静寂、リアライズ(2)
「うん、異常はないね。 元々、正常でもないんだけど」
アルバに精密検査を受けたカイトはその結果を聞き届け、それから席を立った。
医務室でこうして向かい合うのは初めてではない。 今まで何度もそうしてきた事だが、まさかまたアーティフェクタに乗る事になるとは、二人とも思っては居なかった。
「カイトは、またレーヴァテインに乗るつもりかい?」
「俺以外にレーヴァテインの適合者がいないんじゃ仕方ないでしょう。 乗りますよ、俺は」
「……まあ、実際それ以外に手はないのかもしれないけどね。 ただ、それなら今後もあの時見たいな戦い方ではどうにもならないこともある」
シンクロを行わない戦闘行為。 そのため故に肉体に影響を受けなかったとも言えるが、それではレーヴァテインは本当の力を発揮することが出来ない。
強力な敵、あるいは数との戦闘になった場合、それでは生き残る事が出来ない。 レーヴァテインという重要すぎる機体を操るのならば、敗北は許されないことだ。
「それでも乗るというのかな。 なれないティアマトで」
「……。 それでも俺が、やらなくちゃならないんスよ。 だったら俺は、やるしかねぇんス」
アルバが手にした紙コップの中、注がれたコーヒーに映りこむ自分自身の顔。 さえない表情の自分に苦笑しながら、アルバは目を閉じた。
「君は変わらないな。 昔からずっと」
カイトは答えなかった。 頭を下げ、それから部屋を出る。
医療ブロックの通路をしばらく歩いて病室へ。 自動ドアをくぐると、そこにはベッドに横たわったベルグが新聞を読んでいた。
「よう。 なんだ、元気そうじゃんか」
「これが元気に見えるならお前の目は腐ってるぜ」
様々な生命維持装置に繋がれ、立ち上がることも満足に出来ない体では『元気』と表現するには少々無理があるだろう。
カイトもそれはわかっていた。 軽口を叩きつつも、この状況をもたらしたのがマサキたちだと考えると、やるせない想いが胸に去来する。
「……悪かったな。 俺がついていながら、エアリオは……」
「ああ、それなんだが……なんでエアリオが捕まることになったんだ? だってよ、おかしいだろ」
「普通ならありえない状況だろうな」
エアリオはかつての記憶を失っているとは言え、その身体能力は一般人の比ではないほど優れている。
エンリル、加えてベルグも同様である。 それ故の慢心もあったのかもしれないがともかく三人は白兵戦闘でも優れた能力を発揮できる。
不意打ちだったとはいえ三対一という状況で、エアリオの拉致を許してしまった事実――。 それは、彼らの事を理解する人間にしてみれば不可解以外の何者でもなかった。
「相手は一人だったんだろ? エンリルは詳しく話してくれなかったが……」
「そう、相手は一人だった。 銃を向けられはしたが、普通に戦えば取り押さえる事も可能だった。 ただ、あの時――――」
『ベルグ!』
エアリオが叫び声をあげると同時にベルグはよろけ、しかし踏ん張って銃口をマサキに向けた。
銃弾は急所を貫いてはいなかったのだ。 脇腹を撃ち抜かれ、しかし即死の重傷ではない。 銃を向け合う二人――――そのまま行けばどちらかが死んでいたかもしれない。
しかし、次の瞬間、二人の間にはエアリオが割って入っていた。 両手を広げ、ベルグを庇うように前に出たエアリオは、無言でマサキを睨みつけていた。
『下がれ、エアリオ……ッ!』
『そんなわけに行くか! 撃たれてるんだ、少しおとなしくしてろ!』
『エアリオ……っ』
その様子を背後から見守っていたエンリルが声をかけようとしたが、エアリオは振り返らなかった――。
「じゃあ、なんだ? エアリオは自分からついてったっていうことか?」
「……そうなるな。 付け加えるなら……俺と、エンリルの命を守る為だろう」
「……エアリオのやつ……」
「……」
痛いほどの静寂が場を包み込んでいた。
役目を果たせなかったというベルグの自責の念。 そして、そんな風にエアリオが変わってくれたという事へのカイトの喜びと、そんな無茶をさせてしまったという後悔。
「カイト、頼む。 エアリオを助けてやってくれ。 あいつは口は悪いし素直じゃないが、優しい女の子だ」
