いつか、その日が来る前に(1)
「それじゃ、もう行きますね」
簡単な手荷物だけをトランクに詰め込み、私は空港に立っていた。
ジェネシスの制服を脱ぎ捨て、私服に着替えて出る町は少しだけ違った気分を私にくれる。 多すぎるくらいに増えた人通りの中、自分の呼吸さえ消えてしまいそうな気がした。
「でも、本当に急でしたね……」
残念そうにうつむいたメアリーの言葉に苦笑を浮かべる。
私、アイリス・アークライトが、エルサイムに戻るようにとの命令を受けたのは今から三時間ほど前の事だった。
今の私はジェネシスのアイリス・アークライトではなく、エルサイムの騎士――それが、本来の在り方。 オペレーション・メビウスの件があり滞在していたとは言え、所属が変わるわけではない。
この短かった一月余りの時間の中、ここに滞在したことで知る事が出来た事は私に様々な影響を齎した。
別世界の存在。 オペレーション・メビウスというものとユグドラシルの可能性。 そして度重なるように起きた様々な事件とその結果。
宇宙に浮かぶフロンティアと、月でいまだ眠り続ける楽園とファウンデーション。
数え上げればきりがない程の世界に隠された事実は、今も整理できないまま私の頭の中で渦を巻いている。
それでも、私は自分のなすべきことが少しずつ見えてきたのだと思う。 故に、エルサイムに戻るのはいい機会だと感じていた。
フロンティアで知った事実は、ジェネシスだけで隠しておくべき事ではないと思う。 それに、エルサイムのルクレツィアの力を得ることが出来れば、私たちの戦いはより進展するはずだ。
結局、フロンティアの事も、ファウンデーションの事も、私たちは詳しく知る事が出来なかった。 しかし、それについてはオリカさんたちが追って調査を続けてくれるそうなので、私に出来る事はここにはもうないのだ。
今やらねばならない事は世界を一つに纏め上げること。 そしてこの真実といかに向き合っていくか、話し合っていく事なのだと思う。
私は、エルサイムの騎士だ。 今、自分に出来ることから一つずつ始めなければならない。
「私は私でやるべき事をやるから、メアリーもがんばってね」
「はい……。 あの、お姉様?」
「なあに?」
「また、会えますよね……?」
いつになく不安そうなメアリーの上目遣いに揺れる瞳を覗き込み、笑顔で応えた。
「大丈夫」
髪をくしゃくしゃに撫でて、それから小さな身体を軽く抱きしめた。
「また会えるから」
「……はい」
私たちの抱擁が終わるのを待っていたのか、腕を組んだオリカがゆっくりと近づいてきた。
しかしその表情は険しく、ただの見送りのようには見えない。
「それじゃあ、よろしくね」
「……はい」
懸念すべき要素はいくつかあった。
私はトランクを軽く持ち上げ、二人に頭を下げた。
人ごみの流れに沿うように空港内部を歩き、意味もなく振り返る。
なぜだか、ここに戻ってくる事がもう出来なくなるのではないか――なんて。
わけのわからない、不安に駆り立てられながら……。
⇒いつか、その日が来る前に(1)
エルサイム王国は、国という言葉を適用しているにしては余りにも小さい国だ。
総人口は五千に満たない。 それでも今この荒れ果てた世界の中で人々が作り上げた『国』としては、立派なものである。
国土という概念は存在せず、中心にただエルサイム城とその城下町が広がり、人々はそれを囲むように生活している。
飛行機の窓から見下ろすエルサイムの景色を眺めながら、着陸する衝撃を身体で感じて静かに息をついた。
エルサイムに空港は存在しない。 外交も殆どない。 場内には防衛用の兵器離着陸用の滑走路があるものの、民間人はまだこの城下町に守られている状態にある。
城は非常に巨大だが半分は崩れ去っており、崩れた部分は今は兵器格納庫になっている。 その隅っこに少しだけ存在する滑走路に、私を乗せた飛行機も着陸した。
飛行機といっても乗客は私一人だけ。 パイロットも飛行機そのものもエルサイムのものであり、私の出迎えにわざわざジェネシスまで来てくれたものだ。
「……ふうっ」
日差しが暖かく出迎えてくれる滑走路の中、『帰ってきた』と感じるべき場面で私は気を重くしていた。
理由は様々だったが、それだけ私が変わったという事なのだろう。 一歩踏み出すとブーツの底から跳ね返る舗装されていない滑走路の感触がしっくりこない。
無数のヘリコプターが飛び交う滑走路の中、風に吹かれて歩き続ける。 途中すれ違う兵士たちに頭を下げられながら、軽く敬礼で対応していく。
思えばこういう立場の人間だったんだな、私……なんてことを考えながら。
「シドは戻ってこなくて良い……って、どういうことですか?」
