覇軍の、序曲(1)
日本列島南部。
かつてはその土地にも、人々が暮らす日常の姿があった。
しかし今は荒廃し、人の姿は一つとして見当たらない。 雨が降りしきる薄暗い空のせいで、真昼だと言うのに世界は闇に覆われていた。
憂鬱な気分を促進するような廃倉庫の広さの中、小さなノートパソコンを操作しながら膝を抱えているキョウの姿があった。
もう長い事、ただその画面だけを見つめていた。 誰の声も届かない世界の果てのような場所で、誰の命も感じられない場所で、静かに呼吸を繰り返す。
世界のどこかで、今も自分のように沢山の理不尽と戦っている人がいるのかもしれない。 それらから助けを求めている人がいるのかもしれない。
東方連合に来る事がなかったら、きっとあのままのたれ死んでいたに違いない。 ここで生きている事、それが既に一つの奇跡なのだ。
それでも。 尚。 それ以上の未来を望んでしまうのは、人が人であるゆえの業なのだろうか。
「キョウ」
背後からの声に顔を上げるキョウ。 背後に立っていたのはエアリオだった。 東方連合から支給された和装を着用し、髪には簪をさしている。
「……なんだ、この服は?」
エアリオ自身がその状況に驚いていた。
襲撃者たちはエアリオを拉致し、その後どうしたかというと……特にどうにもしなかったのである。
凄惨な拷問でさえ覚悟していたエアリオにとっては完全に拍子抜けする事態であり……なおかつ見張りがこの間の抜けた笑顔を浮かべている少女だというのが、よりエアリオの疑問を加速させていた。
「なんか、メイドみたいな連中に着せられたぞ……」
「メイドって……日本じゃメイドって言わんのよ〜。 でも、服は血まみれだったやん? なんかかわいそうだったんやもん、しゃあないやん」
「……ん。 もう何か色々認識した」
「ほえ?」
しばらくにこにこしながらエアリオを見つめていたキョウだったが、すぐにおろおろと慌てはじめ、頭を抱えて叫んだ。
「ああああああっ!? 世界的アイドルが目の前におるーーーーっ!?」
「……おまえ、ばかだろ?」
「うあーっ! 世界的アイドルにばかっていわれた〜! えへへへ!」
「なんでうれしそうなんだ」
「だって、前々からファンだったんやもん……」
腕を組み、エアリオはため息をついた。
緊張感のない状況だ。 様々な恐怖心や不安は一瞬で吹っ飛んでしまった。
そこが旧日本列島であるということを、エアリオは判断できない。 ただキョウの様子や着せられた服装などから、大まかな予想はついている。
「東方連合が、どうしてわたしを拉致するんだ?」
「……エアリオちゃんは、さ」
膝を抱えたまま、キョウは俯いた。
「この世界で生きていくって事は、どういうことなんだと思う?」
「……?」
エアリオにはその質問の意味がわからなかった。
生きると言う言葉の意味はそれこそ容易にたどり着けるようなものではなく、突然投げかけられたクエスチョンに即アンサーというわけにはいかなかった。
自分なりにその結論を考えていると、キョウは苦笑して言葉を紡いだ。
「『戦うこと』」
「……戦う?」
「例えば、ね。 人は一人きりじゃ、世界にある何もかもを理解する事が出来ない生き物なんよ? 嬉しい、悲しい、悔しい……あったかい、さむい、さびしい……痛い、苦しい……なんでもな、全部誰かから与えられてるものやねん。 人間はだから一人きりじゃ、生きているとはいえないんよ」
雨音が響いていた。
エアリオは黙ってキョウの言葉に耳を傾ける。
「でも、人はどうしようもないもんやから。 どうしても、人を傷つけてまうから。 でもそれって、悪いことなんかな? 痛みも苦しみも、人に与えることが出来たら……それを教えてあげることが出来たら、うちは幸せだと思うねん」
「痛みを?」
「……どうしたら、人は一つになれるんやろな?」
それは、心を一つにするということ。
「例えばきっと、一つのことに誰もが夢中になれば、心はその一瞬だけでも一つになれるんやないかな」
大好きな何かに熱中している間や。
大嫌いな何かを、憎んでいる間や。
