覇軍の、序曲(3)
「わたしはいつから、『裏切り者』になってしまったんだろう……」
呟いた言葉は暗闇に小さく響いた。
ジェネシス本部、司令部。 まだ二年前、リイド・レンブラムという少年とエアリオが共に過ごす事が出来た時。
暗闇の中、無人の司令部にはリフィルとエアリオの姿があった。 全てを知り、唯一エアリオの宿命を理解していたリフィルは、エアリオにとって数少ない理解者だった。
両手を背後で組み、背を壁に預ける。 俯いた瞳は何を映すでもなく、静かに闇を捉えていた。
「あなたが裏切ってしまったのは、誰なのかしらね」
リフィルの言葉にエアリオは顔をしかめる。 それは、自分でもまだはっきりとした答えの出せていない事だった。
「ねぇ、エアリオ。 私はね? あなたにリイドを任せて、よかったと思っているの」
「……」
「私じゃきっと、ここまでリイドを信じてあげる事も出来なかったし、見守ってあげる事も出来なかった。 そばに居るのが辛かったら逃げた私と違って、あなたはどんなに辛くてもリイドの傍に居たわ。 どんな時も……リイドと共に歩んできた。 涙も、笑顔もね」
「リフィル……。 わたしは、」
エアリオの言葉を遮るようにリフィルは銀色の髪の撫で、屈んで視線をエアリオと合わせた。
「スヴィアの言う事全てが正しいとは限らないわ。 私もそう。 だって、私たちは……『未来の一つの可能性』を知っているだけに過ぎないから」
確かに、リフィルとスヴィアが生きた世界は滅ぶという結末を迎えた。 だがそれは末端可能性の一つに過ぎない。
「だからこの世界は、この世界として動いている限り……別の結末を迎える事だって何も不思議なことなんかじゃなく、当たり前のように起こり得る事なのよ。 むしろ、別の可能性を内包したこの世界が、別の結末を迎える方が、とても自然」
「……リフィルは、スヴィアを信じていないのか?」
その問いかけはリフィルにとって決して単純なものではなかった。
悲しげに微笑み、それから本心を口にする。
「私は、この世界の誰よりスヴィアを信じてる。 彼のやる事にはきっと意味があるんだって思ってる。 でもね……。 『狂信』と『愛』は違うのよ」
そうして本心を口にする事が、今まで自分が利用してきた少女に対するせめてもの贖罪なのだと、リフィルは感じていたから。
「人は皆間違えるものよ。 一度や二度ではなく、何度も何度も繰り返してしまうもの。 だからねエアリオ……? 愛しているのなら、その間違いを正さねばならないこともある。 間違いであると気づかせねばならないこともある。 身も心も全て誰かに預けてしまうのは、他者に対する逃避に過ぎないわ。 関わり愛すということは、他者に依存すると言う事とは全く異なるの」
「……愛?」
「そう……ラブイズパワー。 スヴィアはね、あなたが思っているほど利口な人じゃないわ」
「……?」
「無鉄砲で、無茶で。 本当、子供っぽい人なのよ、あの人は。 自分の信じた事を、やり通すことしか知らないの。 たった一人の力で、それが出来ると信じているのよ」
「まるでリイドだな」
「そうね。 まるでリイドね」
そうして二人は笑いあった。 誰も居ない空間に小さな声が響き渡り、リフィルは静かに立ち上がる。
「自分の信じる正義を、あなたの感じる愛を信じなさい。 そしてそれに背く事を、決してしてはならない。 仮にそれが、誰かの命令でも」
「……わたしが信じるもの」
「そう。 辛いけれどね。 それが、生きるってことなのよ」
何の為に生まれ、何の為に生きて、何の為に死ぬのだろう。
「素晴らしいな、やはり! 『イヴ』としての特性を彼女は間違いなく所持している! 証拠に見てみろ! どんな怪我をしても、傷跡さえ残らないではないか!」
毎日生きることが苦しかった。 多分それが苦しすぎたから、わたしは考える事をやめてしまったのだろう。
考えなければ苦しまずに済む……。 何もない場所には、何も生まれない。
