」
「ん? まぁ、わかった」
「え……?」
エアリオが向かうのは、姉さんの墓だった。
その前に花束を沿え、静かに目を閉じている。
姉さんの記憶なんかないはずなのに、どうして? 動揺する私の肩を叩き、ベルグは私を連れて少し離れた場所に移動した。
「べ、ベルグ…どうなってるんですか?」
「あ? ああ……。 何でだろうな。 別に誰が教えたわけじゃないんだが。 あいつ自身も、あそこがイリアの墓だって事は知らなかったらしいが……身体が覚えてる習慣、とでも言うのかね? あいつ、記憶失う前も、結構足しげくここに通ってたみたいだからな」
「……エアリオ先輩が」
背が伸び、幼い可愛らしさと大人の美しさを兼ね備えたような、そんな容姿。 昔から恐ろしく可愛かったけれど、今となっては絵に描いたような美少女になっている。
結局、私たちは深く心を交わらせる事も出来ないまま、こんな風になってしまった。 けれど私たちはわずかな間共に行動し、少しだけ……少しだけ、心を通わせた。
彼女に打たれた頬の暑さはまだ覚えてる。 彼女の言った言葉をまだ覚えてる。 でももう、彼女は私の事なんか覚えていないのだ。
判っていた事だ。 もう知っていた事なのに……何故か、今になって酷く寂しく思う。
まるで、彼女の世界から、私だけが排除されてしまったような、そんな疎外感―――。
「アイリス・アークライト…で、あっていますか?」
振り返る。 そこにはそう、エアリオと同じ顔をした、褐色の肌の少女が立っていた。
私は彼女を見たことが無い。 エアリオと同じ顔をした、同じ声の少女。 双子なのだろうか? ずっと遠くから私たちを眺めていた彼女は、自己紹介を始める。
「エンリル・ウイリオです。 元ガルヴァテイン=ティアマトの干渉者……といえば、ご理解いただけますか?」
彼女は最期の戦いの時、破壊されたガルヴァテインに乗っていたらしい。
オーディンの槍に貫かれ、意識を失っていた彼女は、リイドによっていつの間にか救出され、砂漠の上に寝かされていたらしい。
あの一瞬でそんな事があったとは思えなかったが、なにはともあれその彼女を回収したカグラさんやらオリカさんやらが治療を行い、今はジェネシスに所属しているということだった。
それにしても見れば見るほど似ている。 同じといっても差し支えないだろう。 しかしエアリオ先輩よりも若干優しく、気の弱そうな印象を受けた。
「今は、エンリルがエアリオの世話をしてる。 二人は姉妹って事になっててな。 で、俺はその護衛役ってわけだ」
「……そうなんですか」
つまり、エアリオ先輩の生活はもう、あの頃とは違っているということなのだろう。
リイド先輩と共に暮らした記憶はどこにも無くて。 私たちと共に戦った記憶も、どこにもない。
ただ美しい金色の瞳に映す景色が真実だと信じ込み、かつてこの世界で起きた自分自身の悲しい運命も記憶していない。
振り返り、こちらを見るエアリオ。 その姿は美しく、堂々としている。 今の私とはまるで正反対で、なんだか悲しくなった。
「おい。 お前ら、わたしを差し置いて何を楽しそうに話しているんだ?」
唇をとんがらせながら駆け寄ってくるエアリオ先輩。 でもその思い出の中に、私はいないんだ。
少しだけ、何故かほっとしていた。 そう、それはつまり、私がこの場所から逃げ出した事も、知らないということだから。
「おまえ、何ていうんだ? エルサイムの人間なのか?」
確かに今、私はエルサイムのコ−トを羽織っている。 ならばエルサイムの人間以外に見えるわけがない。
事実それは間違いではなかったが、それを肯定してしまったら何かが変わってしまうような気がして曖昧に苦笑を浮かべて答えを濁した。
「……アイリス・アークライト、です」
「アークライト……そっか。 おまえ、イリアの妹なんだな」
「はい」
十字架にだってちゃんとイリア・アークライトって書いてあるんだから、私の事がわかってもおかしくはないだろう。
エアリオは申し訳なさそうな表情で私の手をとると、まだ私より一回り小さい背丈で、金色の瞳で、私を見つめる。
「おまえもきっと、わたしと関わりのある人間だったんだろう?」
「え―――」
答えに詰まる。 そう、確かにそう考えるのが当然だろう。 私は静かに息を呑み、それから迷いながらもゆっくりと頷いた。
「悪いな……。 お前の手を取って、実際に触れて。 でも、思い出せない……。 それはきっと、お前にとても失礼な事だ。 だから……悪い」
「いえ、そんな。 いいんです、そんなこと。 ぜんぜん、平気ですから。 私、先輩の事…………」
そっと、彼女の手を振りほどく。
すぐさま反転し、背を向けた。 これ以上、ここに居たくなかった。
何故だろうか? 気づけば足は急いでいて、私はその場から逃げ出していた。 それが当たり前であるみたいに。
「ううっ…!」
泣きながら走り抜けた。 お祭り騒ぎの町の中を。
「ちくしょう…っ」
変わってしまった。 私は、変わってしまった。
何故なのだろう。 逃げるのが当たり前になっていた。 逃げ癖がいつの間にかついていて、物事に真正面から立ち向かう勇気がなくなってしまっていた。
彼女は辛い中、きちんと私と向き合って、『悪い』っていってくれたのに。
なのになんで。 どうして。 私はこんな、駄目なんだろう―――。