「うちは……そんな風に、誰かに愛を与えるきっかけになれたら、ええと思う……」
エアリオは何も言う事はなかった。
ノートパソコンの画面には、電子メールの送信画面が開いていた。
ただ誰かに助けを求めるように、メールの送信画面が点滅していた。
⇒覇軍の、序曲(1)
雨が降りしきる真昼の海上を疾走する黒い影があった。
水しぶきを巻き上げながら駆け抜けるその姿は優雅で幻想的で、雨に濡れたその姿はどこか物悲しくもあった。
レーヴァテイン=ティアマトがヴァルハラを無断で発ってから既に十分が経過していた。 ひたすらに沈黙を守っていたカイトとエンリルであったが、ようやくここに来てカイトが口を開いた。
「エンリル」
「……はい?」
「悪いな、付き合わせちまってよ」
「……いえ。 私も、そこに守らねばならないものが、ありますから」
「そっか」
二人の会話はそこで途切れた。
それ以上の会話は必要なかった。
「……あの二人は、私を何だと思ってるのかな〜〜っ!?」
ジェネシス本部、アーティフェクタ格納庫。
忽然と姿を消したレーヴァテインの姿にオリカは頭を抱えていた。
傍らではルドルフがエンリルのノートパソコンを操作し、苦笑を浮かべている。
「あの……レーヴァテインって、どういうことなんですか?」
連れてこられたものの、何の説明も受けないうちに鳴り響いた異常事態を知らせる警報により、何もかも中断されてしまったアイリス。
長すぎる後ろ髪をオリカに渡された髪留めで括りながら首を傾げていた。
「ええとね……アイリスちゃんのいないうちに、レーヴァテインがユグドラシルから出てきてぇ」
「えっ!? レーヴァテインが!?」
「う、うん……んでえ、なんかそのあと色々あってぇ……」
『司令! 上層部から何事かと問い合わせが大量に入っているのですが、そちらにまわしていいですか!?』
「え? いや、だってそんなこと言われても知らないし……」
「オリカ! エンリルが誰かとやり取りしていたらしいメールを復元できたぜ!」
「え? あ、ご苦労様ルドルフ君。 それみせてくれる?」
『オリカ・スティングレイ! これは何事だ!? なぜレーヴァテインを出撃させた!?』
「え? それはこちらでも現在調査中です。 機密事項に該当するためお答えする事が出来ません」
「オリカさん! どうしてレーヴァテインが!?」
「え? それも調査中……んがああああああああああっ!!!! うるさああああああいいぃぃいっ!!」
頭をかき乱し、ホルスターから拳銃を抜いたオリカは、格納庫内に設置されているスピーカーを何度も打ち抜いた。
すると、司令部から聞こえていた耳障りな上層部の声が聞こえなくなった。 すっきりした表情で深く息を吐き出すと、鋭い眼差しでアイリスを見つめる。
「説明している暇はないの。 ……わかった?」
「は……っ、はい……」
「ルドルフ君、パソコン寄越して」
「お、おおう……」
おずおずとパソコンを差し出すルドルフ。 二人はオリカが文面を読み終えるまでの間、かちこちに緊張したまま隅っこで震えていた。
「ルドルフ君、アイリスちゃん」
「「は、はいっ!?」」
「緊急出撃。 向かう先は旧日本列島、沖縄近海無人島」
「「りょ、了解!」」
二人は同時に気をつけし、それから敬礼までしてしまった。 それを見てオリカは満足げに微笑むと、何時ものゆるい様子に戻った。
「とにかく、現状で即座にレーヴァテインを追うことが出来るのはアイリスちゃんだけなの。 用意が出来たらカロードくんにも出撃してもらうから、それまで我慢して。 とにかくレーヴァテインんを連れ戻してくれれば問題ないから」
「連れ戻す……? でも、どうして……」
「時間が無いし危険なの。 メールデータはヘイムダルに転送しておくから、道中で確認して。 ルドルフ君!」
「アイリス、これを」
アイリスに手渡されたのは一枚のデータディスクだった。
「……なんです? これ」
しげしげと眺めてみるが、ラベルさえ貼られておらずそれがなんなのかさっぱり想像する事が出来ない。
「ヘイムダルにインストールしておいてくれ。 説明も全部その中に入ってる」
