言葉、託して(2)
始まりの記憶は、風の音だった。
遠く、香る花の甘さ。 大きな腕に抱かれ、静かに眠り続けていた。
青年は、ただただ静かに少女を見つめ続けていた。 その距離は僅か、身体を揺らしただけで唇が重なってしまいそうな距離。
実際はそこまで近くはなかったのかもしれない。 けれども少女はそう感じていた。 ゆっくりと開く瞼の向こう、瞳に溢れる光の螺旋の中、そのシルエットを確かに捉えていた。
「おはよう」
彼は言った。 少女は静かに目を細める。
初めて目にした光は、少女の瞳にはまぶしすぎたのだ。 暗闇の中、静かに眠り続けてきた。 数え切れないほどの年月の果てに、ようやくその瞳に届いた光――。
だから、目を細める。 世界はかくも美しく、しかし溢れんばかりに世界を照らしあげる光は、少女の目には眩し過ぎた。
目のくらむような世界。 故に少女は目を閉じ、耳を済ませる。
五感を研ぎ澄ます。 身体に触れる青年の指先の温もりに。 静かに吹く、風の音に。
「……だれ?」
その言葉は無意識に飛び出したものだった。 少女が意識して言葉を話したわけではなかったのだ。
だが思えばそれは少女にとって致し方の無い事であり……そして同時に、それはきっと彼女の始まりの言葉だった。
「だれ?」
故に反芻する。 心の中で、そしてそれは再び唇を動かした。
ゆっくりと開く瞼。 淡く光りに照らされて、背にした眩さの中、青年は微笑んだ。
「――リイド。 リイド・レンブラム」
その姿は魂の奥底に刻まれ、忘れることは出来なかった。
何よりも印象的だったのはそう、きっとその光りや、温もりや、風の音などではなく。
きっと、そう。 光りに照らされ、くっきりと浮かび上がった、闇の姿――。
見開いた瞳の奥に、見えていたもの。
青年は、泣いていた。
ぼろぼろと涙を零し、本当に嬉しそうに、ぎゅうっと、少女の身体を抱きしめたのである。
少女はわけがわからなかった。 何をされているのかもわからなかった。 ただ目を丸くして、彼を見つめ続けた。
徐々に眩しさに目が慣れていき、そこが白い砂の上である事に少女は気づく。 目の前の少年は……スーツを着込み、凛とした表情で言った。
「君に、ずっと謝りたかったんだ」
「……あやまる?」
「ああ。 君を……ボクは、君を守る事が出来なかった。 守るって約束したのに、君を守ってあげることが出来なかった。 だから今度こそ……今度こそ、君を守る。 君には幸せになって欲しい。 そのためなら、ボクは……」
そう言って青年は……スヴィア・レンブラムは、エアリオをもう一度強く抱きしめた。
その暖かい温もりが、少女に……エアリオに、生きているという実感を与えてくれる唯一の存在だった。
物語は、四年前に遡る――――。
⇒言葉、託して(2)
約束の場所――。
月の地下に眠る神殿。 始まりにして終わりの場所。
そこにはやはり、巨大な世界樹により護られていた。
月のユグドラシルより現れた漆黒の影。 後にガルヴァテインと呼ばれたレーヴァテイン=イザナギは、ジェネシス目掛けて舞い降りた。
「ワシは、この世界を支配したい」
白い部屋だった。
限りなく広がる白い部屋。
ジェネシスの地下、ユグドラシルの間。 さらにそれよりも下には白い空間が広がっていた。
広大な大地。 その質感はガラスかなにかのようで純白なその硬質の床は上に立つ者の影をくっきりと映し出していた。
鏡面のような美しい無に映し出される巨大な影はやはり白く、その空間のどこに光源があるのか、影は四方に伸び虹のような色をゆらめかせていた。
奇妙な空間、だと言えるだろう。 いや、神秘的といったほうが正しいだろうか。 ともかくそんな場所に、ジェネシス社長であるゴウゾウ・シンリュウジは立っていた。
初老の男だった。白髪の混じった髪、最高級オーダーメイドのタキシードを身にまとう厳つい顔つきの男は、葉巻を片手に紫煙を吐き出し、白い巨人を見上げていた。
