風の中の葛藤03(登校初日の自問自答part1)
木下第二市立第二高校にしてよかった点は家の近所だから歩いて通学できることだった。見慣れた風景の中で新しい刺激を求めているもののやはり新しい世界へ進むことが怖いという思いもある。地元だから足元を見ながらでも平気で歩ける。歩きながらつくづく思う。どうして私は自分に自信がもてないのだろうと。顔が良い方では決してないと思う。かといって悪い方と思いたくない。自分の容姿は良いと思い、自意識過剰にふるまえば痛い。でも誰かに恋したとき、自分の容姿が悪いと思っていると、恐らくその恋が実ることはない。その人に声をかけるユウキがでないからだ。平均よりちょっと上、そのポジションは守りたい。でも私は平均よりちょっと上だよねと人前で言えない。ケンソンだと思われるのも嫌だし、自意識過剰だと思われるのはもっと嫌だ。でもみんな案外そうなのじゃないかと思う。私だけだろうか、こんなことを考えるのは。先生や偉い人は自分に自信を持てと言うけれど、どうすれば自分に自信を持てるのだろうといつも首をかしげる。人並みに努力して勉強した。人並みに運動部のキツイ練習に打ち込んだ。人並みに協調性を考えながら友達付き合いもしてきた。だというのに一向に私は自分に自信を持つことができない。そもそも私は先生や偉い人のお説教にも首傾げることが多い。よくある言葉。「キミは人の痛みや苦しみが分からない」。これはどういうことだと首を傾げる。キミという人が許せない悪さをしたのならば、なるほど確かにそう言わなければいけない必要性があるかもしれない。だけどちょっと待って。先生や偉い人が「キミは人の痛みや苦しみが分からない」と言ったときにキミという人が味わう痛みや苦しみはどうなるのだろうと思う。例えば教室の大勢がいる人の前でキミがそう言われたら、キミという人はクラスのみんなではないとしても一部の人から、人の痛みや苦しみが分からない、ろくでもない人間だと思われてしまうことだってあるはずだ。つまり「キミは人の痛みや苦しみが分からない」と言った当人は目の前のキミという人の痛みや苦しみが分かってないことになる。理屈が通ってないのだ。だから首を傾げてしまう。
まあそんなことはどうでもいいのだけれど。
話を戻すと私は顔が平均よりちょっと上でありたいと思う。そうして汗っかきだから化粧しない。化粧できないから当然、肌荒れ対策をしなくてはいけない。平均よりちょっと上を死守せんがために美容について常日頃から色々と苦心している。テレビや雑誌を読んで批判、検討、自己分析、再解釈を繰り返している。ファッションも雑誌や流行を常に研究している。少ない小遣いで良い服を買おうとしたら新品は買えない。私は古着屋さんで、できるだけ綺麗な状態の服を買うことにしている。くたびれた服が似合う人もいるけれども、私は似合わない方なのである。なんかみすぼらしくなってしまう。しかし古着はなかなか難しいもので。自分がかっこいいと思って買ったものが墳飯ものの滑稽さになることは意外と多いからだ。流行と個人の美意識というのはかくも難しい問題で人の目を気にする私は特にその問題点で悩んでいる。昔は親に与えられたディスカウントストアで買ったものを着ていたが中学に入ってからは自分で自分の小遣いの中から古着を買うようになった。その小遣いは中学生が貰う金額としては多い方でも少ない方でもない。だから当然悩む。欲しい服の値段、流行、自分の美意識。そうして服というものは組み合わせで幾通りも変化する不可思議な布である。目の前に掘り出し物を見つけるたびに家の自分の部屋のクローゼットの中に収められている服を思い浮かべ、批判、検討、自己分析、再解釈を繰り返す。私は悩む。一時間は当たり前だ。二時間悩むこともある。三時間悩んだことは一度だけあった。それもこれも平均よりちょっと上をキープせんがためである。ファッションの基本は足元から!靴をおろそかにしてはいけない。一番妥協しやすいところで一番重要なものである。そうして靴は機能性も併せ持ってなければいけない。私は家の靴箱の中に7足の靴を所有している。母は7足も持って何になるのよと口癖のように言うが、私のなかで批判、検討、自己分析、再解釈を繰り返した結果による美への希求的追及のよるある種の解答なのだ。簡単に切り捨ててほしくない。ケースバイケースという言葉。友達と遊びに行くときは昨日の夜から試行錯誤する。私は次の日に行く場所や、季節、その友達の性格によって左右されるその人のファッションまで考慮して選ぶ。一時間は当たり前だ。二時間悩むこともある。三時間悩んだことは四度だけあった。昔は当日の朝に選んでいたがあまりにも悩みすぎて平気で遅刻することを繰り返したの、昨日の夜に回答してから寝るようにしている。