「……わ、わかりました。 とにかく、アイリス・アークライト、現状よりレーヴァテインの追走を開始します」
「がんばってね、アイリスちゃん。 信じてるから」
アイリスの手を握り、真っ直ぐな微笑を向けるオリカ。
それが何故かものすごく照れくさくて、アイリスは視線を逸らした。
「……はいっ」
『このメールが、カイトちゃんに届く事を祈っています』
「ん……!? な、なんだ!?」
東方連合、沖縄科学研究所。
深き地中の中に眠る、巨大な空白の空間。 東方連合でも重要な施設であるそこは、無数のスサノオによって守られていた。
そのスサノオのパイロットたちは一斉に混乱していた。 自分たちが守るべき地下の大地が、激しく脈動していたからである。
まるで生きているかのように光脈打つその大地の様子にただならぬ気配を感じた誰もが、慌てて地下へと向かう。
「おい、様子を見に行くぞ! 陣形を組み、最短ルートで……」
「隊長っ!!」
隊長機のスサノオが振り返るよりも前に、その上半身は粉々に砕かれていた。
無論、コックピットも。 肉片と血の塊になったそれは機材に埋もれ、直後紅蓮の炎に包まれた。
「敵!? どこから!?」
護衛に当たっていた兵士たちがうろたえるのも無理はなかった。 今この瞬間まで、敵の存在など微塵も感じられなかったのだから。
それもそのはずである。 襲撃者が出していたのは、味方の識別信号――――しかもそれは偽りなどではなく、機体も完全にスサノオそのものだったのだから。
爆炎を薙ぎ払い振り下ろされた巨大な棍は一撃でスサノオを叩き潰す破壊力を持つ。 不恰好なデザインの特殊機体は棍棒を振り回し、一直線に向かってきた。
「独立遊撃隊の……キリデラかっ!?」
「大正解だ兵士諸君! 褒めてやろう! そして……お別れだッ!!」
兵士たちの悲鳴が響き渡る。 彼らとて重要施設を護衛するだけの腕前のパイロットであるはずなのに、次々と殺されていく。
止められないのだ。 目の前から襲い掛かる悪鬼羅刹のような男の威圧感が。 カスタム機とは言え、同じスサノオだというのに、そこには決定的な差がある。
「応援を……京都の帝様に、報告をっ!!」
「させるかいッ!!」
キリデラと逆方向から、一機のスサノオが両手に剣を携え疾走していた。
すれ違いながら一息に三機を切り捨て、キリデラの前で停止する。
「隊長、これで施設の制圧は完了しました!」
「上出来だマサキ。 流石お前は『使える』男だ」
ざあざあと降りしきる豪雨でさえ、その炎を消し去る事は出来なかった。
仲間を切り捨てた刀についた真紅のオイルを眺め、一瞬だけマサキは躊躇する。
しかし、次の瞬間には切り替えていた。 迷いは死を招く。 ここまできてしまったならばもう、進むしかない……。
「行くぞォッ! マサキ!」
「……はいっ」
『世界が本当に正しい方向に向かっているのかどうか、私にはわかりません。 でも、きっとそれは仕方のない事で、人が同じ場所を目指し、進む事は難しいのだと思います。 でも、人はそのために沢山の努力をする事が出来る』
「……あれを使う気なのか、彼らは」
タナトスのコックピット内部でゼクスは待機していた。
特に外部と通信がつながっているわけでもなく、録音をしているわけでもない。 つまりそれは、ただの独り言だった。
「待機命令か……。 つまり、信用されてない。 あのオリカという人、それほど馬鹿でもない……」
深く、シートに背を預ける。
「同じ事の繰り返し……人間は」
目を閉じる。
出撃に備え、身体を休ませる事にした。
せいぜいあと数十分……いや、それほど必要ないかもしれない。
きっと、出撃することになるだとうと、少年は知っているから。
『カイトちゃん。 うちらは、沖縄にいます。 旧日本列島の、南の島です。 どうか、うちらを止めてください。 もう、自分たちでは止められない……ううん、うちが力不足だから、止めてあげることが出来なかった。 でもきっと、カイトちゃんの声だったら……届くって、うちは信じてるから』
「エンリルは、このメールを受信して……かつ、私たちに隠していたってこと?」