話はジェネシスでの会議に割り込んできた緊急通信にまでさかのぼる。
事情を聞いたのはオリカだけであり、私たちはオリカから口頭で伝えられただけだったが、その内容はにわかには信じられない事だった。
「アイリスちゃんはすぐにエルサイムに戻って来いって。 それから、シド君は……エルサイムの騎士公爵の位を剥奪し、追放処分にするって」
「……なっ!? それは、ルクレツィアが……!?」
「わからない。 向こうもただ、言付けを賜っただけのオペレーターだったみたいだしね」
広すぎるジェネシスの通路の中、シドは何も言わずうつむいていた。
そうして小さな声で『しかたねえ』とつぶやき、私たちに背中を向けた。
あの大事な会議の中、どうしても私がここに戻ってこなくてはならないと思った理由の一つがそこにある。
シドは確かに今、戦えない身体になっている。 しかしだからといって、追放処分にする……それが、本当にルクレツィアの意思なのだろうか。
私にはわからなくなった。 そしてそれを確かめねばならないと思った。
なんだかんだで会議は衝撃の事実の連続でうやむやになってしまったし、それぞれ事実を受け止めるための時間が必要だっただろう。
だが、私はそんなふうにいちいち立ち止まっているつもりはない。 一刻も早く願いをかなえるためには、私は自分に出来ること全てを成し遂げねばならないのだ。
「アイリスサン、お久しぶりデスワ」
「……久しぶり、マーガレット」
スキップするような勢いで駆け寄って来る軍服の少女。 長い金髪の巻き毛を揺らしながら両手をポンと胸の前で合わせて微笑んでいる。
マーガレット・トゥアラ。 エルサイムの騎士の一人であり、私の部下に値する少女。
ここで生活していた頃は、彼女と共に作戦行動を取ったことも少なくはない。 ルクレツィアに高い忠誠心を抱く、彼女に憧れる騎士である。
マーガレットは私の歩調に合わせて隣に並ぶと、指先で髪の毛をくるくると巻きながら目を細め微笑んだ。
「急な呼び出しデスね。 驚きマシた?」
「驚いたわ。 それに、色々と納得のいかない事もある」
「ウフフ! アイリスサンは変わらないデスワ!」
「あなたもね、マーガレット」
マーガレットは私の一つ年下の十五歳である。
エルサイムには王であるルクレツィアに憧れて騎士……つまりはパイロットになりたがる子供も多い。 彼女はそんな志願兵の中でも卓越した技術と才能を持っている。
丁度同年代で同じ実力を持つ人間として、なんだかんだで親しくやってきた。
だからこそ妙に引っかかる事もあった。 マーガレットはなぜいつもどおり笑っているのだろう? シドとは親しかったはずの彼女が、何も聞かされていないのだろうか?
「そういえば、アイリスサン。 アナタが到着したら、案内するように仰せつかっているのでしたワ」
「案内?」
「ええ。 とても、大事なお話があるそうデスワ」
「それで、何なんですか? ぼくに大事な話って……」
ジェネシス本社ビル内部。 人気のない窓際の通路に、戸惑いの表情を浮かべるゼクスの姿があった。
少年を待っていたのは人影、カロードは窓の向こうを眺めながら日差しを受けて影を帯びながら振り返る。
ゼクスが呼び出しを受けたのはつい先ほどの事だった。 二人の間に今までこれといった接点は存在せず、いきなり呼び出しを受けるような相手ではない。
しかし、ゼクスはそれに応えた。 その意味は、彼の上着の下に隠された拳銃だけが知っている。
「――思えば。 はじめからお前は怪しい事ばかりだった」
眉をひそめるゼクス。 表層だけみれば、二人は言い争っているようにも問答しているようにも見えなかった。
ただ、カロードの静かに動く唇が紡ぐ言葉に、ゼクスは耳を傾ける。
「一年前、僕たちが遭遇した黒い機体……。 多少外装が変わっていても、あれはタナトスだった。 そしてお前はあの時同様、不思議な……『予知』のような力を持っていた。 むしろ、僕にはそれがわからない」
当たり前のように目の前にあらわれたゼクス。 そして隠す事もなく見せ付けるようなタナトスの存在。
不自然すぎる参加のタイミング。 そして、時折見せる不思議な言動。
何よりも、カロードたちには『わかる』、『同族』の感覚。
「お前の目的は何なんだ? 何故ここにいる? あの時は僕たちの邪魔をしようとしたのに、今は協力しているようでさえある……」
カロードの問いにゼクスは何も答えなかった。 ただ、上着へと伸ばそうとしていた手を引っ込め、視線を窓の向こうへと移した。
「協力、しているつもりです。 他意はありません――少なくとも今は」