「ああ、判ってる。 判ってるさ」
ぐっと、強く拳を握り締める。 変えねばならないものは、山ほどある。 決着をつけねばならない事も、山ほどだ。
せっかく芽生えたエアリオの心を裏切るような結果にしないためにも、過去を知る人間が救ってやるのが道理と言うもの。
そう、その過去を隠し……エアリオをだましている人間として、当たり前の事だと。 カイトはそう考えていた。
「んっ? 何の音だ?」
がしゃんと、何かが倒れるような音が聞こえた。
ベルグの病室は個室である。 この周辺にある病室はそれほど広くはないものの全て個室であり、物音は隣の部屋から聞こえたようだった。
「ちょっと見てくるわ」
「ああ」
自動ドアをくぐり廊下へ。 そうして隣の部屋に移動し、その病室の前につるされたネームプレートを見て、カイトはあわてて扉を開いた。
ぞっと背筋を駆け巡るひんやりとした感覚――。 かつて起きた事件が脳裏を過ぎり、同時に、悪い予感さえも。
「アイリスッ!!」
あわてて部屋に駆け込むと、そこにはベッドの上で身体を起こしているアイリスの姿があった。
何故かその部屋の中にはベルグの病室とは違い、様々な機器が配備され、無数のケーブルがアイリスの全身に伸ばされていた。
足元を覆うような数の様々なケーブルの山を飛び越え、カイトはアイリスに駆け寄る。
「アイリス! おい、しっかりしろっ!!」
「うっ……」
アイリスの髪は驚くほど伸びていた。 まるで長い時間をアイリスだけが過ごしてきたかのように。
額を押さえ、ふらふらと身体を起こす。 そうして顔を上げたアイリスの顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「いぃっ!? なんだっ!? どうしたあっ!?」
「ううっ……。 ふえぇぇぇぇぇぇぇええええん!!」
突如号泣し始め、カイトに縋りつくアイリス。 状況が全く理解出来ていないカイトは目を白黒させ、とりあえず反射的にアイリスを抱きとめていた。
「びえええええんっ!! あーんっ!! わぁあーーーーんっ!!」
「ちょちょちょ、何が起きたっ!? 何で!?」
幼い子供のように号泣し続けるアイリス。 それこそ本当に子供のようだった。 大声を上げて、両目をごしごしこすりながら泣き続けている。
普段の冷静なアイリスを知っているだけに、カイトの戸惑いも一入だった。 逃げ出したいような気持ちに駆られながら、とにかく必死にあやしてみる。
「よーしよし……なんかよくわからんが落ち着けー……。 泣くんじゃないぞー……」
「ひいーん……っ! ぐすっ……えぐえぐっ」
「どんなセリフ!? とにかく、離れてくれないとアルバを呼びに行く事もできな、」
扉が開いた。
「何の騒ぎっ!?」
エリザベス、ユカリ、それから隣で待機していたベルグが松葉杖を着いてやってきていた。
扉の向こう側の三人と、部屋の中の二人。 視線は入り乱れ、そうして静かに自動ドアは閉まって行った。 そう、カイトだけを残して。
「何かいえようっ!?」
カイトは見過ごさなかった。 ニヤニヤしながら嬉しそうに去っていくユカリの後姿と、エリザベスの汚物でも見るような冷たい視線と、ベルグの悲しそうな顔を。
「俺が何をしたああああああっ!!」
叫び声は泣き声に混じり、部屋の中を空しく木霊していた。
⇒静寂、リアライズ(2)
「それで、カイトさんはボコボコにされてしまったんですね……」
「うん……。 主にエリザベスに……」
医務室の中、カイトはエンリルと二人きりで向き合っていた。 苦笑を浮かべながら傷だらけのカイトの身体に包帯を巻き、優しい手つきで傷口をなでる。
あの後、部屋に突入してきたエリザベスによってコテンパンにぶちのめされたカイトは、そのまま床の上に無残な状態で放置され、そこを通りかかったエンリルに救われた次第であった。
目を覚ましたアイリスは直後アルバとヴェクター、それにオリカに連れて行かれてしまったため、まだゆっくりとは会話をしていない。
そんな事をしている余裕はなかったし、それ以前にエリザベスのご機嫌をどう取るべきなのか、それがカイトの頭を悩ませていた。
「しっかし、なんであいつあんなブチ切れたんだろうか……。 花瓶で殴るか普通? 頭をだぞ?」