心の中が空っぽなら、きっと苦しまないで済む。 そこには幸せもないけれど、苦しみも存在しないのだから。
「我々が神と呼んでいる存在は、恐らくはただの雑兵でしょう。 本当の唯一絶対の神とは、別の場所に居るものです」
「それは創造主という意味か? だとしたらサマエル……お前の考えは逸脱しすぎている。 本物の神が存在するのならば、僕たちにどうにかできる代物ではない」
「それをどうにかする為の力がアダムとイヴ……そうでしょう? エアリオ・ウイリオ」
神の器。 世界の卵。 破壊と創造の女神。
わたしに与えられた様々なもの。 その全てが一つ残らず、わたしは大嫌いだった。
でも、言う事を聞かないと痛い目を見る事になるから、おとなしく従うしかなかった。
違う……。 そんなことさえ考える事もなく、ただ当たり前のようにそうしていただけだ。
毎日誰かの言う事を聞いて黙っているだけの日々。 それは生きているといえたのだろうか。
違う……。 生きているとか死んでいるとか、そんな事さえ頭になかっただけだ……。
「レーヴァテイン、トライデント、エクスカリバー。 三機の神の武器を手に入れたのなら、お前はどこに向かうつもりだ?」
「天と地を繋ぐ架け橋を創造する。 その為に力を使うまでです。 せっかく手に入れた力ならば、世界の為に使わねばもったいないでしょう」
「月のユグドラシルを手に入れるつもりか……」
「……神話で言うならば、本当のヴァルハラとは月にあるのでしょうね。 地上界に居る以上、我らは永遠に神の国へは辿り着けない」
「現実と神話は異なるものだ、サマエル」
「子供たちに夢を背負わせるつもりか」
「夢を見る事を忘れたら、人間は生きてはいけないものなんですよ」
大きな手が両方の肩に乗る。
顔を上げると、冷たい笑顔がわたしを見下ろしていた。
「人に夢を見せてください、神々の子よ。 美しきイヴよ」
誰かの夢と理想を詰め込んで、わたしは飛ばなければならない。
ならば、「わたし」というものは、一体どこにあるのだろう。
何の為に生まれ、何の為に生きて、何の為に死ぬのだろう。
一体、何の為に――――。
⇒覇軍の、序曲(3)
その圧倒的な存在感に、誰かが呟いた。 あれこそ本当の化物だ、と。
大空へと舞い上がった光の翼が羽ばたく度に地上は荒廃する。 吹き荒れるフォゾンの嵐は、ありとあらゆる命を侵食し滅ぼしていく。
舞い散る純白の羽は世界中に降り注ぎ、それに触れたものは人も大地も機械の塊でさえ蒸発した。 一つ一つが美しい「死」そのものであり、魅入ったものから命を落とす。
敵も味方も存在しなかった。 誰もがその化物に恐怖し、一斉に攻撃を開始する。
阿鼻叫喚の戦場の中、死の雨を掻い潜りレーヴァテインは飛んでいた。 あまりに巨大すぎるその姿に、思わず息を呑みながら。
「一体何が起きてるんだ……!」
響き渡るのは歌声。
言葉にならない言葉。
その音一つ一つに意味を求める事は出来ない。
ただその全てに想いがあり、全てにメッセージがある。
この世界にある命に訴えかける何か。 この星に生きる全てに訴えかける何か。
何かが、そこにはあった。
それは考えるのではなく感じるもの。
誰もがその音に冷静さを失い、我を見失い、意味を見失った。
羅業への恐怖は次第に薄れ、代わりに仲間同士で撃ちあいはじめる。 ありとあらゆる場所で戦闘が勃発し、めちゃくちゃに弾丸が飛び交った。
誰もそれに逆らう事が出来ない。 まるで命令を忠実に守る人形のように、誰もが互いに殺しあっていた。
「エンリル、この歌は!?」
「わ、わかりません……。 ただ、これは……何?」
ふと気づけば、熱いものがエンリルの両目からこぼれていた。 カイトもまた、涙を流しながら操縦桿を握り締めていた。
心が自然と感じているのだ。 大いなる存在の歌声に聞きほれ、その魅力に全てを投げ出そうとしているかのようだった。
「身体が……言う事をきかねぇっ」