宙に浮かぶそれは、後にオーディンと呼ばれる最高最強の神であり、そしてスヴィア・レンブラムが破壊した最初の神だった。
「ワシは老い先長くないのでな。 人生に悔いはない。 好き勝手生き、己の過去に恥じるべきものなど微塵もない。 しかし、ワシもつくづく欲が深くてな」
鋭い眼光が射抜く先、美しい金髪を靡かせ振り返る白衣の女性の姿があった。
ゴウゾウとは愛人の関係にあるその女性の名はオリヴェア・ダウナー。 当時二十八歳であり、『天才』という言葉の意味全てを欲しいがままにする稀代の科学者だった。
当時のジェネシスには有能な科学者が数多く存在していた。 それは、『楽園』を求めていた人々の流れ着く場所としてジェネシスが機能していたからである。
前世紀から長い時間をかけてはぐくまれてきた月への移民計画。 テラフォーミング計画の本当の目的は神と天使を目覚めさせる事であり、約束の場所を求めたフロンティア、そしてファウンデーションの研究者たちの生き残りはジェネシスへ流れる事が多かった。
オリヴェア・ダウナーもまたそんなエデンを目指した科学者の一人だった。 十代の若さでファウンデーションに移住し、そこで同じく科学者であった両親と共に神研究を行ってきた過去を持つ。
「それで欲の対象は、神様にまで届いたのね」
機械の端末を片手に腕を組み、オリヴェアは振り返る。 ゴウゾウの葉巻を奪うと、それを咥えて微笑んだ。
「プロジェクト・レーヴァテイン――それが、あなたの夢なんでしょ?」
二人は方を並べてオーディンを眺めていた。
それはゴウゾウにとっても、オリヴェアにとっても、己の夢に向かう為の希望だった。
「スヴィアはどうしている?」
「ああ、『彼』ね。 レーヴァテインで出撃して……ゲートの破壊任務を終えてそろそろ戻るはずよ」
「そうか。 では、会議の時間に遅れないように伝えておけ」
「私は秘書じゃないんだけどね……。 まあ、いいわ。 だって私ったら、どうしようもないくらい天才なんだもの」
ゴウゾウ・シンリュウジが望んだレーヴァテインプロジェクトとは、後にスヴィアが画策したものとは大きく異なるものだった。
『神を倒す為の神の刃』。 それがレーヴァテイン・プロジェクトの本質であり、そしてその運用による世界制服こそがゴウゾウの目的だった。
当時、神を倒しうる兵器を持つ国は一つとして存在しなかった。 このままでは世界は滅ぶ――そう誰もが思っていた時代である。
それに抗し得る力があるという事をゴウゾウが知っていたのは、ファウンデーションの研究者とつながりがあったからに他ならない。 厳密に言えば、ジェネシスという組織そのものが、エデン計画に参加していたのである。
しかし、ゴウゾウに世界を滅ぼすなどという野望はなかったということだけは明記しておく。 あくまで男の狙いは、その騒動により世界を牛耳ることにあった。
エデン崩壊だけではなくその研究成果、そして異世界からやってきたスヴィアとガルヴァテイン。 それらの要素をゴウゾウがあっさり受け入れ、そして手駒として運用する事が出来た事は、この世界が生存する為には必要なプロセスであった。
スヴィア一人では世界は救えない。 サポート体制を整える為にもジェネシスの力は必要だった。 そうした意味でスヴィアとゴウゾウは互いを利用する関係だったと言えるだろう。
無論その状況をスヴィアはよく思ってはいなかった。 しかし、一人の力で全てを成す事は難しい。 あえて汚れた道を歩く事を後押ししたのは、彼のパートナーであった。
「スヴィア」
「……リフィルか」
アーティフェクタ格納庫には、当時レーヴァテイン一機だけが立っていた。
それほどの広さもなければ収めるべき機体も無かった為である。 しかし、量産化の計画は当時既にスタートしており、ハンガーの増築を行う工事の騒音が格納庫を覆っていた。