「知っていますか? カイトさん……。 愛しさ余って憎さ百倍、という言い回しが……あるんですよ」
「なんだそりゃ?」
「……それは、自分で考えてください。 もう、手当ては済みました。 大丈夫ですよ」
微笑みを浮かべ、包帯を片付けるエンリル。 アルバが居ない為、手当てをしてくれる人が居なかったところを通りかかったのがエンリルだったのは不幸中の幸いだっただろう。
一応数名の医療スタッフも存在するのだが、今の時期はけが人が多すぎるためカイトのような軽傷……以前の事件の被害者に比べればという意味で……の、患者を診ている余裕はなかった。
元々、アーティフェクタ適合者のためだけの医療施設であるため、機密保持の理由からも医療関係者は少ないのである。
「エンリルは傷の手当ても出来るんだな。 ほんと、万能だぜ」
「カイトさんも、出来ると思います。 ただあなたは、自分の怪我の事を二の次にしすぎなだけかと……」
「ん? そうか? まあなんにせよありがたいぜ」
苦笑を浮かべ、エンリルは小さくあくびを浮かべた。 目じりの涙を指先で拭い、ぎゅうっと両目を瞑ってみせる。
「眠いのか?」
「……少し」
「夜更かしでもしてたのか?」
「そんなところですね……」
会話はそこで途切れた。 エンリルはうとうとしながらしばらくすると船をこぎ始め、カイトはそれを眺めて笑っていた。
一生懸命に眠気に逆らおうとしているのはわかるのだが、手から零れ落ちた包帯の束がころころと転がって床の上に白いラインを引いている。
「エンリル。 包帯が」
「……!」
部屋を転がる包帯をあわてて追いかけまわし、恥ずかしそうに顔を紅くして俯く。
そんな仕草一つ一つがエアリオとは違いすぎて、カイトはなんだか少しだけ嬉しくなった。
「エアリオだったら、『おまえが片付けておけ』とか言いそうだよな。 今のシーン」
「そうですね……。 エアリオだったらきっと、そんな風に言うでしょうね」
再び沈黙が場を包み込んだ。 今度は二人とも考え事をしていたせいだった。
思考の先は同じ、エアリオのことだ。 エアリオがどうしているのか。 エアリオが何をしているのか。 そして彼女が今ここにいない寂しさか。
二人の視線は交わった。 エアリオが何を言いたがっているのかすぐにわかった。 困ったような、戸惑うような瞳が、全てを語っていたからである。
「どうしてシンクロしなかったのか……だろ?」
エンリルは頷かなかった。 しかし視線を逸らさないその戸惑いに覆われた瞳が、その言葉を肯定している。
普段はアルバが腰掛けている皮製の椅子に座り、カイトは足を組んだ。
「怖かったんだよ」
「……こわかった?」
「ああ。 他人と心を交わらせる事が……。 そして、その結果、反動が発生することがな」
レーヴァテインを初めとするアーティフェクタに乗り込み、影響を受けない人間はリイド・レンブラムか、それと同一の存在であるスヴィア・レンブラムしかいない。
この世界に生きる人間はどんな人間であれ、アーティフェクタに乗り込む事で他人の心を垣間見せられ、そして夢を見せられる。
さも相手を理解したかのような錯覚。 しかし人の心の距離とはそれほど容易いものではない。
いくつものプロセスを重ね、ゆっくりと心を、身体を、想いを、重ね合わせていくものだ。 そうしてゆっくりと溶け合わせるようなやり方でしか人は他人を受け入れる事も理解する事も、受け入れてもらうことも理解してもらう事も出来ない。
想いとは常にそうしたものであり、もどかしく、歯がゆく、しかしだからこそ、伝わった時に幸せを感じることが出来るものなのである。
「レーヴァテインは……心を伝えすぎる。 人が抱える壁を、壊しすぎるんだ。 二人の心の準備がどんなに出来ていなくても……まるで恋人のように、家族のように、わかったように……錯覚させる」
「……カイトさん」
「レーヴァは……ズルいんだよ。 自分の気持ちさえ、偽らせる――。 不確かになっていく自己の境界線と想いが……本当に大切なものを、壊してしまうことだってあるんだ」
遠き日の記憶――。
イリア・アークライトという少女と過ごした日々。 それがもしも、レーヴァテインなんていうものにかかわらず、過ぎていったなら。