アイリスを乗せたヘイムダルが飛び去った格納庫。
ノートパソコンを眺めながらオリカは小さく微笑んだ。
「あいつにどんな意図があったのかはしらねえが、そうだろうな。 一生懸命、暗号化されてるメールを解読して、それが他の人間に届かないようにしてよ」
メールはジェネシス本部に向けて送られたものだった。
厳密には、レーヴァテインに向けて。 しかしレーヴァテインのデータは本部とリンクしている。 つまり、カイトだけが閲覧できるとは限らないのである。
エンリルは一晩中その暗号を解析し、そうしてメールの内容を知り、今度はそれを知られないように必死で工作したのである。
それが、もしかしたら仲間への裏切り行為になるかもしれないことだというのに。 それを、懸命にやり遂げたのである。
かつてのエンリルであれば考えられない事だった。 無感情、無機質な言葉と、何の色も映し出さない命を失ってしまったかのような瞳。
スヴィア・レンブラムがこの世を去り、その後一人だけ生き延びてしまったエンリルは酷い有様だった。
死ぬ事も生きる事も出来ず、毎日後悔と罪悪感に苛まれ続ける毎日。 元々感情的ではなかったその心は、より無へと近づいてしまったかのように見えた。
「きっと、大切だったんだよ。 エンリルちゃんにとって、大切なものがあったんだよ」
悲しみの最中、共に居てくれた人々。
いつでも明るく、励ましてくれたカイト。 何も言わず、ただそばにいて守ってくれたベリル。
そして記憶を失い、何もかもを忘れてしまった……もう一人の自分。
「守りたかったんじゃないかな。 そしてきっと、守らせてあげたかったんだよ。 それが間違いだとわかっていても……そうしたかったんだよ」
「変わったな」
「うん……変わった。 でもきっとそれって、素敵なことだよね――――」
「何で……あいつっていつもこうなのよ……っ」
悔しい気持ちをぶつけるように、壁を蹴飛ばした。
無茶をして、ぼろぼろになって帰ってくる。
そんな生き方が許せなかった。 何が許せないのかずっと判らず心の中にかかっていたもやの正体に、エリザベスは気づいたのだ。
「どうして、仲間を頼らないのよ……っ!!」
涙がこぼれそうだった。
悲しいのはきっとそう、彼が傷ついてしまうからではない。
その痛みや悲しみから助けてあげることが出来ない……無力であり、そして頼られていないと言う事が、たまらなく許せなかったのだ。
守られていたいなんて願ったことがあっただろうか。 そんな事は一言も口にしていないし、お願いした覚えもない。
「勝手に勘違いして……勝手に暴走して……勝手にずたぼろになって! なんで、いつもいつも……ああなのよっ」
壁を背に、涙を拭う。
そんな妹の背中を、遠巻きに眺めているカロードの姿があった。
表情を変えず、しかしその心は怒りに満ちていた。
妹がその怒りの正体に気づいたというのに。
兄は何故少年に対して苛立っているのか、その理由がまだ理解出来ないで居た。
『世界を変える大きな力があるとしたら……お願い、霹靂の魔剣。 古い世界を、薙ぎ払って――――!』
「邪魔を……するなぁぁぁああああっ!!」
まるで矢のように駆け抜けていく。 立ちふさがる敵は全て切り捨てて。
天の石版で全身を覆ったティアマトは、陸地から砲撃で迎撃してくるスサノオの部隊に突撃していく。
湾岸部から土砂のように襲い来る光の雨の中、立ち止まる事もなく、突き進む。
「カイトさん、近くに強い神話反応が……!」
「判ってる! なんだか知らないが、あれを止めないとヤバいことになるってことだけは……俺にもわかるっ!!」
無駄な争いはしない。 目指すものが最初からはっきりしていれば、余計な力を使う必要もない。
ただただ真っ直ぐに、目指す場所へ。 立ちふさがるスサノオだけを切り裂き、撃ち抜き、流星のように――。
雨の中、ゆっくりとそれは目を覚ました。
全身に張り巡らされた巨大な鉄のチューブは、雨を蒸発させるほどの熱量を行き来させ、全身を覆うほどの水蒸気を巻き上げている。
熱気とと雨の雫の向こうで、巨大な脅威が目を覚まそうとしていた。