パイロットスーツの胸元を緩めながら額の汗を拭ったスヴィアのその顔立ちは、未来のそれよりもずっとリイド・レンブラムに似ており、そしてリフィルも同様だった。
冷たいドリンクをスヴィアに投げ渡すと、その隣に腰掛けた。 二人が座っていたのは乱雑に散らばった武装コンテナの上であり、褒められた事ではなかったが二人とも微塵も気にしてはいなかった。
「今日もまたお前に助けられたな」
ドリンクを一気にあおり、スヴィアは呟いた。 当時のスヴィアはイザナギで出撃する事がとても多く、リフィルは最強のパートナーだった。
「あなたを助けるのは今日が最初じゃないよ? それに、私はあなたを助ける為に『この世界』にまで来たんだから」
屈託のない笑顔を浮かべるリフィル。 スヴィアもまた微かに微笑を浮かべると、人目がない事を確認し、リフィルの唇を奪った。
それからくしゃくしゃと髪を撫で肩を抱き寄せる。 リフィルはなすがまま、スヴィアに身体を預けていた。
「お前には苦労ばかりかけるよ……オリカ」
「いいんだよ。 だって、好きなんだもん」
「そうか……」
背後を貨物車が通り、二人は慌てて肩を離した。 スヴィアの咳払いを合図に、堰を切ったように二人は笑い出した。
「……悪いな、オリカ。 お前の名前さえ、ちゃんと呼んでやれない」
「いいんだよ。 だって、リイド君が私の事、ちゃんと覚えててくれる。 私の名前も、想いも、覚えててくれるから」
「……そうだな」
「だから、リイド君も安心して!」
立ち上がったリフィルは黒髪をふわりと舞わせながら振り返り、鮮やかに笑う。
「きみの名前も、思いも……私がちゃんと、覚えてるから」
あえて言うならば、二人の間に多くの言葉は必要なかった。
生涯の間、言葉がなくとも想いが通じ合うような相手に出会う事は難しいだろう。
しかし、二人はまさにそれだった。 以心伝心――いや、一心同体だったのだろう。 言葉はなくとも、愛は伝わっていた。
「スヴィア君! ちょっといいかな?」
「……アークライトさん」
走ってくるのは黒髪の男だった。 歳はまだ若く、どこか頼りない笑顔を浮かべ、おどおどした足取りでスヴィアに近づく。
乱れた白衣とぼさぼさの髪型がいかにもだらしがないといった雰囲気をかもし出しており、スヴィアは何となくそれだけで不安な気持ちになる。
「いやぁ〜……。 申し訳ないんだけど、ちょっとスヴィア君を借りちゃってもいいかな? ちょっと、わかんないことがあって……」
「わかりました――――アークライト司令」
「ああ、うん。 改めていわれると、てれるなあ。 自分でもね、そんなガラじゃないと思うからさ」
ケイン・アークライト。 当時のジェネシスアーティフェクタ運用本部の司令官である。
二十代からずっと司令官を務めるジェネシスの研究者であり、情けない態度とは裏腹に仕事の出来る男だった。
「スヴィア君、この間の飛行ユニットの話なんだけど」
「ああ、エーテル・リブート・ドライブの話ですね」
「うん。 いや、すっかり煮詰まっちゃってね。 僕にはどうにも……。 ダウナーさんは、社長につきっきりだしさ。 うん。 ほんと、何で僕がやってんだか」
そうして二人が格納庫で話し合っていると、何やら陽気なマラカスの音が聞こえ、ふと視線を向ける。
そこには両手でマラカスを振る長身の男の姿があった。 胡散臭い笑顔を浮かべながら、二人の下に歩み寄る。
「いや〜、スヴィア君ご苦労さまでした! おかげで中国大陸が少し持ち返しそうですよ」
「ヴェクター」
ヴェクターはマラカスをベルトに挿すと軽く拍手をし、スヴィアの頭をぐりぐりとなでた。
「あなたはまさに救世主ですねえ」
「……はあ、どうも」
「ウフフフフ! まあ、何はともあれ……お姫様がお待ちですよ? 私じゃお気に召さないようでしてねえ……。 マラカス振っても笑ってくれないんですよ」
不思議ですねえ……と呟いているヴェクターを見つめ、その場にいる誰もが『いや、そりゃ笑えないだろ』と内心ツッコミを入れる。