きっと今頃、自分の気持ちを素直に受け入れることが出来ただろう。 それ以前にもっと早く……分かり合えたはずなのだ。
守る事や戦う事にばかり囚われ、本当に大切な自分の気持ちを誤魔化してしまう。 本当なのか嘘なのか、そんな些細な事に囚われる。
「カイトさん、あなたの……反動は?」
「……『愛情』、だ」
深く息を吐き出し、消え入りそうな声で呟いた。
目を閉じ、思い返す。 レーヴァテインに乗れば乗るほど……カイト・フラクトルはイリア・アークライトを好きになっていった。
守らねばならないと必死になった。 好きでいるために様々な努力をした。 だからこそ、無我夢中に戦う事が出来た。
考え方によっては最強の反動なのかもしれない。 何一つ不自由もなく、あるいはその思いの強さゆえに力にもなり得る。
しかしそれが、カイトは恐ろしくてたまらなかった。 自分の心で、幼い頃から好きであったはずの少女を……本当に自分の心で愛していたのかがわからなくなったから。
そのせいで、失ってしまったから。 そのせいで、受け止められなかったから。 だからこそ、それがたまらなく恐ろしい。
「怖いんだよ、エンリル。 俺は、怖いんだ」
目を開き、それから泣き出しそうな笑顔で。
「お前とシンクロしたら、俺……お前のことも、好きになっちまうかもしれない。 でもな、そうなったら……俺は、自分の過去に自信がもてなくなる……」
愛情とは。
ただ、異性に対するものだけではない。
例えば、リイドやエアリオに対する優しさ。
カイト・フラクトルが抱く、歪なまでの『善人さ』の正体。
自分を前に進ませるために必要だった様々な想い。
それらが全て……嘘のように思えてしまう気がした。
「レーヴァテインでなければ……エアリオは救えません。 でも――」
席を立ち、腕を組んで、エンリルは首を横に振った。
「確かにそれは、私の我侭です。 カイトさんを無理にレーヴァに乗せる事は……やっぱり、出来ません。 それに、そうですね……。 やはり、レーヴァテインは……人の想いを軽くしすぎるから」
カイトは何も答えなかった。 エンリルはそんなカイトに歩み寄り、その頭を撫でて微笑む。
「でも、私には判ります。 あなたの優しさは、嘘なんかじゃ……誤魔化しなんかじゃ、きっとないって」
「この短期間に、そんな事が……」
ユグドラシルの間。 白い砂漠の上、アイリスを囲むようにオリカたちの姿があった。
目を覚ましたばかりのアイリスをここまで連れてきたのは、アイリスがユグドラシルにとってどのような存在何かを確認するためでもあり、同時にここが誰にも盗聴出来ない絶対的なセキュリティを誇る場所だからであった。
ユグドラシルはアイリスが部屋に入ると、全ての瞳でアイリスを見つめていた。 それは不気味な現象であり、アイリスに興味を抱いているようにもみえたが、それ以上のトラブルは発生しなかった。
いわば一種の賭けである。 また爆発でもしようものなら今度こそ大変な事になる。 しかしオリカはなんとなくそうはならない気がしていた。 だからこそ、連れてきたのだが。
「つまりアイリスちゃんは、こことは違う別の世界に、魂だけ移動してた……と、そんな感じのニュアンスでいいのかな」
「……そう、なりますね」
一応落ち着きを取り戻したのか、アイリスは目を真っ赤にしながらも正常な受け答えが出来るようになっていた。
アイリスの話を聞き終え、三人は黙り込む。 それぞれが別のことを考えているようだったが、ヴェクターの一声で静寂は突き破られた。
「その、夢で会ったメルキオールという人物が気になりますねぇ。 スヴィア・レンブラムのような存在なのでしょうか?」
「アイリスちゃんにコンタクトを取って来たって事は、まあ普通の存在じゃないんだろうけど」
「それに、ユピテルが自由に動いていたのも驚異的ですねぇ。 さらに言うと、オーディンは単体で次元移動が可能ということになりますし」
「それはちょっと違う気がしますけど……」
アイリスの呟き。 しかしその意味は今は特に問うべきではなく、誰もそれに対して深くコメントはしなかった。
「しかし、これはれっきとした第一歩ですよ。 歴史的事件と言ってもいいでしょうね。 あなたはこの世界で始めて、別世界へ渡った人間なのですから」