「カイトさん、集中してください! 今は……っ!! 今は、私の心だけを見てくださいっ!!!!」
「エンリルの、心……!?」
失速し、海面に墜落していこうとするレーヴァテインを何とか引きとめ、姿勢を制御する。
呼吸が乱れ、歌に耳を傾けるだけで意識を失いそうになる。 生きる事を放棄し、その命令に従ってしまいたくなる。
「くそおおおおっ!? このままじゃ、何も出来ないまま墜落する……!」
見る見る高度が落ちていく。 音速で疾走するレーヴァの足が水面に着いた時、ついにバランスを崩し機体は横転した。
音速で転倒し、海面を吹っ飛んでいくレーヴァテイン。 やがてその姿は凄まじい水しぶきを巻き上げながら海中へと沈んでいった。
「へぇ〜……こいつが神の歌声か。 なかなかオツなもんじゃねぇか」
戦地から距離を置いた小高い崖の上に、キリデラは立っていた。
機体のコックピットを開放し、生身で歌声に晒されながらも、キリデラは平静を維持していた。
まるで雪のように降り注ぐ白い羽の中、逃げることもせず堂々と立ち尽くす。 そうしてあらかじめ持ってきていた缶ビールのプルタブを開けると、それを一気に煽った。
「神様が残した世界の器、か……。 いいねぇ。 こいつぁ素敵じゃねえか……」
『隊長! キリデラ隊長!』
開け放ったままのコックピットからマサキの声が聞こえたが、キリデラは無視していた。 しかし、あまりにもしつこく呼びかけがかかるので、舌打ちをしながらしぶしぶ通信機をONにした。
「こちら俺様。 どうしたぁ、マサキ」
『仲間同士でみんな勝手に撃ち合ってます! 何が起きてるんですか!? 隊長は今どこに!?』
通信機の向こう側では銃声が響いていた。 キリデラは頬を緩め、謳うように口ずさむ。
「そうか。 じゃあ、まあ頑張れや」
『頑張れって……そんなっ!』
「そうだ、マサキ。 死にたくなかったら耳塞いでな。 まあ……あんまり意味はないかも知れねぇが、逃げるくらいの余裕は生まれるはずだぜ」
『ぼくは逃げない! キョウを救わなあかんのや! キリデラ隊長! 羅業を止める方法を!!』
「あ? そんなん、キョウかイヴのどっちかが死ねば止まるだろ」
『なっ……』
絶句するマサキを他所に、キリデラは通信を切った。
何の音も聞こえない。 聞こえるのは歌声のみ。 深く深呼吸し、キリデラは叫んだ。
「俺様は生きてるぜええええっ!! 神でさえ俺を殺せない!! 俺は死なない! 最強だ! ひゃははははははああああっ!!!!」
「イヴの歌声……素晴らしい。 久しぶりに聞きましたねぇ」
ジェネシス本社ビル内部。
私室にて羅業の映像を眺めているヴェクターの姿があった。
大空を舞うその姿、そして懐かしい歌声を耳にし、満足そうに微笑む。
「これでまた一つ、オペレーション・メビウスは段階を進めた。 神の座までは、後僅か……」
低く笑い声を上げながらヴェクターは目を細めた。
「これが羅業……! それに、この歌は……何――――?」
歌を聞いた時、それは恐ろしいものではないとアイリスは感じていた。
ただ、物悲しい。 どうしようもない人の世界の業と悲しみを乗せたような歌声に、思わず胸が苦しくなる。
それは誰の願いなのか。 心の境界線を破ってやってくるその凶悪なまでの愛おしさに抵抗し、アイリスは静かに瞼を閉じた。
「私に――――」
歌声がヘイムダルの動きを鈍らせ、アイリスの五感を奪っていく。
しかし、アイリスはあせってはいなかった。 驚きもない。 ただ至極冷静に、声を上げた。
「私に触れるな――――っ!!」
世界が軋むような音が響き、ヘイムダルは歌声の支配を逃れた。
ちりちりと、焦げ付くような音がする。 アイリスが再び目を見開くと、そこに歌声など届いていなかった。
こんなところで涙を流している暇などない。 アイリス・アークライトは、リイド・レンブラムを救うと決めたのだから。
悲しむ権利などない。 絶望する権利などない。 あるのはただ前に進む両足のみ。 行軍する、両足のみ……!