「それじゃあ、ボクはこれで」
「あ、うん……。 それじゃあヴェクターと話し合っておくよ。 でも、わかんなかったら電話してもいいかな?」
「ええ。 それと、そのワイシャツ裏表逆ですよ」
「あれっ? おかしいなあ、ははは……」
慌てるケインとヴェクター、そしてウィンクしたリフィルの傍を横切り、格納庫を後にする。
スヴィアが向かう先は、地下……。 ユグドラシルの眠る、あのエデンにもよく似た場所だった。
世界樹の間は室内であるはずなのに広大な敷地を誇り、そして風が吹いている。 白い砂の上を歩きながらスヴィアは深く息をついた。
「さてと……。 どこに行った事やら」
「マスター」
振り返ると、そこにはメイド服を着用した少女がスカートの裾をたくし上げながら駆け寄ってくる姿があった。
銀色の髪に褐色の肌、金色の瞳の少女は息を上げながらスヴィアの傍に立つ。
「どうした、エンリル」
振り返るスヴィアは優しく微笑み、エンリルの乱れた髪を手早く直した。
「……申し訳ございません、マスター。 あの、エアリオ様をお探しですか?」
「ああ。 駄々をこねているかと思ったが、静かじゃないか」
「はい。 今は……お昼寝をなさっているようですから」
「少し覗いていく。 構わないな?」
「勿論です」
白い風が吹いていた。
吹き抜けるその風は髪を梳き、優しくどこか甘い香りを乗せてくる。
世界樹のふもと、ざわめく木陰の中に小さな二つの姿があった。 スヴィアはその二人の姿を見下ろし、声もなく微笑んだ。
そこに眠っていたのは、後にリイド・レンブラムと呼ばれることになる少年。 ユグドラシルのふもと、白い砂の大地でとてもとても深い眠りに囚われていた。
彼が目覚めた事は一度もない。 ただただ眠り、眠りに眠り続けている。
その傍ら、純白のドレスを身に纏ったエアリオが静かに寝息を立てていた。 小さな二人は寄り添うように、そして手を繋いで安らかに眠っていた。
「……エアリオが静かになるのは、リイドといるときだけだな」
「……マスター、よろしいのですか?」
「構わないさ。 ボクは確かに二人の保護者だが……行動を束縛するつもりはない。 ボクは、彼らには……『彼ら自身』になってもらいたいと思う」
「……仰る、意味が……。 よく、わかりませんが?」
眉を潜めるエンリル。 スヴィアは微かに笑顔を浮かべ、それからエンリルの肩を叩いた。
「ボクたちは、この世のどこかに自分と全く同じ存在がいる。 そしてそれは、誰だって例外じゃない」
目を丸くして、エンリルはスヴィアを見つめていた。 優しい手がくしゃりと撫で、スヴィアは目を細める。
「それでも人は自由なんだ。 誰もがそうだ。 誰もがその『誰か』であればいい。 誰かと『同じ』になる必要はないし、それに囚われる事もない」
そしてスヴィアは遠い場所を眺めるように空を見上げ、息を吸い込んだ。
見惚れていた。 エンリルは胸が熱くなるのを感じながら、息を呑む。
風に吹かれて笑う青年は、誰の代わりでもなく、誰のものでもなく、ただ己が為に生きていた。
「いつか、お前にもわかる日が来るさ」
「……私にも?」
「ボクはそう、信じている」
眠りエアリオとリイド、その二人の頬を撫でて、スヴィアは強い、とても強い眼差しで語る。
「だからきっと、偽者でも本物でもなく――――お前たちは、お前たち自身で在れ」
その言葉は、その願いは。
一人の救世主が夢見た想いは。
今もまだ、この世界のどこかで眠っていて――――。
「――エンリル」
呼び止める声に振り返り、エンリルは思考を切り替える。
記憶の中の世界から、現実へと。 細く暗い通路の中、歩く足取りを止め、視線を細める。
立っていたのは銀髪の少女だった。 黒いドレスに身を包んだ少女――エリザベスは、壁に手を当てながら真剣な眼差しで言葉を紡いだ。
「ちょっと、付き合ってくれる?」
有無を言わせぬ勢い。
エンリルは頷き、二人は共に歩き出した。