「――カイトはだませた気かもしれないが、僕らを侮らない事だ。 お前を怪しんでいるやつは数知れない」
「知っています。 特にオリカさんは、ぼくの正体に気づきつつ、疑いつつ、泳がせて働かせている……。 さすがですね」
視線を再びカロードに移したゼクスは何の感情も見えない表情で静かに言葉を紡ぐ。
「それで、あなたはどうするつもりですか」
「……どうにも」
ゼクスが目を丸くするのも無理もない話だった。 問いただす為にわざわざ呼び出したというのに、カロードの返答は『どうにも』。 それはゼクスには理解できない事であったし、本人でさえ判らない事であった。
「僕は……。 人間というものが、大嫌いだったよ」
さびしげな表情のつぶやき。 カロードは背を向け、それから小さく息をつく。
「だが、今は――そうでもない。 それが、僕の中にある大切な『答え』だと思っている」
「……答え?」
「ああ、そうだ。 だからお前にも、いつかわかるときが来る」
少しだけ振り返り、カロードは微笑んだ。 その優しげな瞳は敵に向けるようなものとはとても思えず、ゼクスは再び目を丸くした。
驚きの中、立ち去るカロードを見送り、差し込む日差しの中、少年は空を見上げた。
「久しぶりだな、アイリス」
「……はい。 長期の不在、申し訳ありませんでした」
城内、謁見の間。 近代科学の発達した今の世界とは思えないような古めかしい空間が広がっている。
玉座に向かって伸びる巨大な紅い絨毯を共に歩み寄り、握手を交わした。
いくつかは割れてしまっているステンドグラスから差し込む様々な色の光に照らされながらルクレツィアは優しく微笑んでいた。
エルサイムは相変わらず、と言えるだろう。 文明の進歩を捨ててしまっていると言ってしまっても過言ではない。 無論、そこには意味があるのだが。
この国そのものを天使が襲撃してくることは殆どない。 文明の進歩した国から優先的に攻撃を加えるという天使の習性は、この退廃的な国を守っていた。
仮に来たとしてもここにはエクスカリバーがある。 おかげで永劫平和だったというわけだ。
「お変わりないようで何よりです」
「そちらもな」
真紅のマントを翻し腕を組むルクレツィア。 しかし、その態度はどこか疲れているように見えた。
どんな過酷な状況でも常に前向きだった彼女らしからず、ため息までこぼしている。 それが私にはちょっとした異常事態に思えた。
だから、そのままここできいてしまったほうが良いと判断したのだろう。 私の唇は疑念をそのまま紡いでいた。
「何故、シドを追放したのですか?」
ルクレツィアは無言で私を見下ろしていた。 金色の髪の合間から覗く青い瞳がじっと私を捉えている。
それは、一言ではいい表せないような色をしていた。 彼女はとても実直で、嘘のつけない人間だ。 故に、口よりも多く目は彼女を語る。
不安や疑念……そうした暗い感情があるように見えた。 少なくとも現状全てに満足しているとはとても言いがたい瞳だ。
「……それが、私の判断だ」
視線を逸らすルクレツィア。 私は余計に納得がいかなくなった。 だって、あなた自身が納得のいっていないことを、どう納得しろというのか。
「ルクレツィア……」
「最近の騎士は、王様にタメ口なんだな」
背筋がぞくりとしたのは、その声が何の気配もなく真後ろから聞こえたからだけではなかった。
私はその声に聞き覚えがある。 そして、その正体がなんであるかにさえ気づいていた。
それでも振り返りたくなかった。 信じたくなかった。 信じていたかった。 でも――。
「お前がアイリス・アークライトか。 思ったよりなんていうかこう……ちっこいな」
「……何故、貴方がここに? キリデラ」
エルサイムの騎士の格好をしたキリデラは酒瓶を片手に笑っていた。
キリデラ、そしてルクレツィアとの間、視線を何度も行き来させて納得できない状況を何とか飲み込もうと必死だった。
「まぁ、そう混乱しなさんな。 ちゃあんと、俺様が筋道立てて説明してやっからよ」
「……後は頼む、キリデラ」
「あいよ。 王様は準備で忙しいからな」
「ルクレツィアッ!!」
叫び声は彼女に届かない。 ルクレツィアは哀しげな目で私を一瞥すると、謁見の間を去ってしまった。
残されるのは私とこの最低な男だけ。 思わずにらみつけると、キリデラはなぜか楽しそうに笑い飛ばした。
「ハハッ! 気の強い女は嫌いじゃないぜ。 まぁ、あれだ……ここじゃなんだからな。 とりあえずお前は幽閉しとかなきゃならねーし。 こっちだ」
「……」
この状況はおかしい。 何かが起こる予兆としか思えない。
それでも私はあえて何の抵抗もせず、キリデラの後をおとなしくついていく事にした。 この男の性格はなんとなく想像がついているし、私なりに考えもある。