「ギャラルホルンで……! 狙い撃つ!」
あわせる照準。 拡大する歌声の発生源。 そうしてアイリスは目を見開いた。
そこで歌声を奏でる女神の姿がそこにはあった。 白い光の翼を広げ、美しい輝きに包まれながら歌い続けるエアリオの姿が。
淡い光に囲まれ、踊るようにエアリオの周囲を廻るそれらはまるで一つ一つが意志を持っているかのようにさえ見える。
そして光が形を成し、瞳のような形状で遥か彼方のアイリスを捉えた時、ヘイムダルのレーダーが警報を鳴らした。
「神話反応……!? くっ!」
直後、旋回するヘイムダルの真上から閃光が降り注いだ。
それらはヘイムダルの軌跡をなぞるように海を切り裂き、水しぶきを巻き上げる。
「そんな……! さっきまで反応は無かったはずなのに!」
腕部装着型に改良を施されたガトリングガンを発砲しながら海面すれすれを移動する。
頭上には数体の神が浮遊していた。 円形の宝石に翼を生やしたようなそれらは、数秒間隔で色を変えながらヘイムダルに接近していた。
半透明な肉体に模様が浮かび上がると同時に無数の光線がアイリス目掛けて放たれる。 光の雨を掻い潜りながらガトリングを放つヘイムダルに纏わり着くように、一定の距離を保ったまま敵は追従した。
四方八方から放たれる攻撃をかろうじて回避しながら迎撃していると、さらに遠方からも神話反応が続々と増え続けている。
「何て数……!? でもっ!!」
ギャラルホルンの先端部分が開放され、銃口がラッパ型に変化する。
次の瞬間放たれた光の矢は一本ではなかった。 超高出力を誇るが、一直線であるが故に回避しやすいギャラルホルンの魔弾を、拡散させることにより広域を攻撃可能にした砲身。
それは、アイリスが眠っている間にルドルフが改良を加えたギャラルホルンの新能力であった。 拡散砲撃を受けた周辺の敵は蒸発し、ヘイムダルは重苦しい金属音を立てて弾薬を再装填する。
「残り四発……ちょっと厳しいかも」
次々と沸いてくる天使と神の大軍団が壁となり、羅業には近づく事すら出来ない。
天使たちは命を惜しまず突撃を繰り返す。 まるでその背後にあるものがとても大切なものであるかのように。
嫌な予感が過ぎった。 ともかく単騎で撃破できるような相手ではないことは確かだった。
拡散モードで二発弾丸を放ち、敵の戦線を破壊する。 しかし次から次へと沸いてくる敵に対し、拡散砲撃ですら追いつかないのが実情だった。
その時だった。 どこからか歌声が……そう、『もう一つ』の歌声が聞こえてきたのは。
エアリオの歌とは違う。 そこに込められた願いは悲しみではなく、大切なものを守る為の祈り。
べたな表現をするならば、それは愛と勇気だった。 海中から聞こえてきた歌は次第に広がり、周囲のスサノオ同士の争いも中断させていく。
「この歌は……?」
アイリスの手も止まっていた。 そうして思わず聞きほれてしまうほど、二つの歌声は自然と、まるでそうなることが当たり前であったかのように、融和していくのだ。
二つの歌が重なり合い、一つになった時――――世界を包み込んでいた悲しい声は消え去った。
海中から羽ばたく漆黒の光の翼が世界を照らし、レーヴァテインが両手を広げて舞い上がる。
「……エンリル……あなたなの?」
顔を上げるアイリスの視線の先、レーヴァテインのコックピットでエンリルは小さく歌を口ずさんでいた。
それは誰に教わったものでもなければ、今自分で考えたわけでもない。
それを謳うことが生きる意味であるかのように、運命であるかのように、当たり前のように口ずさんでいたのだ。
そしてエンリルは知っている。 その歌こそが、エアリオを救う為の鍵になるのだと。