「……」
アイリスは少しも嬉しそうではなかった。
ただやりきれない思いと困惑した頭、そして疲れきった身体を抱え、深く息を吐き出した。
「身体検査の結果はまだ出ていないけど、一応見た目としては特に問題はないようだし、部屋で休んで構わないと思うよ」
「はい、ありがとうございます」
周囲の人間が何を言っても、アイリスはそれをきちんと聞いてはいなかった。
その心の向けられた先、自分がこの世界に返ってきた意味と、その理由ばかりを考え続けていた。
「誰を探してるんだ? アイリス・アークライト」
深い眠りから目を覚ました朝。
果てしなく降り注いでいた雨は止み、澄み渡るような青空がそこにはあった。
まるで一夜限りの夢であったかのように、リイドの姿は消え去っていた。
代わりにそこへやってきたのは、リイドと同じ顔を持つ少年。 アイリスは目尻の涙を強く拭い去り、真っ直ぐにユピテルを見詰める。
「先輩はどこに行ったんですか」
「あいつがどこで何をしているのかは、ボクにもよくわかんないね。 それに判ったとしても……きみには教えたくないなぁ」
目を細め、悪戯っぽく笑うユピテル。 しかしその瞳の向こう、何を考えているのかわからない暗闇を抱え、それはどこか背筋を凍らせるような恐怖を孕んでいる。
暗闇の瞳――アイリスはしかしそれに怯む事無く、強い歩調でユピテルに歩み寄る。
きっかけはなんだったか。 もしかしたらリイドに出会ったことがきっかけになったのかもしれない。
再会の先、再び失った光。 しかしそれは、再会の希望はゼロではないのだと、アイリスの心に微かな輝きを残していた。
ユピテルの襟首を掴み上げ、壁に叩きつける。 無表情な二人の強い視線が交錯し、アイリスは確かな口調で囁いた。
「私を元の世界に戻しなさい」
「……ふふ、あは! あははは!」
笑い続けるユピテル。 アイリスの瞳には一点の曇りもなかった。
迷いや不安、絶望……そうしたものを一撃で吹き飛ばしたのは、恐らく……そう。
自分自身の中に眠っていた何かに気づけたのはきっと。 彼に再び出会えたから。
その声が、その体温が、その眼差しが。 自分自身の中にある大切なものを目覚めさせてくれた。
「私にはやらなければならないことがあるの。 彼は心の中で泣いていた……本当に救いを求めていたのは私じゃない、彼の方だった」
歯軋りする。 そうだ。 いつだって本当に悲しかったのは、自分ではない。
全ての業を背負い、運命を背負い、それに立ち向かった人がいた。 その心の輝きにいつしか魅入り、まるで全てをわかったような気になっていた。
だがそれは間違いだ。 今はもう、思い出した。
「彼を救う。 そのためならば私はなんでもやるわ。 絶望? 可能性? 笑わせないで。 それが例え彼方の輝きだろうと、手を伸ばす事を諦めたりはしないわ。 邪魔なものは全て吹き飛ばし、私が彼の元にたどり着いてみせる……それが、オペレーション・メビウス」
ユピテルは笑っていた。
「いいね。 だったら、救って見せろよ……あいつを」
「言われるまでもないわ」
「でも、ボクにはわかるよ? 本当に泣きたいのは……君だって同じじゃないか」
にたりと、頬がゆがむ。
「自分に嘘をつくのが上手い人間だね、きみは。 そうやって強がって走り続けても、いつかは磨耗し燃え尽きる……そんな未来へ君は向かうんだ」
「……」
「せいぜい絶望の中であがいてみせてよ! ボクはね、アイリス……? そういう人間の姿を見ているのが……たまらなく大好きなんだよっ!!」
笑い声が世界に響く。
空間を引き裂いて現れた銀色の腕が、アイリスを鷲掴みにした。
記憶はそこで、途切れていた。
「アイリスちゃん」
「っ」
顔を上げた。 目の前にオリカの顔があり、アイリスはあわてて身を引いた。
「アイリスちゃんがいない間に色々あったの。 これからきみの力を借りたいんだけど……いいかな?」
「……はい?」
オリカは説明した。 アイリスが眠っている間に何が起きたのかを。
エアリオが拉致された事実を知り、アイリスは決意を新たにした。
これ以上仲間を失ってなるものかと、決意を新たにしたのだ。
れーばてっ!
