絶望からは逃れられない
カトレアの耳がピコピコと動いている。音で周囲を探っているのだろう。目で確認しないのは、目の前にいる魔族から視線を逸らせば、その瞬間に死んでしまうかもしれないからだろう。そんなカトレアの様子に、魔族は嘲笑している。
「おいおい、まだ逃げようとしてんのか?無理無理、もう逃げられやしねえよ。俺の方が速いからな」
魔族の言葉にも無反応だった。よっぽど集中しているらしい。ただ、その姿は魔族には滑稽に映るようだった。
「まあ、逃げられる可能性はあるぜ?その男を捨てていけば、逃げられるかもな?」
確かにそうすれば逃げられるかもしれない。カトレアの身体能力はかなり高い。魔族が僕を襲ってくる間に、カトレアだけ逃げるということならできるはずだ。
「……そんなことはできません」
「ああ?もしかして恋人かなんかなのか?無駄だっての。大体、どっちかしか助からねえんなら、お前も自分の命が助かることを望むだろ?愛とかそういうの要らねえから」
カトレアは黙っている。腕の力が強まったことから、魔族の言葉に否定していることがわかった。僕としては困惑しかない。
『カトレア、もういいよ。ここで降ろして、先に逃げて。そうすれば、カトレアは逃げられるよ』
『……嫌です』
僕からも《テレパシー》を使って伝えてみたものの、返って来たのは端的な拒否の言葉だけ。何が何でも二人で逃げるつもりらしい。
そんなときだった。魔族の近くにある建物が唐突に崩れる。降り注ぐ瓦礫の雨は魔族を押しつぶそうとする。カトレアが動いたのはこのときだった。魔族の注意が逸れた、今しかないと考えたんだろう。
負ぶっている腕を再度強く締め、一気に走り始める。恐らく、カトレアが出せる限界以上のスピードだったように思える。景色がすごい勢いで通り過ぎていき、風を切るような音も聞こえる。時折他の魔族もいたけれど、みんな他のことに夢中なのか、僕たちの方をちらりと見て元の場所へと視線を戻した。
「このまま……ッ!」
この国を通る際に通った門が見えた。外へと目をやれば、国外へと逃げ出そうとしている人々がいる。あれが他の避難民なのだろう。カトレアはほっとしたように、少し肩を弛緩させる。けれど、まだ危険ということはわかっているのか、そのままの速度で門を潜り抜ける。
――――否、通り抜けようとした。
その瞬間何かの影が躍り出て、カトレアを吹き飛ばす。不意打ちを受けたカトレアはボールのように飛ばされたものの、流石の身体能力ですぐに受け身を取った。勿論、僕には傷すらついていない。
再び前方に目を向けると、先ほどの魔族がそこには立っていた。魔族は欠伸をしながら、口を開く。
「あーあー、おっせえなあ。遅すぎて欠伸が出ちまうぜ。かくれんぼは得意でも、鬼ごっこは苦手ってか?」
「……ッ!?どうして………!?」
「普通にお前の後ろを走ってたんだよ。ついてくのなんか簡単だったぜ?」
魔族が絶望的な言葉を吐く。カトレアは目を見開き、そして少し納得したようだった。通った道にいた魔族たちは他のことに夢中だったのではない。単に、他の魔族の獲物だったから手を出さなかっただけだった。そして、全力を出しても逃げられない魔族。これはもう、駄目だろう。
ちらりと後ろを見れば、新しく魔族が現れている。挟み撃ちをされたのだ。カトレアは顔を強張らせながら、足を一歩引いた。
「さてと、命乞いをするなら今だぜ?お願いします、どうか私だけは助けてくださいってな?」
「……そんなことはしません!」
カトレアはやはり拒否する。魔族は面白くなさそうに、後ろの魔族たちに指示した。
「あっそ。じゃあ、もういいわ。お前ら、殺しとけ」
「カトレア!なんとかして逃げろ!いいな!」
魔族が襲い掛かろうとしたとき、クロがヒョウの魔族に飛び掛かった。そちらの方が実力が高いと思ったのだろう。カトレアは頷き、その場から逃げ出した。魔族たちは妨害しようとしたものの、フェイントを混ぜた回避行動に対応しきれず、逃してしまう。そのまま逃げ出そうとしたものの、更なる悪夢は続く。
「おお、どうした兄弟よ。手間取っているようじゃないか」
新しく現れた魔族。その魔族は、ヒョウの魔族と似ていた。違うのはトラであることだけだ。こいつもさっきのやつと同じく、身体能力が高いのだろう。もうクロはここにいない。逃げられることはないのだろう。
《テレポート》でカトレアの背中から降りた。カトレアは驚いて僕を見たけれど、それを無視する。
「んん?どうしたのだ?」
「後ろの子を見逃してあげてよ。いいでしょ?」
「ふむ……何故お前がそうするのだ?」
魔族は僕の意図に気付いたみたい。だから、聞いてるんだと思う。
「僕はもう疲れたんだよ。これ以上生きたいとは思ってないし。だからかな。それで、返事はどうなの?」
「……いいだろう、女には手を出さないでやる」
「そう、わかった」
僕はカトレアの方を一度見やり、ぽつりと呟いた。
「……今までありがとね。それじゃ」
目の前に視線を戻すと、魔族の爪が迫ってきていた。死ぬときくらいは、今までのことを思い出しても構わないだろう。そう思って、目を閉じる。
何秒経っただろうか。いつまで経っても襲ってこない痛みに違和感を覚え、目を開く。
そこにいたのは……胸を貫かれ、血が滴っているカトレアの姿だった。
次回、衝撃の展開が………?