「行くぜ、レーヴァテイン……! エアリオを……キョウを、助けるんだっ!!」
天使の群れが壁を成す。
しかし、レーヴァテインにとってそれは意味を成さない。
手を翳し、光の波動で全てを分解し、薙ぎ払う――――。
「ちっ!! 障壁か!」
ぎしり。 空間がゆがんだ。
羅業の周囲を覆う巨大な結界が、レーヴァテインの進行を防いでいた。
「そういえばこれ……前は壊すのに苦労したっけな」
カイトが苦笑すると同時に頭上から赤い光が降り注いだ。
ギャラルホルンの閃光が障壁に激突し、亀裂を生じさせる。 同時に視認したヘイムダルの姿にカイトは頬を緩ませた。
「アイリスッ!!」
銃剣を腰のホルスターに収めたレーヴァテインが片手を空に振り上げる。
レーヴァテイン=ティアマト。 その力は風、そして雷。 嵐のレーヴァテイン。
迸る雷鳴と暴風が一瞬で雲を薙ぎ払い、空を晴れ渡らせる。 同時に結界もあっさりと吹き飛ばされ、その空間にギャラルホルンを携えたヘイムダルが突っ込んだ。
「行ける……! この新しいギャラルホルン――フォゾン・サンバーならっ!」
大型狙撃砲、ギャラルホルン。 その第三の能力は、刀剣。
超巨大なフォゾン刀を構築し、両手に構えてヘイムダルが全身ごとぐるぐると回転しながら、その鋭い光をノアに食い込ませる。
「斬り……っ! 裂けぇぇぇぇええええっ!!」
鳥の頭部から刃を入れ、そのまま最大出力で加速する。
刃を側面に突き刺したまま駆け抜けたヘイムダルは、文字通り巨大なノアを両断していた。
と、同時にレーヴァテインがエアリオの元へ向かっていく。
「エアリオーーーーーーっ!!」
声はカイトのものではなかった。
今までの人生で最も大きな声だった。
エアリオに降り注ぐのはフォゾンで出来たガラスのような薄い膜。 はらはらと煌いて、レーヴァテインの手が伸びる。
歌は止んでいた。 エアリオは胸を押さえながらその場に膝を着く。 歌は、エアリオの体力を確実に奪い去っていた。
「エンリル……」
羅業のコックピットは、それそのものが巨大な空間だった。 羅業全体の大きさを考えれば当然のことであり、レーヴァテインはそこにすっぽりと収まってしまった。
跪き、コックピットを開く。 風が吹き荒れる庭園の中、エンリルは身を乗り出した。
「エアリオ! 一緒に帰ろう! 迎えに来たの! 一緒に帰ろうっ!!」
「……どうしてなんだ、エンリル」
俯いたままのエアリオの声はとても小さなものだった。 風の声にかき消されそうなそれは、しかしエンリルの耳に確かに届いた。
「おまえの運命は……。 おまえの幸せは……。 わたしが、奪ってしまったんだぞ……?」
「……エアリオ、記憶が……」
エアリオは涙を流してはいなかった。 今までずっとそう、本当に大切な気持ちは誰にも開け放つ事がなかった。
かつてのエアリオ・ウイリオ。 嘘と欺瞞に満ちた、悲劇の少女。 裏切りのイヴ。 その記憶を、取り戻していた。
金色の瞳は訴えかける。 様々な思いを。 そしてエンリルもまた、静かに目を閉じた。
そう。 エンリル・ウイリオの人生は、エアリオのせいで支配されてきた。
エアリオの代用品――――それが、エンリルの運命だった。
人工的に生み出された神の器。 ガルヴァテインの干渉者。 全てはただエアリオの代用であり、その姿も、声も、何もかも、エアリオに支配されていた。
偽りの少女。 虚像、偶像。 ただそこにいるだけで、既に存在を否定されていた。
自由などなかった。 そう、エンリルはただのバイオニクル――エアリオと元に作られた、クローンにすぎない。
カロードがリイドに対していい印象を抱いていなかったように。 エリザベスがエアリオを認められなかったように、 エンリルもまた、『オリジナルになりたい』という気持ちを抱えていた。