第九話
『おしえてABC!』
「そんなわけで、あたしはリイドと付き合う事になったわ」
「「「 はっ!? 」」」
空が青い日だった。
窓の向こう側を飛んでいく鳥たちは一体どこから来たのだろう? ヴァルハラは宿木にしては大きすぎると思う。
ぼんやりと見つめる世界の彼方。 隣に立つイリアが何をいったのか、極力ボクは考えたくなかった。
あの妙な一件以来始めての登校。 その日の朝、ボクは何故かイリアに手を引っ張られ教卓の上に立たされていた。
後の事はごらんのとおり。 何故かイリアは盛大に事を発表し、ボクはその隣で遠い目をしていた。
「あ、アークライトさん……本気なの?」
「イリアちゃん、嘘だと言ってくれええええ!!」
など、さまざまな言葉が飛び交う中、イリアは堂々としていた。
そのときばかりはクラスメイトからの視線があまりにも痛すぎてボクはすっかり頭の中が真っ白になり、何も覚えていない。
「……ったく、イリアのやつどういうつもりなんだ」
そもそもなぜこうなったんだろう? わけがわからない。
ごちゃごちゃとこんがらがった頭の中。 屋上で風にあたりながら弁当箱を広げていると、ふとエアリオの姿が脳裏をよぎった。
『どうした? 不満そうな顔だな』
「……レーヴァか。 余計なお世話だよ」
『そんなにつっけんどんな態度を取らなくてもいいじゃないか。 せっかく一身同体なんだから、仲良くやろう』
「そういうつもりはないってば。 こっちは色々といそがしいし大変なの。 お前みないたわけわかんないの憑依させてることが誰かに知れたら大変だろうが」
「何が憑依してるの?」
「ごほっ!!」
振り返ると弁当箱を片手にぶら下げたイリアが立っていた。
さっきの会話(独り言)を聞かれてしまったんだろうか……。 あせって振り返ると、イリアはボクの隣にちょこんと腰掛けて、
「はあ」
何故かため息をついた。
ため息をつきたいのはこっちなんだけどなああああ。
「あたしはね、リイド」
「なに?」
「あんたが一人でぶつぶつ屋上の隅っこで喋ってるやつだとしても、軽蔑したりしないわ」
「お前しっかり聞いてんじゃねえか!? ちくしょうっ!! レーヴァちくしょうっ!!」
『はっはっは』
いつかこいつ殺そう。 改めてボクは心に誓った。
「さっき憑依とか言ってたけど……もしかしてあんた、『あの日』の何かと喋ってたの?」
「うっ……。 いや、その……あれ?」
そういえばこの間ボクが変身したときは二人にも声が聞こえていたような。
疑問を投げかけるように振り返ると、レーヴァは腕を組んだまま微笑んでいた。
『任意の人間にのみ声を聞かせる事が出来る』
じゃあ最初からほかの人にも聞こえるようにしろやああああ!!!