私は胸が小さい方だ。これは気にしないようにしている。そういうことを気にする異性の人と付き合いたいと思わないから。そうして大きい人は大きい人で悩みがあることも知っているし、着る服も可能性が広がる一方で選択肢が限られていることもしっている。正直、大きい人が羨ましく思う気持ちは否定できない。でも私は小さいころはファッションモデルなることを夢見ていた。モデルさんたちの胸は小さい方が多い。だから大きい人を見るたびに私の方がモデル向きなのだと心のなかで、ほくそ笑む自分がいる。それくらいの悪さを心に秘めたっていいはずだ。神様だって許してくれる。
しかしながら私はモデルさんにはなれない。身長は高い方でも低い方でもないのだけれど、そこは問題ではなくて。モデルさん足が長くて顔が小さい。私がファッションモデルをあきらめたのは小学六年生のころ街で偶然、モデルさんとカメラマンたちが撮影している光景に出会ったからだ。タイトな細身のジャケットに短いスカート。足がスラリと長く自分とは骨格が違う。オーラみたいなものを醸し出していた。私はうっとりした後、ふと横を向いてショーウィンドウに映った自分の姿を見てがっかりする思いだった。ちっともオーラなんて感じない。私はその時、自分はモデルには向いてないと悟った。けれども諦めの悪い自分はひとつの可能性を胸に頂いた。パーツモデルである。手や足や胸や首など広告とかで使われるあのパーツモデルである。その存在を小学生に上がった時知った。中学生になるとあるいは自分にも可能性があるのではないかと思うようになった。私は足に多少自身があった長くはないけれど形はいいと思う。中学のころから姿鏡や手鏡を駆使して自分の足をどのように見せれば美しいか、批判、検討、自己分析、再解釈を繰り返した。丈がぎりぎりまで短いスカートを履いて立った状態で姿鏡を見ながら様々なポーズをとってみた。できるだけ上半身は見ないようにする。ベッドに寝そべり手鏡を見ながら思い思いのポーズ取った。できるだけ上半身が映らないようにする。時にはタイツなどを履いて見た。下着姿にはならなかった。そこまでするのはさすがにおかしい。そうして中学時代から三年間、自分が自信をもって人に見せられる角度とポーズを30種類くらい発見した。これを誰かにカメラで撮られたい願望が胸に抱いている。それは人に見せたいとは思わない。でも世の女性の中には自分のためだけにプロのカメラマンに依頼して写真を収める人もいる。やっぱりみんな自分が好きなのだ。でもプロはお金がないから無理だ。友達も無理だと思う。母も無理だと思う。男の人はお父さんでもご免こうむりたい。そうなると唯一頼めそうなのは姉ではあるが、姉は何かと私を茶化して笑い袋のように笑う人だ。私が真剣な顔して選りすぐられたる斬新普遍的な美のポーズをとるたびにカメラを持った姉は笑いをかみしめながらファイダー越しに映る私の真面目さ嘲笑するに違いない。笑われながらカメラ撮られて気持ちいいはずがないのである。結局これを誰かにカメラで撮られたい願望が胸に一人、抱いたままである。もしも私の選び抜かれた写真が撮れたとして、それを仮にクローゼットの中の壁に貼り付けたとしたら。私が毎朝クローゼットを開くたびに胸に抱く感情はどんなものだろう。完璧不変な美、これはうっとりする。自分自身が作り出したという事実、これは自己の美意識にうっとりする。新たな自分の知られざる魅力、これは自信につながる。そんな当たり前の幸せ私も感じたい!
けれども三年間の間に同じ世代の色んな足を見るうちに自分の足がそれほどでもないことに気付いた。悪くはない。けれども自慢にはならない。私はあまり自分の足に自身が持てなくなった。
ある時、自分の隠れたる魅力を発見した。膝がしらである。これはなかなかのものではないかと気づき、慌てて自分のお気に入りのモデルさんの写真集をつぶさに観察し、私の膝がしらは彼女らの膝がしらに負けていないことに気付いた。それからというもの、常にではないけれど、例えば友達と椅子に座って談笑している時に何気なく足を組んだときにむき出しの膝がしらを眺める。なるほど悪くない膝がしらだとその子の美を褒める。そうして私も足を組み自分の膝がしらを眺める。これは優れたる膝がしらであると認めざるを得ない。私はひとり勝ち誇った気分になる。けれども普通、人は膝頭をあまり見ることがない。私は私の膝がしらを美しい事を人に言ったことは無い。仮に誰か男の人からあなたの膝がしらは美しいと言われても狼狽する。その男の人が私の全身をなめ回すように見つめて私の膝がしらの美を見出したとしたらちょっと怖い。あるいは常日頃から世の女性の膝がしらを批判、検討、自己分析、再解釈を繰り返しながら観察しているのならかなり怖い。好みの美少年だったとしてもごめんこうむりたい。そうして膝がしらに美を求め誇りにしていることが何だかバカらしくなったので高校に入ると人の膝がしらも自分の膝がしらも気にしないようにした。誇りにならないものを誇りにしてもしょうがないのである。
結局のところ、私は人よりも尋常ならざるレベルで容姿にこだわっているものの自分の容姿には一向に自身が持てないでいるのだ。