長い間、その気持ちは胸の中に渦巻いていた。 エアリオを殺して本物になりたいと、そう考えたこともあった。
スヴィアにふさわしい干渉者は自分であり、エアリオは必要ない――。 そんな風にさえ、考えた事もあった。
しかしそれらは全て、過去の事だ。
「私は……」
スヴィアを失ったエンリルと、記憶を失ったエアリオ。
大切なものがすっぽり抜け落ちた時、自分と同じ姿で、自分と同じく大切なものを失ったエアリオの存在が、どれだけ救いになったか。
共に歩いてくれる人の存在が、どれだけ救いになったか。
姉妹として、双子として、共に謳うことがどれだけ救いになったか。
「私は……っ」
迷う事など必要ない。 そう、諦めるくらいなら、最初から叫んだ方がマシだ。
「私はそれでも構わないっ!! そうでしょう、『姉さん』!? 戻ってきて、エアリオ! あなたを、愛してる――――っ!!!!」
コックピットから飛び降りたエンリルを包み込むように、翼を広げたティアマトの風が舞い上がる。
二人の間に言葉は要らなかった。 駆け出したエアリオがエンリルを抱きとめ、二人は風の中心でお互いの存在を見つけた。
「おかえり……エアリオ」
「ただいま……エンリル」
エアリオが、涙を流していた。
ずっと堪えて、ずっと我慢して。 ずっとずっと、流す事が無かった涙を。
それを抱きしめ、受け止め、エンリルもまた泣いていた。
お互いが同じすぎるからこそ、分かり合える事も在る。
憎しみあってしまう事も在る。 だがそれでも、二人は違う道を見つけたのだ。
罪を犯しても、それを許してくれる誰かがいれば救われる。
そんな当然の事を、二人は本当に幸せに感じていた……。
「そこまでや」
風の音が止んだ。
拳銃を構えたキョウが、布で胸元を押さえながら二人を見つめていた。
「キョウ……」
「まだ、終わってない……。 まだ、うちは役目を果たしてない……。 まだ……。 まだ……っ」
引き金が引き絞られる。
エンリルを庇うため、エアリオはその身を前に晒した。
それはあの時、リイド・レンブラムを救おうとした姿に良く似ていた。
しかし……その小さな身体を覆いつくす、大きな背中が二人を守っていた。
銃声が鳴り響く。 ぱたぱたと、白い床に赤い血液が零れ落ちた。
「いい加減にしろ、キョウ……」
「……カイトちゃん」
銃弾を、カイトは腕で受け止めていた。
しかし痛みはない。 義手は確かに悲鳴を上げていたが、カイトは無傷だった。
二人を下がらせカイトは前に出る。 そのカイトの眉間に銃口を合わせながらキョウは後ずさりした。
「やっぱり、止めに来てくれたんやね」
「ああ。 幼馴染の頼みだ。 世界の果てからだって駆けつけてやるさ」
血を流す義手。 カイトはキョウを見つめながら、二人に向かって叫んだ。
「レーヴァテインに乗ってろ! 羅業は墜落する!」
「でも、カイトさん……っ」
「いいんだよ、ほっといてやれ。 あいつは不死身だ。 呆れるくらいにな」
エアリオの軽口にカイトは苦笑した。 二人の足音が遠ざかっていくのを聞きとげ、カイトはじっとキョウをにらみつけた。
「覚悟は出来てるんだろうな?」
「……うん。 最初からできとるよ。 これに乗る、ずっと前から」
もち手を逆さに翻し、カイトに拳銃を差し出す。
カイトはその拳銃を手に取り、それから深く息を吐いた。
「……判ってねえ。 ぜんぜん判ってねえな」
「へ?」
突如、カイトは発砲した。 残弾全てを一息に発射する。 しかしそれは、キョウに向けられてはいなかった。
空へ向かって放たれたそれは何かの号令のように鳴り響き、そして残弾を失った拳銃は遠くへ投げ捨てられた。