こんな状況になっている理由。 説明するといったキリデラの言葉を信じて、それを聞き出してから脱出を試みるべきだろう。
連れて行かれたのは城の南にある塔だった。 半分から上はポッキリと折れてしまっている半壊状態の施設だったが、中には使える部屋もあった。
キリデラも今はそこで生活している、というような事を言っていたが、私はそんな事はどうでもいい。
古びた洋室の中、やはりスプリングの壊れかけたソファに腰掛けてキリデラは酒瓶をあおった。
「さてと……。 まずは、何から話すか」
「何故貴方がエルサイムに?」
「あ? そりゃ、エルサイムと俺は協力常態にあるからに決まってるだろ」
「だから、それがどうしてなのかが知りたいんですっ!!」
「そう急くなよ。 そうだな……どうして、と言われると難しいところだ」
頬を人差し指でぽりぽり掻きながらキリデラは真剣な表情で私を見る。
その視線は今まで見てきた誰よりも強かった。 迷いという言葉を一切排除したかのような、真っ直ぐな目。
「まず、お前は何か勘違いしてるんじゃねえか?」
「……は?」
「お前の中で俺が『悪』……まあ、そりゃいいだろう。 でもよ、何でお前が『正義』なんだ?」
思いもよらない問いかけに私は何も言い返すことが出来なかった。 なぜならば、それは――まさに今、私が悩んでいた事だったからだ。
「俺と組んでたらエルサイムは悪なのか? そしてジェネシスは正義なのか? どうしてそう判断出切る? お前は真実を知ったんじゃねーのか?」
「……それ、は……」
何が正しく、何が悪なのか。
業の在り処がどこで、罪の在り処がどこで。 そして罰は、誰が下すべきなのか。
何を倒せばいい? 何を守ればいい? どこへ向かえばいい? わからない事ばかり、信じられなくなる事ばかりで、自分のなすべきことがわからない。
あれだけ憎んでいたユピテルを今はもうあの頃のように憎めないように。 天使という存在がただの『災害』ではなく、誰かの『殺意』だと知ってしまったように。
この世界を取り巻いていた多くの――本当に、多くの様々な要因が、私の心を迷わせる。
何が正義で何が悪なのか。
「ジェネシスは、この世界を滅ぼすのに貢献してた会社だ。 社長が変わって方向転換したところで、ジェネシスが殺した人間の数は間接的とは言えどもすさまじい数になる……。 それでもありゃ正義なのか?」
「……それは」
「『今』、正しければ正義か? 『今』、悪ければ悪か? お前らの言う『倫理観』なんてものは、とても空虚で無意味なもんだ。 何しろ時間の経過と共にどんどん変わっちまいやがる。 不確かなものばかりなのが当然の世界で、どうしてお前たちは正論正義正道を求め続けるんだ?」
それは、きっとキリデラには理解の出来ない事だったのだろう。 そしてそれは、私にもわからなかった。
先輩を助けたいと想い、行動してきた。 でもあの時別世界で出会った彼がユピテルだったとしたら、私は先輩には会えていない事になる。
ならば今はどこにいるのかもわからない、どうすれば助けられるのかも判らない人という事になる。
どんどん、どんどんどんどん、思い出が薄れていく。 新しい記憶と世界がどんどん私の中に入ってきて、何も知らないで居られた二年前の私を塗りつぶしてしまう。
あの頃は、ジェネシスが正義で、私の世界の全てだった。 守りたい人が居て、守ってくれる人がいた。 誰かとぶつかりあって、そうして分かり合えたとき、私は世界の事を理解したようなつもりでいたのかもしれない。
でも本当は違った。 世界は私たち個人の秤でどうにかできるほど、一定のものではない。 正義なんてどこにもない。 人類誰もが悪いところがあった。
私も――先輩も。 みんな変わらない。 出来たはずのことを、たくさん見送ってきた。 手に入るはずだった優しい世界を、いくつも手放してきたんだ。
「だがまあ、仕方のねえこった。 お前たちはどうせ、作られた運命の上……神様の手の上で転がされる人形だからな」
「そんな言い方……」
「別に物のたとえとかじゃねえよ。 そのままの意味だ。 俺たちはみんな、そういう宿命の上にあるんだよ」
話は終わりとでもいうように、キリデラは酒が尽きたのをきっかけに席を立った。 しかし、私はまだ納得がいかない。
「何をするつもりなんですか、貴方は」
「別に、何も? ただ俺は……確かめたい事があるだけだ」
それだけつぶやくとキリデラは部屋を後にした。 一人残され、私は部屋の真ん中で立ち尽くす。
「……正義、か」
キリデラの言う事も一理ある。
そう思ってしまった私は、愚かなのだろうか。