『お前の言いたいことはわからないでもない。 それに今となっては確かに、イリアには私の存在を知ってもらった方が良いかもしれないな』
半透明な身体でイリアの周囲をぐるりと浮遊してみせるレーヴァ。
もうなんだかむかつくので放置することにした。
『放置プレイだな』
少し黙ってろ。
「ほら、また。 リイド、誰と会話してんのよ」
「あ、いや……ごめん、独り言と挙動不審が趣味なんだ」
「そ、そう……。 止めはしないけど、やりすぎには気をつけなさいよ」
「うん……」
何かよくわかんない設定付加された。
イリアは紙パックのジュースをストローで飲みながらパンを齧っていた。
「イリアっていつもパンだよね」
イリアの昼食は弁当ではなく購買のパンが多い。
「うん。 うちは両親とも結構いそがしいからね。 あたしは……料理とかダメだし」
頬を掻きながら苦笑するイリア。 なんとなくその仕草がおかしくてボクも笑ってしまった。
「何よ〜」
「いや、べつに。 ボクが作ってこようか?」
「え?」
「だから、弁当。 こう見えても料理には結構自信アリなんだ。 ほら」
弁当箱を掲げると、イリアは目を丸くしていた。
それから噴出すように笑い出し、首をかしげる。
「なによそれ。 普通逆じゃない?」
「……かもね?」
久しぶりに自然に笑う事が出来た気がする。
イリアのやる事は突拍子もなさすぎてボクはいつも置いてけぼりだけど、でもやっぱりイリアは良い子なんだ。
涼やかな風がボクらの間を吹き抜ける。 イリアはその風がやむのを待つようにして語り始めた。
「あたしさ、男の子と付き合ったことないんだ」
「え?」
「だから、正直何をどうすればいいのか、さっぱりわかんなくって」
照れくさそうに笑うイリア。 ボクはそのときさまざまなものを察した。
隣に並んで風受けていると今という時間が永遠に続くような気さえしてくる。
そしてきっとこれからいくつかの時間を実際に流れていくこの距離感が、少しだけ気持ちを優しくしてくれる。
「ボクは――」
そのとき、ふと脳裏を見覚えのないはずの景色がよぎる。
それがなんなのか理解するより早く、悪寒のようなものが全身を駆け巡り、ボクは理解不能な言葉を口にしていた。
「……約束の、場所?」
「何かいった?」
「……いや、なんでもない」
額を押さえ、深く息をついた。
草原の中に立つ誰かの後姿。 見覚えがないはずなのに、それがとても懐かしく思う。
紅い髪のその人は、風を受けて立っていた。 そしてボクは……。
「リイドってさ、キスしたことある?」
「は?」
突拍子もない言葉にボクの思考はさえぎられた。
「……せっかくだし、してみる?」
「な、なにを?」
「キス」
なんだこれ。 どっかでこんなシーンを見た事がある気がする。
「教えてよ。 恋人同士がするコトとか、さ」
イリアの真紅の瞳がボクを捉えている。
嫌な汗がだらだらとあふれ出してきた。 なんでこんなことになったんだろう。 よくわからない。 わからない。
急すぎる。 こんなことってあるのか? 恥ずかしそうに髪を掻き揚げるイリアの指が、妙に印象に――――、
「あれ? 二人とも何をしてるんですか?」
思考が真っ白になる中振り返ると、声の主――アイリスはパンを片手に首をかしげていた。
「な、なんでもないよ!」 「な、なんでもないわよ!」
ボクらの声がハモり、それから動揺した互いの顔を眺める。
照れくさくなり視線を逸らしても、なんともいえない気まずい空気になっても、それでもいいと思えること。
もしかしたらこういうのが、付き合うってことなのかもしれないな……。
そんなふうにのんきに考えていることが出来る日々がずっと続くはずはないのだと、
ボクは、知っていたはずなのに。
次回! ハートフル学園ラブコメディー『れーばてっ!』
徐々にその心の距離を近づけるイリアとリイド。 それを見て、エアリオは複雑な心境を隠せずにはいられなかった!
そして三人の不思議な関係をかきまぜるように、悪の組織ラグナロクが現れる!
ヴァルハラの平和をリイドたちは守ることが出来るのか!?
更新遅すぎる次回! 『蘇る翼』を、お楽しみに!