「お前がしなきゃいけない覚悟は、『死ぬ』覚悟なんかじゃねえ。 『生きる』覚悟だ」
「……何を、」
「お前がこいつに乗った以上、残り数時間しか生きられないことはわかってる。 だが、その数時間を無駄にすることは絶対に許さない。 いいか、キョウ!」
キョウの両肩を力強く掴み、カイトはじっと、ひたむきにキョウに訴えかける。
「もう取り返しがつかない事をいつまでも引き摺るな! お前は自由なんだよ、キョウ! 残り数時間……この僅かな猶予を、お前は怒りや憎しみや過去のことだけにかけて、あとは孤独に死んでいくのか!? 違ェだろ!? ふざけた事抜かしてんじゃねえぞ、馬鹿野郎共がっ!!」
「か、カイトちゃん……」
「やっと、自由になれたんだろ……? お前は役目を果たす為に頑張ったんだ。 皆に役立たずとか失敗作とか言われて悔しかったろ。 悲しかったろ。 世界は変わらず、お前みたいな悲しい奴を生み出しちまう場所だよ。 でもな……最後までそれに囚われるな。 見ろよ、世界を。 ちゃんとその両目で見つめてくれ」
星が流れていく。
燃え尽きる直前の花火のように、羅業は光輝いていた。
真夜中の海と空を照らしあげた眩い光は、海を眩く輝かせ、世界の彼方まで照らしてくれそう。
そんな景色を目の前に、キョウは涙を流していた。
「――世界をナメるな」
カイトの微笑みとともに放たれたその一言は重く、とても重くキョウの胸に届いた。
もしも、この世界をもっと愛して、もっと素直に自由に生きられたのならば、こんな結末は迎えないで済んだのだろうか。
そんな思いが胸に去来する時、カイトとキョウをはさんで対岸に立つように、マサキを乗せたスサノオが舞い降りた。
両腕と頭部を潰され、ただ飛行することさえギリギリの機体で、マサキは死の雨を掻い潜ってやってきたのである。
「キョウッ!!」
上着を脱いでキョウの肩からかけると、カイトは微笑んだ。
それがきっかけだったのかもしれない。 何もかもから解き放たれたように初めてキョウは心の底から笑い、泣いて、それからマサキの腕の中に飛び込んだ。
「キョウ……キョウッ! ぼくは……お前を死なせたくないっ!! お前が何て言っても、ぼくは……死なせたくないんやっ!!」
「うちも! うちも、死にたくないっ! 死にたくないよおおっ!!」
二人は抱き合ってわんわん泣いた。 子供のように。 それはずっと孤独な戦いで忘れていた涙だった。
それを見つめ、カイトはほっと胸を撫で下ろす。 やる事はまだ、残っている。
「マサキ! さっさとキョウを連れて逃げろ! 羅業は落ちる! 時間の問題だ!」
「わかった! キョウ、こっちや!」
二人の姿がスサノオの中に消え、羅業から離れていくのを見届け、カイトはレーヴァテインに戻った。
「いきなりで悪いがエアリオ。 いけるか?」
「……ん。 おまえこそ、わたしをナメるなよ?」
「そうだったな!」
漆黒の装甲が黄金色に塗り代わり、青白く光輝く弓矢を手にレーヴァテインは飛翔した。
レーヴァテイン=マルドゥーク。 全てを貫く流転の弓矢を構え、カイトは頭上から羅業を見下ろした。
「全ての悲しみを連れて行け……羅業っ!!」
光の矢が放たれた。
その着弾を以ってして、騒動はひと段落となる。
残されたのは、海ごと凍らされた羅業の残骸と――、
悲劇から開放された、人々の笑顔。
闇夜を凍てつかせ、レーヴァテインが舞う。
懐かしい感触に微笑み、エアリオは安堵のため息をつきながら心の中で呟いた。
ただいま。 レーヴァテイン。
レーヴァテインはしばらく何をするでもなく、凍てついた海を見下ろしていた。
それはきっと、その景色がとても幻想的で……とても美しかったからだろう――――。